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正統派メイド喫茶

 私は憮然とした表情で目の前のオムライスを睨め付けた。いや、確かに呆然とした気はするのだが、それはもう、憮然というよりも顔を顰めた、といった方がより正確であろう。

 対面の席についてニコニコと気味が悪いほどの笑みを浮かべながら、同じようなオムライスを眺めている友人が、精神的な苛つきを更に加速させていく。

 座席の横合いから手が伸びてきて、何ともお粗末な小さいオムライスにケチャップで何事か文字を書き付けていく。ケチャップで描かれているからか、それとも単に下手なのか、酷く読みづらいそれは「にゃん」と読めなくもない。そして、それが最後にハートマークで囲まれていく。

 まぁ、字が読みづらいのは譲歩しよう。そもそも読んで意味があるものでもなければ、ケチャップで書いているのだから下手になっても仕方が無い。だが、このサイズのオムライスでこれだけケチャップを使ったら明らかにやり過ぎだ。全体へ丁寧に伸ばしたとしても、舌がケチャップ以外に何も感じなくなるほど濃くなりそうだ。

 これがお値段なんと一六〇〇円。少しお高いオムライス専門のチェーンレストランなら、気に入りのメニューをサイズ大に変更した上で食後にドリンクを付けてもまだお釣りが来る値段設定だ。

 そして、その横でうっすら湯気を立てる安っぽい量販品のティーカップの中の液体は、恐らく鍋で温めたであろう紙パックの紅茶だ。何となくだが覚えのある匂いをしている。忙しくて定職屋に入る暇が無くて、コンビニで昼食を済ませる時によく嗅ぐ匂いであった。

 この一杯分で原価が三〇円もしないであろう、ソーサーさえ敷かれていない紅茶がお値段六〇〇円。メイドさんのレモンなる謎サービスを追加しら二〇〇円追加で、よく分からない図案にカットされたそれを、対面の友人は紅茶に浮かべていた。

 これで合計二二〇〇円の出費である。よく考えないでも採算が合わなかった。馴染みの喫茶店で少し御高めの水出しコーヒーを頼みクラブハウスサンドと食べ、更に一回お代わりしても、まだ缶コーヒーを更に買えるだけの値段だ。

 こいつは、それだけの金を腹も一杯にならない適当な物に突っ込んで、何が楽しいのだろうか。同じ額を付き合いで払う羽目になっておきながら、自分の事は棚上げにして心の底からそう思いつつ、私は目の前の、今となっては忌まわしい友人を見つめた。

 「おいおい、どうした、何か暗いな」

 分かってほざいているのならば、今すぐにでも紅茶を耳から流し込んでやりたくなる。だが、こいつはきっと素だ。大学で四年間の付き合いがあれば、流石にそれくらいは分かる。

 大学でできた友人という物は、人生で最も長続きする友人だと世間で言われる通り、確かに同学部で同じサークルに入っていた此奴との付き合いは長い。現に、大学を卒業して外資系企業で営業なんぞやっている今でも、休日に会ったり夜にチャットしたりする程度の付き合いがある。

 だからこそ、貴重な休みに買い物に付き合ったのだ。まぁ、ごらんの有様の訳だが。

 「どうかなさいましたかぁ? ご主人さまぁ」

 友人の声に反応したのか、ケチャップの持ち主が此方に向き直り、妙に鼻に掛かった声を上げる。態とらしいそれに、一瞬だが神経が逆立つ。

 そこにはメイドが居た。まごう事なきフレンチメイドである。

 ピンクの合成繊維で出来たドレスにパフェか何かか、と突っ込みたくなる程ふんだんに縫い付けられたフリルの山。その上に着ているエプロンも白いが妙なてかりやラメの入った目に五月蠅い物で落ち着かない。何よりも違和感が大きいのは、頭の上に乗っけられた猫耳付きのメイドキャップだ。

 挙げ句、スカートは膝上何センチなんだと思う程短く、その下から尻尾が覗いている上につけまつげもビンビンで化粧は絵の具か何かのように濃い。まごう事なきフレンチ……いや、今ではジャパニーズメイド、などと揶揄されるようになったメイドらしきものだった。

 元来、フレンチメイドとはフランスのメイドは服装規定が緩くて下品だ、という事に由来し、スカートが短かったりしたら大抵はそう言われる。だが、日本のメイド喫茶にポップするタイプのメイドは更に過激な傾向があるので海外ではジャパニーズスタイルなどと呼ばれる事もある。兎に角、目の前にいるメイドはそんな存在だ。

 何故そんなメイドとエンカウントしているのかというと、言うまでも無くメイド喫茶に居るからだ。自称本格派メイド喫茶“ひめりんご”の座席に、私は友人に引きずり込まれて座っている。

 こんな店に入る理由は単純勝つ明快だ。私達が、そういう趣味を持っているからに他ならない。まぁ、今となっては此奴と趣味が合っていたのか激しく疑問に思うが。

 とどのつまりはオタクだ。社会人になっても細々とアニメを見たり漫画を読んだりラノベを買って並べていた。同じように地方の銀行マンになった目の前の友人もとい馬鹿もそうだ。だからこそ、大学で一緒になったのだろうが。

 とりあえず、その繋がりで私達は大阪のオタク文化の集合地、日本橋で魂の洗濯こと買い物をしようと企画して集まったのだ。色々と目当ての物を買い込んで、何処かで一服しようという流れになった。そこまではいい。

 だが、何故私は、この馬鹿がポイントカードやらクーポンまで持っているメイド喫茶で法外なレートの食事を摂らされているのだろうか。

 「あの~……」

 「いえ、何でもありません」

 メイド長、りんご、というプレートを胸元にはっ付けたメイドが再び声を掛けてくるが、遮って目を友人に戻す。奴は相も変わらず頭空っぽそうな笑顔を浮かべていた。

 どうでもいい事だが、メイドの筆頭となると上級使用人の家政婦と名乗るのが正確だ。ただ、家政婦というと何となく扉の隙間から覗いていそうな気がして嫌だが。

 閑話休題。頭の螺旋が極限まで緩んでぐらついている馬鹿を睨むも、奴の反応に変化は無い。楽しそうに、ケバケバしい装飾の施された店内を駆け回るメイドを眺めて悦に入っている。大抵の趣味が合う奴だったが、真逆友人関係六年目にして、こんな合わない所が見つかることになろうとは。

 「……お前、こんなの趣味だったのか?」

 言ってスプーンを小さなオムライスに突き刺した。ケチャップは伸ばさない。伸ばしたら濃くて食べられないだろうから、せめて濃い部分を先に始末して被害を軽減したかったからだ。

 「んー? まぁなー。良いだろ、メイド喫茶」

 純粋な好意で誘ってくれたのは何となく分かる。楽しいのだろう、奴としては心から。ただ、私の趣味では無い。

 とはいえ、気にくわないからと言って他人が楽しんでいる事に水を差すつもりは無いし、他人の趣味にケチを付けるつもりも無い。とりあえず、表情を軟化させねば。あんまりむっつりした面を見せられては相手も気が悪かろう。

 オムライスはハッキリ言って美味しくなかった。卵は硬く、饗するに時間が掛かったせいか冷めており、チキンライスはねっとりし過ぎて脂っこい。料理が主ではないのだろうが、もうちょっと何とかならんのか、これは。

 口に絡みつくケチャップと油を紅茶で流し込む。元々、冷やして飲む用のパックなのか、暖めても香りが薄く美味しくないのが困った。

 「良いよなぁ、メイドさん。俺も欲しいよメイドさん。家に帰ったらさぁ、笑顔で出迎えて貰えて暖かいご飯があるんだぜ? お風呂とかも沸いててさ」

 素直に結婚すればいいだろう、と思ったが敢えて口には出さない。今時、そこまで甲斐甲斐しくやってくれる嫁さんを作る方が侍女を雇うよりも難しかろうて。

 「……仕事、辛いのか?」

 妙に陶酔したようにメイドを眺めメイドを語っている友人を眺め、何となくそう問うた。確かに銀行員は激務だと聞くし、疲れで箍が緩んでしまったのだろうか。

 「ん? いや、別に。メガバンクならまだしも、家は地方銀行だからさ。国家資格が云々喧しくないし、客も少ないから激務って訳でもないしな。どっちかってーと、割と余裕ある方だと思うぞ?」

 なら、単なる趣味か。私は無心でオムライスを片付けることにした。奴もメイドさんを眺めるのに忙しいのか、殊更話題を振ってくることは無いし、それでいいだろう。もしもメイドに関する話題が出てきたら、私は正統なヴィクトリアンメイド以外認めん、と議論に発展してしまうだから返って都合が良い。くだらない事で友人を無くしたくはない。

 ふと、口寂しくなって懐を漁る。普段使いのジャケット、内側に設けられたシガレットポケットには木製のシガーケースが収まり、チョコレートのフレーバーも香しい愛用の煙草が収まっている。

 ただ、喫茶店だが、ここには灰皿が無い。多分、禁煙なのだろう。周りを見ても客が吸っている様子はない。

 つまりはそういう事だ。最近は煙草吞みには随分と生きづらい世の中になったものだな。見方を変えれば我々も高額納税者だというのに。

 溜息を吐いて、温くなった紅茶を飲み干す。嗚呼、どうせなら本格的なメイドさんに傅いて貰いたいものだ…………。











 あの後、メイド喫茶を後にした私達は買い物を続けて帰宅した。ただ、奴は追加で一五〇〇円も払って写真を撮って貰ったりしてメイド喫茶の滞在時間は随分と長い物になってしまったが。

 私の趣味では無かったが、奴は満足そうだったので、それはそれでいいだろう。私も友人と馬鹿話したり、欲しい物が買えたので相対的に見れば今日は満足だ。

 「ん……?」

 ふと見ると、職場から二駅の北大阪でも外れの方にある私のアパート、その郵便桶から何かがはみ出していた。ダイレクトメールの類いとは違うだろうし、スーパーの広告でもなさそうだ。それは、シックなデザインのエンボス製の封筒に包まれた手紙だ。

 このデータ全盛時代に年賀状以外で紙媒体の手紙が届く事は希だ。態々書いて切手を貼り、ポストまで持っていき到着と返信までの時間を待つ人間は趣味人以外に少なかろう。そういう行動に浪漫を見いだす人々は居るだろうが、少なくとも自分には、そこまで奇特な知人がいた覚えは無い。

 とまれ、成果物を脇に挟んで手紙を引っこ抜く。手紙は、それなりに分厚く封筒の素材を考えたとしても硬い。恐らくだが、中身は便せんではなくカードだろう。更にご丁寧な事に、シールではなく蝋印で封が施されていた。刻印で描かれているのは豪奢なバラだ。

 丁寧な万年筆の筆跡で私の住所と名前が書かれている。送り主は書いていなかった。何だろうか、そう思いながら部屋に戻った。

 手狭ではないが、広いとも言い難いアパートの一室。荷物を隅に纏めて置き、暖房を付けた。流石に一二月ともなると大阪であっても寒い。雪が降ることが希な気候だったとしても寒い物は寒いのだ。

 習慣となりつつある動作でパソコンを付け、ジャケットをパソコンデスクの机に引っかける。そして、くだんの手紙を改めてしげしげと眺めた。

 暗い濃緑の封筒にバラの蝋印。何とも古式ゆかしいデザインだ。眺めていても仕方が無い、さっさと開けてしまおう。

 封筒を開封するためにペーパーナイフを取り出し、蝋印を外す。中に入っているのは、想像した通り、厚紙のカードだった。

 二つ折りのカード、時期が時期なのでクリスマスカードを連想するも、そうではなかった。真っ白で四辺を唐草のモチーフで彩ったそれには、招待状と書いてあった。

 はて、紹介状なんぞを送ってくるイベントがあっただろうか、と首を傾げる。私の会社は福利厚生は割としっかりしているが、少なくとも忘年会やらでここまでかしこまった事はしてこない。部署内で連絡をする程度だ。

 その紹介状を開いたとき、私の疑問は氷解すると共にがっくりと来た。

 何故なら、そこには正統派メイド喫茶、ランカスターという文字が躍っていたのだから。つまりは、チラシのようなものだ。多分、私にだけ届いたのではなく、他の郵便受けにも同じ物が突っ込まれていたのだろう。

 ただ、少し惹かれる物がある。内容は店の住所やサービスが書いてあるのだが、黒いエプロンドレスの侍女が傅いているイラストが添えてあり、それは流行の絵柄ではなく落ち着いた、比較的写実的なタッチで描かれている。長いドレスに飾り気の少ない純白のドレスとキャップ、その姿は正しく古き良きヴィクトリアンメイドだ。

 売り文句は、正統派のメイドが旦那様のお帰りをお待ちしております、だ。これが私の琴線に触れた。

 友人と入ったメイド喫茶で、私は凄く微妙な気分になったが、その実メイドそのものは大好きだ。拘りもあって、唯一認めるのは正統派のヴィクトリアン調だけ。あの清楚な雰囲気が良いのだ。午前用のラフなメイド服も良いし、シックで落ち着いた午後用のメイド服も良い。もしも、この店でそれが楽しめるのなら……。

 場所は、意外にも近くだ。二駅向こうで此処よりも郊外にある。メイド喫茶なら日本橋が主戦場だろうに、何とも珍しい。まぁ、地方にないとは言わないが、それでも希だ。

 お品書きも、そっとイラストの隣に書かれていた。日替わりのケーキが六〇〇円に紅茶が六〇〇円と普通だが、目を惹くのがチャージ料一〇〇〇円だ。チャージ量は早い話が席料である。大抵はバーのような店で請求してくるのだが、このチャージ量は最低限これだけは出せる奴以外は来るな、という指標でもある。つまりは、もしかしたらとても高級で本格的な可能性があるのだ。

 そういえば、何処かの高級ホテルにある喫茶店ではヴィクトリア調のメイドが給仕すると聞く。この店は、その類いの店なのではなかろうか。

 むくむくと、好奇心が沸き上がってくる。もしかしたら、自分が理想としていたメイド喫茶があるのかもしれない。心の何処かで、あったら行ってみたい、と夢想した物が存在しているのでは。

 一旦想像が始まると、想像は妄想へと変わり、妄想は期待と興奮を産む。自分がどれだけニッチな所を攻め、要求しているかは分かっているつもりだ。そんな、針の穴を通すような需要を満たしてくれる店は極めて希だろう。

 ふむ。今日は第四土曜日で休みだったから、明日も休みだ。社会人で特に使う事もなく金も貯まっていることだし、物は試しに行ってみるか…………。











 翌日、私は午後の陽光を浴びながら電車に揺られて、その住所を目指していた。結局、貴重な休みを何となく感じた可能性に浪費することにしたのだ。

 忙しいが故に、あまり使わない給金を下ろしてきて財布は昨日以上に潤沢だ。大金を費やすつもりは毛頭無いのだが、何となくの期待でついやってしまった。お品書きを見る限り、チャージ料を加味しても五〇〇〇円は越えまいに。

 まぁ、良しとしよう。財布に金が入っていて困る事は無い筈だ。

 のんびりとガタゴト走る郊外へ向かう電車は人が少ない。休みに人々が出かける場所は得てして都会なのだ。そんな電車に、精糖派メイド喫茶という単語に惹かれた男が一人だけ。客観的に見れば間抜けきわまりないな、格好も割と決まっているし。

 服装はシャツにズボンとジャケットで、タイさえ絞めれば、それなりのレストランで食事に行けそうな装いだ。正統派という単語に何処まで毒されれば良いのだと思うが、何となくこの方が良いと感じたのである。

 これで期待はずれだったら良い笑い物だな、と内心で自嘲していると電車は程なくして目的地に到着した。寂れた地方の駅だ、流石に改札は自動化されているものの駅前であっても人は殆どおらず活気も無い。商店街も暗く、シャッターが降りている店が目立った。

 中継地点に過ぎないが、こういった町並みは見ていて寂寥感を感じるが、何処か楽しい。人気の失せた商店街のような寂れた雰囲気は私の好むところだ。今度、廃墟でも見に行ってみようか。

 スマートフォンを起動し、マップを開く。既に、昨日のうちに調べておいた現地までの地図データを記憶済みだ。ここから歩いて一五分程で、街の外れの方だ。

 寒い中、えっちらおっちらと歩いて行く。人通りは少なく、ベッドタウンでもあるのか住居が目立つ。ただ、それでも遊び回る子供の姿は偶に目に付いた。

 今日は陽気が良いからか、暖かい事に定評のある肌着を着て歩くと軽く汗ばむ。距離は一五分ほど歩くという事は一kmと少し程度だろうか。

 次の角だ、そう思いながら疎らになった住宅街を抜けると、そこには一件の洋館が建っていた。

 いや、洋館は言い過ぎだろう。何と言うべきか、洋風のアパート、と形容するのが一番相応しかろう。こぢんまりとした洋風の建物は内部で部屋を区切ってアパートにした構造らしく、周囲は壁で囲われ、立派な庭もあった。

 風情としては、外国の田舎町にありそう、という具合だ。煉瓦造りで壁面にツタを絡ませたそこは、非常に洒落ていた。

 赤茶けた煉瓦の壁に窓枠はシンプルながらも凝った衣装の装飾がなされ、屋根には同系統だが少し明るい色の屋根瓦が拭かれている。そのどれも年月を経て風雨にさらされ僅かに色褪せてはいるものの、それは見窄らしさではなく格式と厳格さを醸し出していた。

 建物の大きさに比べて広めに作られた庭は控えめながら庭園と呼んで良いそれで、各所に小さいオーナメントが据え付けられており、小規模な物ながら建物の西側にはオランジェリーも見える。そして、真っ赤なバラの生け垣に覆われたのはガゼボと呼ばれる庭を休憩しながら眺める為の小屋だ。

 規模は小さく正式なイギリス式展望庭園とは言えないが、それでも立派な物だった。ご隠居貴族が喧噪と華美な装飾に疲れて片田舎に立てた終の住まい、何故だかそんな感想が浮かんできた。

 正門には控えめな看板が掛けられており、その横にインターコムが据え付けられている。敷地面積が広いので、インターコムを使わないと店員に届かないのだろう。

 看板の衣装は深緑に流麗な筆記体で正統派メイド喫茶 ランカスターと金色の印字で刻まれている。ああ、なる程、あの赤い薔薇が薔薇戦争で有名なランカスター家を連想させるから、このネーミングなのか。

 ……分かりづらいな。いや、もしかしたら違うのかも知れないが、こんなの世界史を細かい所まで真面目にやってた人間しか分からないぞ。ランカスターとヨーク両家共に家紋が薔薇だったから薔薇戦争、までは良いとしてランカスターが赤薔薇なんて、歴史オタじゃないかぎり分かるまいに。

 まぁ、別に良いだろう。ケチを付けた所で始まらないし、人に分からないだろうが本人が大切にする拘りなんてのはいくらでもあるのだ。とりあえず、インターコムを押そう。

 電子式のインターコムだが、雰囲気の為か鳴るのは電子音やビープ音ではなく、録音されたらしいベルの音だった。やっぱり、ここの店主は細かい所にまで拘りがあるのだろうか。

 数十秒待つと、インターコムに応答があった。向こう側から聞こえてくるのは、凛とした品のある女性の声だ。冷ややかな声には、響きだけにも関わらず怜悧な美しさを感じさせられる。

 「はい、正統派メイド喫茶ランカスターでございます。ご用件は」

 「ああ、その、客なんですが……」

 私の言葉を聞いて、暫く沈黙が返ってくる。インターコムは上げっぱなしなのだろうか、小さな紙を捲るような音が聞こえてきた。

 数秒の後、やっと返答が返ってきた。

 「申し訳ございませんが、ご予約はお済みでいらっしゃいますでしょうか?」

 は? と首を傾げた。チラシには電話番号は書いてあったが、要予約とは書いていなかった筈だ。だから、その旨を伝えると相手は暫しお待ちください、と残してインターコムを切ってしまった。

 何だろうか、予約が無いと駄目な店だったのか。

 「申し訳ありませんでした旦那様、こちら側の不手際で記載事項に漏れがあったそうです。直ぐにお迎えに上がりますので、今暫しその場でお待ちください」

 なる程、向こう側の問題だったか。なら、こちらに落ち度は無い。エスパーでもあるまいし、流石に書いてないことまで察するなんて器用な真似はできようはずもない。

 ほんの数分、スマホなんぞを弄りながら待っていると、不意に門が内側に向かって開いていった。古めかしい外見にもかかわらず、電動式の自動開閉門だったのか。

 十数メートルほど離れている建物を見やると、扉が開いて一人の女性が早足で駆けてきた。長いドレスの裾を摘んで、汚さないように気をつけながらヒールの低いコートシューズで石畳舗装された通用路を走り抜ける。

 私は思わず息を吞んだ。思考も、もしかしたら完全に止まっていたかも知れない。

 何故なら、そこには本物のメイドさんが居たからだ。

 まず目立つのは艶やかな黒髪だ。長いそれをシニョンに束ね、それをメイドキャップが彩る。予定外の事態に少し焦っているのか、僅かに強ばった顔は、それ以外に表情らしき表情は無いものの、何処までも整っている。

 大きい細長の切れ目に長い睫。眉は丁寧に揃えられており、西洋人ほどではないが東洋人としては彫りの深い顔は上品で面長な輪郭に見事なまでに精緻なバランスで部品が配されている。

 すっと通った鼻筋と意思が強そうな瞳、そして薄いが瑞々しい唇が並ぶ怜悧な美貌にはうっすらと化粧が施されていた。紅も惹かれているようだが、それは唇の色と殆ど区別の付かぬさりげない物である。

 その美貌が纏うメイド服は、これまた完璧なヴィクトリア調の伝統的な物だ。真っ黒で裾が長く装飾の無いドレス。その上に真っ白な胸元まで覆うエプロンを身につけており、僅かに翻る裾から覗くタイツは真っ黒だ。履いているコートシューズは真っ黒な革製で汚れの一つも無く陽光を反射して輝いている。

 その姿は、全ての規定を完璧に護ったメイドそのものであった。

 走ってきた彼女は目の前で歩みを止めると、軽く居住まいを正した後で深々と頭を下げた。男性の平均身長はある私とさして変わらない体躯を屈める彼女は、歪な長身ではなく腰が驚くほど高い位置にあった。それ程に足が長いという事だろう。

 「お帰りなさいませ、旦那様。大変お待たせして誠に申し訳ありませんでした。全て、女中頭である私の不徳の致すところにございます」

 彼女の声はインターコムから聞こえてきた物に相違ない。外見の涼やかさにそぐわぬ、正にこれぞ、と思う美しい声であった。

 数秒間たっぷりと頭を下げた後で、ゆっくりと体を起こし、彼女は再び頭を下げて言葉を続ける。

 「改めて、お帰りなさいませ旦那様。ようこそ、ランカスターへ」

 佇まいから行動まで、完璧だ。完全で瀟洒な……このフレーズは不味いか。兎に角、これこそメイド、というメイドだ。本来なら出迎えるのはメイドの仕事じゃないだろう、という突っ込みは受け付けない方向で行くが。

 「どうぞ、後にお続きください」

 侍女に誘われメイド喫茶とは思えない建物の中に入る。すると、シックなクリーム色の壁紙で覆われたそこは、やっぱり元々はアパートだったように思われる。ホールから伸びる廊下には片側に三つ扉があり、その何れにも不在という看板が下がっていた。

 なる程、喫茶とは言うがホールに何席もねじ込んだ喫茶店ではなく個室タイプなのか。雰囲気を出すために部屋を小分けにして出しているのだろうが、これなら確かに予約が必要だろう。

 「こちらへどうぞ」

 彼女は一番手前、グリーンの扉に掛かった看板をひっくり返して“ご帰宅”と表示された面を表にしてから、ゆっくりと扉を開いて入室を勧める。

 言われるが儘に入ったそこは、見事な迄に整った部屋であった。

 シックな色合いの壁紙に、テーブルや引き出しを初めとする落ち着いた調度が揃えられた部屋は六畳ほどの狭い物ながら驚くほどにそれっぽい。目が痛いような装飾に囲まれたホールよりも、メイドが居るに相応しいと感じる場所だった。

 壁には絵皿や小さな絵画が飾られており、窓を遮るのはレースのカーテンだ。窓の向こうには薔薇の生け垣が見えた。

 見入っていると、彼女も部屋に入り音も無く扉を閉める。そして、テーブルへと向かい如何にも上等そうな椅子を引いてくれる。

 「あ、ありがとうございます」

 「いいえ、旦那様。お気になさらず」

 私は一般市民だから、こんな丁寧に接されては恐縮してしまう。向こうとしては当然の事だから、一々礼など言われても仕方がないのかもしれないが。

 椅子に座ると、彼女は私の隣に立ち直し、スカートを摘んで頭を下げ自己紹介してくれた。

 「本日、旦那様のお世話をさせていただく、女中頭の櫻と申します。どうぞ、お気軽に櫻とお呼び付けください」

 少し失礼な事だが、研がれたナイフのような寒々しい迄に整った美貌のメイドに、櫻という名前は少し似合わないような気がした。何と言うべきか、可愛らしすぎる嫌いがある。

 まぁ、それはいいだろう。そんな事よりも、さっきから私の琴線を刺激してならないのが“旦那様”という呼び方だ。

 ご主人様ではなく、旦那様だ。意味としてはどちらも一緒で、英語にしても同じくMasterだ。しかし、なぜだか妙に心に響く感じがする。

 メイドとしての格式を保った呼びかけでありながら、ご主人様ほどのあざとさは感じない。この感覚が、何故だか分からないが非常に気に入った。うん、良いじゃないか、旦那様。

 「御茶と軽食がございますが、どちらに致しましょうか?」

 自己紹介を終え、隣ではなく後ろに控えた櫻さんに私は少し考えてから御茶を頼んだ。昼食は軽くだが済ませてあるのだ。

 「承りました。御紅茶とコーヒー、どちらもご用意できますが、どちらになさいますか?」

 品揃えに関しては特に期待はしていなかった。元よりメイド喫茶なんて、そんなものだろうと思っていたから。ただ、この雰囲気からして凄く期待できそうだった。

 「じゃあ、紅茶でお願いします」

 「承りました。それでは、茶葉の種類などに何かご注文などございますか」

 ほう、そう来たか。これでも紅茶には、ちょっとした拘りがある。何処ぞの提督のように酔いつぶれるような飲み方はしないが、それでも私はコーヒーよりも断然紅茶派だ。

 「ヌワラエリヤはありますか?」

 「勿論ございます」

 打てば響くというタイミングで返答が返ってきた。茶葉の種類から揃えているのなら、味の方にも期待できそうじゃないか。紅茶は適当な抽出の仕方をすると、香りが死んで深みもへったくれも無くなってしまうので難しい飲み物なのだが、こうも本格的ならメイドさんの可愛らしさと雰囲気以外にも期待が膨らんでくる。

 「お菓子は如何致しましょうか?」

 ふむ、お菓子か。アフタヌーンティーとなると、やっぱりスコーンやちょっとしたケーキなどのお菓子は欲しいものだ。ただ、値段がいくらか気になるが……。

 ああ、いや、メニューを持って来ないということは、そういう無粋な事は聞くな、という店なのだろう。それに、チラシには書いてあったはずだ。確か、紅茶は六〇〇円でお菓子はティースタンド一つで一五〇〇円だっただろうか。まぁ、それくらいなら痛くはないか。

 「お願いします」

 「承りました。暫しお待ちください」

 深々と傅くと、櫻さんは部屋の外に足音一つ立てずに出て行った。カーペットも高級だからだろうか、毛足の長いそれは、完璧に足音を吸収してしまっている。いや、もしかしたら彼女の足運びがそうさせているのかもしれないな。

 一分もしない内に彼女は戻ってきてしまった。どうやら、キッチンを預かるのは別の人らしい。さもありなん、流石に客を一人にして十分以上空ける訳にはいかないのか。

 彼女は再び音も立てず後ろに控える。……さて、ちょっと待てよ。もしかしたら、メイドだから要らぬ口は聞かぬ、というのだろうか。うむ、それはそれで良い。

 メイドさんを侍らせながら、上品な部屋で紅茶を楽しみに待ちながら静かな一時を過ごす。とても情緒的で心が落ち着くじゃないか。

 メイドさんを視覚的に愛でたいという気はするが、やっぱり雰囲気重視も悪くない。こう、自分が本当にメイドさんを雇える立場になったようで楽しいな。今度は雰囲気に合わせて私もスーツ着てこようか。

 椅子の背もたれに体を預け、大きく息を吐く。ここは静かだ。窓から差す陽光は穏やかでじんわりと暖かく、郊外故に人の喧噪も車の騒音もない。自然が豊かだからか、時折遠方より鳥の囀りが聞こえてくるだけだ。

 のんびりと待っていると時間などあっという間に過ぎる。これが、やる事も無く何くれも無しに待っている時間なら苦痛だが、今はのんびりゆったり雰囲気に浸っている。強いて言うなら、何もしていないのではなく、ゆっくりしているのだ。心が落ち着きこそすれ、苦痛ではなかった。

 後ろに感じる静かな人の気配も悪くない。しかも、それがとびきり美人のメイドさんともなれば尚更だ。うん、これだけで来て良かったと思える。チャージ料で一〇〇〇円取られても痛くないな。

 どれほど浸っていただろうか。ゆっくり流れる時間で日々の労働とストレスでささくれ立っていた精神が元に戻るのを楽しんでいると、扉がノックされた。

 気を抜いてはいたが、突然の音に飛び上がるような事は無かった。心が落ち着いていれば、突然の事でも心をかき乱しはしないらしい。

 ……沈黙。ああ、そうか、私が許可しないといけないのか。そりゃそうだ、この場においては一応、主人という体なのだから。

 どうぞ、と入室を促すと、これまた綺麗な声が響いた。櫻さんの声を鈴のようだとするならば、此方は澄んだ木琴のような軽やかさと美しさだった。

 「失礼致します」

 紅茶のポットやティースタンドが乗ったカートを押して来たのもやっぱりメイドさんだった。メイド喫茶だから当然なのかもしれないが。

 服装は櫻さんと全く同じ、ロングのエプロンドレスを纏った上品なヴィクトリアンメイドだ。ただ、彼女は櫻さんとは対称的に、とろけるような柔らかな美貌をしていた。

 大きな垂れ目は可愛らしくも何処か眠たげに緩み、左は泣き黒子に彩られている。鼻は高いとも言えないが低くも無く、しかし形は整っていた。櫻さんの物より幾分大きく、頭部の全体を覆うメイドキャップから溢れるのは、先端に向かって緩くカーブを描く黒髪。陽光を反射するそれは、黒曜石のような魅惑的な光を放っている。黒髪の縁取る輪郭は丸っこく、唇はぽってりと厚いがもいだばかりの果物を連想させる瑞々しさがある。全ての部品を総合してみれば、何とも優しそうな雰囲気を醸し出す美人さんだった。

 やはり背は高い。一六〇cm程はあるだろうか。しかし、細くしなやかな櫻さんとは対称的に彼女の体躯はふくよかで起伏に富んでいた。

 正しく、とろけるような美貌だ。どれだけ気むずかしい子供でも、彼女の慈母が如き笑顔を前にしたら大人しくなることだろう。

 彼女は、カートを中に入れ、扉を閉めてから私に向き治り、深々と傅いた。

 「お初にお目にかかります旦那様。私、料理人と客間女中を兼ねております椿と言います。どうかお見知りおきを」

 頭を下げる彼女の自己紹介を聞き、ふと勝手な事を思ってしまった。どちらかというと、この二人は名前を取り替えっこした方が似合うのでは無いだろうか、という勝手な物だ。

 「それでは失礼致します」

 一言断ってから、彼女は私の前に粛々とアフタヌーンティーの準備を済ませていく。カップとソーサーに小皿などの食器具。全て上質な物だ。はて、このボーンチャイナはもしかしたらロイヤルウースターではなかろうか。そこまで陶器に詳しくないから分からないが、これは相当に値の張る物だと思う。

 ただ、私としては陶器よりも興味があるのがティーポットとティースタンドだ。ティーポットには温度を下げない為にカバーがかけられており、二段のティースタンドには色とりどりの菓子が乗っていた。

 これは素晴らしい、と思わず息を吞む。スコーンが三つにマカロンが二つ。ジャムの小鉢にはアプリコットやブルーベリーだけではなくクロテッドクリームも小分けにして入っている。

 下段に乗っているのは小ぶりなアップルパイだ。四角いパン生地の上にリンゴのコンポートを乗せただけのシンプルな物。貴族的ではないが、雰囲気が雰囲気だけにシンプルな方が返って似合っている。

 これだけ乗って一六〇〇円となると、値段としての価値は十分にあるだろう。何せ、アップルパイにはシナモンが振りかけてあるだけではなく、その上小さくバニラアイスも添えられているのだ。

 素晴らしいな、と感嘆していると、椿さんがティーポットのカバーを外してカップに紅茶を注ぎ入れた。するとどうだろう、何とも官能的で香しい匂いが広がってきた。

 カップに湛えられたのは淡いオレンジの色合いを持つ紅茶、セイロン島で作られるヌワラエリヤという種類の紅茶だ。鼻腔を抜ける爽やかで甘い香りと愛らしいオレンジ色が特徴だ。

 紅茶の抽出温度、葉がお湯の中で開いて成分が一番滲み出るのは九〇℃という高温の中だ。適切な温度と適切な量、そして適切な手順を以て抽出された紅茶が放つ香りは官能的ですらある。たったカップ一杯の液体が、部屋を満たすほどの芳香を放つのだ。しかして、その香りは諄くなく、例え至近であっても優しく鼻腔を擽る。

 「それでは、ごゆっくりどうぞ。失礼いたしました」

 陶酔するような香気に浸っていると、椿さんは礼をして部屋を辞した。あまりに自然な動きで、声を聞いても一瞬彼女が部屋を出て行ったのが分からないほどだった。彼女は客間女中で料理人だという、なら、キッチンに詰めているのが仕事なのだろう。

 料理人は家中において他の使用人とは別の位置に置かれ、尚且つメニューに関しては主人でも口出しできない程に強い権限を持っていると言われている。伝統的な雰囲気を護っているのならば、彼女も同じなのだろうか。

 それはさておき、今は御茶だ。再びカバーがポットに施されたという事は、もう一杯ほどは入っているのだろう。なら、遠慮無く味わうとしよう。

 一応、ミルクは温かくしてサーブしてくれているが、砂糖と同じく入れない。ヌワラエリヤはストレートで嗜むのが一番なのだ。ウヴァやルフナならばたっぷり入れるが、やはり一番あった飲み方をするのが良い。

 白いカップに口を付け、音を立てぬようにそっと含む。抽出されたばかりの紅茶は熱いが、口腔に空気と共に入り込んで鼻に抜けていく香気は何よりも心地よい物だ。そして、舌に伝わる熟成された渋みと、その中で微かに存在を主張する果実のような甘みが口に楽しい。

 すっきりとした爽やかさと透明感を感じさせる味は、その爽快さを体現するように飲み終わった後舌に味が残らない。ただ、高貴な残り香だけを置いて雑味を全て拭ってしまう。茶菓子に合わせるには最高だった。

 今度はスコーンを手に取る。まるで、羽のような軽さのスコーンだ。クロテッドクリームとアプリコットジャムを重ね塗りして頂くが、これもまた美味しかった。歯に伝わるさっくとした食感に、溢れるバターの香気と風味。強いクリームとジャムの味に負けておらず非常にマッチしていた。

 一つ堪能した後で、今度は次の組み合わせを試そうと思いながら紅茶で味を洗い流す。後味を残さないヌワラエリヤは、本当にお茶菓子を食べる際に最適だった。

 今度はマカロンに手を伸ばす。焦げ茶色のパリ風マカロンの間にはガナッシュ、生チョコがサンドされていた。小ぶりなそれを一口で食べきるのだが、これもやはり美味だった。生地はしっとりしていて味は微かだがココアの苦味がある。そこにガナッシュのとろけるような甘さが混ざって調和を産む。口の中で混ざり合う二つは、完璧なハーモニーを奏でていた。

 紅茶を更に一口含んで一服。さて、いよいよメインのアップルパイだ。とりあえず全部少しずつ食べてみよう。お行儀は宜しくないかも知れないが。

 四角形のパイ生地の上に乗ったリンゴのコンポート。コンポートは柔らかそうで、焼き上げられて尚も艶を放ち、卵黄を塗られたであろうパイ部分の煌めきも美しい。私はフォークで軽く突いて切り分けようとすると、パイ生地部分はびっくりする程にさっくりと割れた。

 室温で僅かに解けたアイスクリームを掬って乗せ、一緒に口に入れる。すると、どうだ。あまりの美味さに言葉と感想が暫く出なかった。

 アップルパイという物は難しい。コンポートの味が薄いと物足りなく、濃いと諄くて食べられた物では無い。丁度良い部分が何処までも微妙で絶妙なのだ。その点に関して、このアップルパイは完璧な甘さだった。諄くなく、さりとて弱くも無い甘みは芳醇に伝わってくる。パイの灼かれた小麦と砂糖の味がコンポートを引き立て、硬いのに脆い食感がそれを引き立てていく。そして、極めつけはバニラアイスだ。

 牛乳の柔らかな香りと混ぜ込まれたバニラエッセンスの香りがアップルパイの甘みと混ざり合い、また異なる味を演出する。リンゴの爽やかな甘みとバニラの澄んだ甘さは例えようも無く噛み合っている。リンゴのコンポートはどちらかと言うと濃く口に残る味だが、さっぱりとしたアイスが唯一の欠点であるしつこさを消している。淡い雪の如く混ざり合った美味を飲み込んだ後には、紅茶を必要とするまでも無く殆ど味は残っていなかった。

 深く深く嘆息し、フォークを置く。ゆっくり紅茶を味わっていると、いつの間にか一杯飲み干してしまっていた。

 「お代わりは如何でしょうか、旦那様」

 「ああ、貰おうかな」

 「かしこまりました」

 櫻さんが丁寧にカップへと紅茶を注いでくれている。時間は経っているが、カバーでの保温が効いているからか香りに衰えは無い。素晴らしい。今まで色々な喫茶店を回ったが、これほどに完成されたサービスは初めてだった。

 綺麗で美人なメイドさんに美味しい紅茶とお菓子雰囲気に浸れる静かで落ち着いた環境、これは正しくこの世の楽園だ。

 また絶対に来よう。そう思いながら、私はフォークを手に取った…………。

 本日午後、府内の大学生が現行作品を終わらせないままに現実逃避で性癖の発露を行い逮捕されました。飯テロがしたかった 派手なメイドはもういいんだよ 等と意味不明な供述をしており犯行動機は未だ不明とのこと。図解 メイド などという怪しい書籍を所持しており、事件との関連性を調査中。

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