【妹視点】姉が辺境伯に嫁いだ途端、私の縁談が三件とも消えました
「クラリッサ様。このたびの縁談は、白紙に戻させていただきます」
「……はい?」
私は、目の前の使者が何を言っているのか理解できなかった。
エーレンベルク伯爵家の次女、クラリッサ・エーレンベルク。十八歳。
金髪碧眼の美しい令嬢として、王都の社交界ではそれなりに知られている。
お父様は、いつもおっしゃっていた。
『クラリッサこそ我が家の宝だ。リーゼはお前の引き立て役にすぎん』
リーゼとは、四歳年上の姉のことだ。
茶色の髪に灰色の瞳。地味で、いつも帳簿や書類に囲まれている人だった。
そのお姉様が、三か月前、北方のグランフェルト辺境伯に嫁いだ。
正直、驚いた。
けれど、辺境伯領は王都から遠い。
私は、もっと素晴らしい方と結婚する。
そう信じていたのに。
「……なぜですの?」
私は、ヴァルデン侯爵家の使者を見つめた。
相手は侯爵家の嫡男。正式な婚約前とはいえ、両家は具体的な条件を話し合っていた。
「ご提出いただいた釣書について、事実と異なる記載が確認されまして」
「……釣書?」
「外国語の習熟度、領地会計の管理経験、慈善事業の実績などです。実際に担当されていたのは、リーゼ様ではありませんか?」
胸の奥が、ちくりとした。
「……お姉様?」
「加えて、リーゼ様の持参金が、クラリッサ様の婚礼準備に流用されていた件も確認されました」
「そ、それは……お父様が……」
「事情は承知しております。しかし、我が家としては、これ以上お話を進められません」
使者は深々と頭を下げ、退室した。
……どうして?
どうして、私が断られるの?
◇◆◇
「ヴァルデン侯爵家め! 何様のつもりだ!」
お父様は激怒した。
「我が家のクラリッサを断るなど、見る目がない! もっとよい縁談を用意してやる」
私は、ほっとした。
そうよね。私が悪いはずはない。
ところが、一週間後。
二件目の縁談も断られた。
さらに十日後。
三件目まで、顔合わせの前に白紙になった。
理由は、どれも似たようなものだった。
釣書の虚偽。
伯爵家の財産管理。
そして、姉への仕打ち。
「全部、リーゼのせいだ!」
三件目の破談が決まった夜、お父様は酒杯を机に叩きつけた。
「あいつが辺境伯に嫁いでから、ろくなことがない!」
「……そうですわね」
私は頷いた。
けれど、以前のように心から同意できなかった。
「安心しろ、クラリッサ。お前は美しい。それだけで十分だ」
いつもなら嬉しかった言葉。
でも、その日は胸の奥が冷たくなった。
――美しいだけで十分。
だったら、どうして三件とも断られたのかしら。
◇◆◇
翌朝、私は自室で釣書を広げた。
【外国語:三か国語に堪能】
【領地会計:管理経験あり】
【慈善事業:孤児院支援活動を主導】
【特技:刺繍、詩作、舞踏、乗馬】
三か国語?
挨拶くらいならできる。でも、難しい会話は無理だ。
領地会計?
帳簿を見たことはある。実際に計算していたのはお姉様だった。
孤児院支援?
一度だけ訪問した。寄付金の管理や物資の手配は……お姉様。
私は、釣書を握りしめた。
まるで、私ではない誰かの経歴が書かれているみたいだった。
そのとき、使用人たちの噂を思い出した。
『リーゼ様は、王都の婚活相談所に通っていらしたそうですよ』
当時の私は笑っていた。
自分では結婚相手も見つけられないなんて、お姉様らしい、と。
でも、お姉様は結婚した。
私は三件とも断られた。
気づけば私は、外出用の帽子を手に取っていた。
◇◆◇
王都の路地裏。
大通りから一本入ったところに、その建物はあった。
『縁結び相談所』
ずいぶん地味な看板だ。
扉を開けると、くたびれた服を着た中年男性が座っていた。
しかも、机の上には緑色のスライムが乗っている。
……なぜ、スライムが?
「いらっしゃいませ。婚活のご相談ですか?」
「……あなたが相談員ですの?」
「はい。成田と申します」
「リーゼ・エーレンベルクをご存じ?」
「リーゼさん? はい。以前、ご相談を受けました」
「私は妹のクラリッサです」
「……そうでしたか」
成田さんは、静かに頷いた。
私は釣書を机に置いた。
「私にも、よい結婚相手を紹介してくださいませ」
「わかりました。まずはお話を聞かせてください」
◇◆◇
「クラリッサさん。外国語がお得意なんですね」
「ええ、もちろんですわ」
「三か国語に堪能、とありますが、どのくらいお話しできますか?」
「……挨拶なら」
「では、こちらの『外交文書の翻訳経験あり』というのは?」
「それは……お姉様が翻訳したものです」
「領地会計の管理経験は?」
「……帳簿を見たことはあります」
「実際の管理は?」
「……お姉様が」
「孤児院支援活動を主導、とありますね」
「訪問したことはあります」
「寄付金の管理や、物資の手配は?」
「……お姉様です」
……。
何なの、この人。
どうして、そんなことばかり聞くの?
「刺繍は?」
「少しなら」
「詩作は?」
「先生に添削していただいて……」
「乗馬は?」
「……馬に乗ったことはあります」
成田さんは、最後まで話を聞いた。
そして釣書を机に置いた。
「クラリッサさん。少し厳しいことを申し上げてもよろしいですか?」
「……どうぞ」
「この釣書、あなたの経歴というより、お姉さんの経歴になっていませんか?」
胸の奥を、何かで突かれたような気がした。
「そ、そんなこと……」
「実際に担当していない仕事を、自分の実績として書くのはよくありません」
「お父様が、そう書くようにと……!」
「そうだったんですね」
「私が勝手に書いたわけではありませんわ!」
「はい。そこは大切な事情だと思います」
成田さんは静かに頷いた。
「ただ、これから結婚するのは、お父様ではなく、クラリッサさんですよね」
私は何も言えなかった。
◇◆◇
「……お姉様は、どんな釣書を書いていたのですか?」
気づけば、私は尋ねていた。
「詳しい内容は、ご本人の許可なくお話しできませんが」
成田さんは少し考えた。
「最初は、ご自分の長所がわからないと悩んでいらっしゃいました」
……お姉様が?
「でも、誰かが困っていたら自然に手を貸せること。細かい仕事を投げ出さないこと。相手の話を最後まで聞けること。そういうところを評価してくださる方がいたんです」
私は、お姉様を思い出した。
朝から帳簿を整理し、使用人の相談を聞き、お父様に頼まれた書類を作る。
それでも、私が新しいドレスを見せると、
『よく似合っているわね』
と笑ってくれた。
私は、その笑顔を当たり前だと思っていた。
「……成田さん」
「はい」
「私には、何があるのでしょう」
自分でも驚くほど小さな声だった。
成田さんは、少し考えてから言った。
「それを、一緒に探しましょうか」
机の上のスライムが、ぽよんと跳ねた。
『――おじさん、今のいいこと言った!』
「……ミドリ、聞いてたの?」
『――ずっと聞いてた!』
「……スライムが喋りましたわ」
「簡易念話です。驚かせてすみません」
成田さんは、少し困ったように笑った。
なぜだろう。
その姿を見ていたら、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
◇◆◇
それから、私は相談所へ通うようになった。
最初にしたことは、釣書の書き直しだった。
「クラリッサさん。好きなことは何ですか?」
「……わかりません」
「では、最近楽しかったことは?」
私は、しばらく考えた。
「……お花を飾ったことです。屋敷の玄関に飾る花を選んだら、使用人が喜んでくれたんです」
「それは、いいですね」
「でも、いつもはお姉様が選んでいたので……」
「今回はクラリッサさんが選んだんですよね」
「……はい」
「それなら、あなたの経験ですよ」
そんなこと、考えたこともなかった。
次の相談では、宿題を出された。
「今度までに、誰かの役に立ったことを一つ教えてください」
私は困った。
誰かの役に立つなんて、考えたこともなかったから。
◇◆◇
その帰り道。
屋敷の裏庭で、若い侍女が花瓶を割ってしまったところに出くわした。
「申し訳ございません、お嬢様!」
侍女は真っ青になって頭を下げた。
以前の私なら、きっと叱っていた。
でも、その日は違う言葉が出た。
「……手を切っていない?」
「え?」
「破片で怪我をしていないかと聞いているの」
「……だ、大丈夫です」
「そう。なら、よかったわ」
私は散らばった花を見つめた。
「花瓶は別のものを用意しましょう。お花は、まだ使えそうね」
「……お嬢様?」
「一緒に飾り直しましょう」
侍女は驚いたあと、泣きそうな顔で笑った。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見たとき、胸の奥が少し温かくなった。
◇◆◇
次の相談でその話をすると、成田さんは嬉しそうに頷いた。
「それは、よかったですね」
「でも、私は片づけを手伝っただけです」
「それで十分だと思いますよ」
成田さんは、白い紙に書き込んだ。
【好きなこと:花を飾ること】
【得意なこと:人と話すこと】
【大切にしたいこと:相手の気持ちを考えること】
立派な経歴ではない。
でも、初めて自分のことが書いてある気がした。
「……成田さん。私、今までお姉様をずっと見下していました」
声が震えた。
「お姉様は地味で、私より価値がない人だと……。でも、私が自慢していたことのほとんどが、お姉様のしていたことだったんです」
涙が、ぽろりと落ちた。
「私、ひどい妹でした」
成田さんは静かに言った。
「クラリッサさん。過去にしたことは、なかったことにはできません」
私は俯いた。
「でも、これからどうするかは選べます。お姉さんに謝ることも、自分の力で生きていくことも」
「……選べる?」
「はい。もちろん、謝ったからといって許してもらえるとは限りませんけどね」
その言葉は、少し痛かった。
でも、初めて誰かが本当のことを言ってくれた気がした。
◇◆◇
その頃、伯爵家では問題が起きていた。
お姉様が嫁いでから、屋敷の仕事が回らなくなっていたのだ。
使用人への給金の支払いが遅れ、領地から届く報告書は積み上がるばかり。
ある日の夕方、私は執務室から聞こえる会話に足を止めた。
「旦那様。このままでは、来月の支払いに支障が出ます」
「何だと!」
「リーゼ様が管理されていた帳簿を、引き継げる者がおりません」
「そんなもの、誰でもできるだろう! ならば、リーゼを呼び戻せ!」
私は息を呑んだ。
「辺境伯夫人になったからといって、実家への恩を忘れるとは何事だ!」
……お姉様を、呼び戻す?
あれだけひどい扱いをしておいて?
私は、初めてお父様に対して怒りを感じた。
そして、これまでお父様の言葉を疑いもしなかった自分が、恥ずかしかった。
◇◆◇
数日後、お父様が私を執務室に呼びつけた。
「クラリッサ。新しい縁談を用意したぞ」
相手は五十代の裕福な商会主だった。
年齢や婚姻歴が問題なのではない。
ただ、相手の希望には『若く美しく、社交の場に同伴できる妻』とだけ書かれていた。
私の考えも、将来の希望も、何一つ尋ねられていない。
「……お父様。この方は、私が何を好きなのかご存じなのでしょうか」
「そんなことは、結婚してから知ればよい! お前は美しい。それで十分だ」
私は、深く息を吸った。
「……お父様。私は、この縁談をお受けしません」
「……何だと?」
「お断りします」
お父様の顔が、みるみる赤くなった。
「誰に向かって口を利いている!」
「……お父様に、です」
「お前の結婚は、家のためにあるのだ!」
「でも、結婚するのは私です」
お父様が言葉を失った。
「私は、自分で相手を選びたいのです」
声は震えていた。
それでも、言えた。
生まれて初めて、私はお父様の決めた道を断った。
◇◆◇
もちろん、それですべてが解決したわけではない。
お父様は激怒し、私の外出を禁じようとした。
けれど、私は王都の法務窓口に問い合わせ、成人した貴族女性の権利を調べた。
お父様が結婚相手を推薦することはできても、私の同意なしに婚姻を成立させることはできない。
そんなことすら、私は知らなかった。
そして、ずっと避けていた問題も確かめた。
お姉様の持参金のことだ。
帳簿には、私のドレスや宝飾品の購入に使われた記録が残っていた。
お姉様の結婚が決まった際、伯爵家は借り入れを行って返済していた。
私は宝石箱を開けた。
お姉様のお金で買われた、私の宝石。
それを身につけて、私は何度もお姉様を笑った。
……最低だわ。
私は、自分に贈与された宝石を売却した。
そのお金を、未払いになっていた使用人の給金の一部に充てた。
伯爵家が支払うべきものを、私がすべて肩代わりできるわけではない。
それでも、何もしないままではいられなかった。
その話を聞いたお父様は激怒した。
「勝手なことを! お前のものは伯爵家のものだ!」
「いいえ。私に贈られた品です」
「誰にそんなことを吹き込まれた!」
「自分で調べました」
お父様が目を見開いた。
「それから、お姉様に仕事を頼むのであれば、正式にお願いしてください」
「……何?」
「お姉様は、もうこの家の使用人ではありません」
「実の父親に向かって、何を言う!」
私は、初めてまっすぐ父の目を見た。
「お姉様は、ずっとこの家を支えていました。私たちは、それを当たり前だと思っていました。でも、私はもう、当たり前だとは思いません」
お父様は何も言わなかった。
ただ、顔を真っ赤にして私を睨んでいた。
◇◆◇
それから一か月。
伯爵家の評判は、さらに悪くなった。
持参金を返還するための借り入れは残り、領地の財政管理にも問題が見つかった。
取引先の商会は契約条件を見直し、お父様の新しい事業も資金調達が難しくなった。
ある日、私は執務室の前でお父様の声を聞いた。
「リーゼに手紙を出せ!」
「すでに三度お送りしております」
「ならば四度目を送れ!」
「……辺境伯家からは、正式なご依頼であれば文書で内容を提示するようにと」
「実の娘だぞ! 親を助けるのが当然だろう!」
私は、静かにその場を離れた。
お姉様は、もう戻らない。
きっと、それでいいのだと思った。
◇◆◇
私が相談所へ通い始めて、二か月が経った頃。
成田さんが、一枚の書類を差し出した。
「クラリッサさん。お見合いをしてみませんか?」
「……私に?」
「もちろんです」
「でも、私の釣書は……」
「書き直しましたよね」
成田さんは笑った。
【外国語:基本的な挨拶が可能】
【得意なこと:花を飾ること、人と話すこと】
【現在学んでいること:帳簿の読み方、家計管理】
【大切にしたいこと:互いの考えを尊重できる関係】
「……こんな釣書で、よろしいのでしょうか」
「いいと思いますよ」
「でも、以前よりずっと地味ですわ」
「そうですね。ただ、こちらの方がクラリッサさんらしいと思います」
私は、紙を見つめた。
以前の釣書は、誰かに褒めてもらうためのものだった。
でも、今の釣書は。
私が、私として生きるためのものだ。
「……お相手は、どんな方ですの?」
「王都の図書館で働いている、フェリクス・リーヴェルトさん。子爵家の次男で、二十四歳です」
……子爵家。
以前の私なら、きっと断っていた。
でも。
「……どんな方なのですか?」
成田さんは嬉しそうに笑った。
「本が好きで、少し不器用ですが、誠実な方ですよ」
◇◆◇
お見合いの日。
私は、淡い水色のドレスを選んだ。
美しいと思ってもらいたい。
それは、もちろんある。
けれど、今日は私のことを知ってもらいたい。
そして、相手のことも知りたい。
「はじめまして。フェリクス・リーヴェルトと申します」
応接室に現れた青年は、少し緊張した様子で頭を下げた。
茶色の髪に、穏やかな灰色の瞳。
「クラリッサ・エーレンベルクです」
私も頭を下げた。
……沈黙。
どうしましょう。
何を話せばいいのかしら。
すると、フェリクス様が少し困ったように笑った。
「……実は、こういう場に慣れておりまして」
「……え?」
「あ、いえ。慣れておりません、の間違いです」
私は、思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「……すみません」
「いえ。私も緊張しています」
そう言うと、フェリクス様も笑った。
なんだか、少し楽になった。
「クラリッサ様は、お花がお好きなのですね」
「ええ。最近、少しずつ勉強しています」
「どんな花がお好きですか?」
「季節の花が好きです。同じ部屋でも、花を変えるだけで雰囲気が変わるんです」
私は、つい夢中で話してしまった。
慌てて口を閉じると、フェリクス様は微笑んだ。
「素敵ですね。誰かが喜んでくれるのが、嬉しいんですね」
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……はい。そうなのかもしれません」
今度は、私が尋ねた。
「フェリクス様は、どんなお仕事を?」
「王都の図書館で、古い書物の整理をしています。傷んだ本を修復したり、目録を作ったり」
フェリクス様の表情が明るくなった。
「古い本には、昔の人が何を考えていたのかが残っています。同じ出来事でも、書いた人によって見方が違うこともあるんです」
私は少し考えた。
「……人も、同じかもしれませんね」
「人、ですか?」
「はい。同じ人でも、見る人によって違って見えることがありますから」
フェリクス様は、少し驚いたあと、微笑んだ。
「……そうですね」
その笑顔を見たとき、胸の奥がほんの少し温かくなった。
◇◆◇
お見合いのあと、成田さんに尋ねられた。
「どうでしたか?」
「……不思議な方でした」
「不思議?」
「私のことを、美しいとも、伯爵家の令嬢らしいとも褒めないんです」
成田さんは、黙って聞いていた。
「でも……私の話を、ちゃんと聞いてくださいました」
成田さんが微笑んだ。
「それは、よかったですね」
「……はい」
私は頷いた。
「……また、お会いしたいです」
◇◆◇
それから、フェリクス様とは何度かお会いした。
図書館で。王都の庭園で。小さな喫茶店で。
会うたびに、少しずつ話すことが増えた。
ある日、私は思い切って尋ねた。
「……フェリクス様。私の家の噂を、ご存じですか?」
「……はい」
胸が、きゅっと縮んだ。
「でも、私はクラリッサ様ご自身のことを知りたいと思っています」
「……私、以前はひどい人間でした」
私は俯いた。
「姉を見下して、何でも自分が一番だと思っていて……」
フェリクス様は、しばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「私も、立派な人間ではありませんよ。失敗もしますし、間違えることもあります。でも、間違えたときにどうするかは選べると思っています」
……。
どこかで聞いた言葉だった。
成田さん。
あなたも、同じことを言っていましたね。
◇◆◇
その頃、お父様のもとに正式な通知が届いた。
伯爵家の財産管理について、監査が行われるというものだった。
持参金の流用は返還済みだったが、帳簿の不備や借り入れの処理について確認が必要になったのだ。
お父様は激怒した。
けれど、もう誰も、お父様の怒声だけでは動かなかった。
使用人たちは正式な指示を求め、取引先も書面での確認を要求した。
以前のように、お父様の一言で何でも決まることはなくなった。
そして、私も決めた。
◇◆◇
「……家を出る?」
お父様が、呆然とした顔で私を見た。
「はい。王都に、小さな住まいを借ります」
「どこで暮らすつもりだ!」
「花屋で働きながら、勉強を続けるつもりです」
「伯爵家の娘が、花屋で働くだと!? 恥を知れ!」
以前なら、泣いていたかもしれない。
でも、今は。
「……お父様。私は、もう誰かの引き立て役にも、誰かの飾りにもなりたくありません」
お父様が言葉を失った。
「自分で働いて、自分で考えて、自分の人生を選びたいのです」
「……リーゼと同じことを言うのか」
私は首を振った。
「いいえ。私は、私の人生を歩きます」
◇◆◇
王都での暮らしは、思っていたより大変だった。
朝早く起きて、花屋へ向かう。
水を替え、花を選び、店先を整える。
花の名前を間違えた。値札を付け間違えた。店主に叱られたこともある。
でも、不思議と嫌ではなかった。
自分が何を間違えたのか、わかるから。
そして、次はどうすればいいのか考えられるから。
以前の私は、失敗をすべて誰かのせいにしていた。
でも、今は違う。
失敗したら謝る。
わからなければ聞く。
できなければ練習する。
それだけのことが、こんなに難しくて、こんなに気持ちのよいことだったなんて。
◇◆◇
ある日の夕方。
花屋の閉店準備をしていると、フェリクス様が訪ねてきた。
「お疲れさまです、クラリッサ様」
「フェリクス様!」
「図書館の帰りに、少し寄ってみました」
フェリクス様は、店先の花を見つめた。
「……綺麗ですね。この花を一束いただけますか?」
「もちろんです」
私は花を包んだ。
すると、フェリクス様が少し緊張した様子で言った。
「……クラリッサ様。これからも、こうしてお会いできませんか」
胸が、どきんと鳴った。
「私は……クラリッサ様とお話しする時間が、とても好きなのです」
美しいから。
伯爵家の娘だから。
立派な経歴があるから。
そんな理由ではなく。
ただ、私と話す時間が好きだと。
そう言ってくれる人がいる。
「……私もです」
フェリクス様の顔が、ぱっと明るくなった。
「……本当ですか?」
「はい。私も、フェリクス様とお話しする時間が好きです」
◇◆◇
その夜、私は机に向かっていた。
宛先は、北方のグランフェルト辺境伯領。
お姉様への手紙だった。
謝りたいことが、多すぎた。
お姉様を見下していたこと。
お姉様の仕事を、自分の手柄だと思っていたこと。
お姉様の持参金が使われたと知りながら、何も言わなかったこと。
そして、お姉様の苦労を知ろうともしなかったこと。
私は、ゆっくりと筆を動かした。
『リーゼお姉様。
今さら手紙を書くことを、お許しください。
私は、ずっとお姉様を見下していました。
お姉様がしてくださったことを、当たり前だと思っていました。
私が立派だと褒められていたことの多くは、本当はお姉様がしていたことでした。
それなのに、私は感謝するどころか、笑っていました。
本当に、申し訳ありません。
私は今、王都で花屋の仕事をしています。
失敗ばかりですが、少しずつ、自分でできることを増やしています。
お姉様に許していただけるとは思っていません。
ただ、一度だけ、謝りたかったのです。
どうか、お幸せに。
クラリッサ』
書き終えたとき、涙が便箋に落ちた。
私は、もう一度最初から書き直した。
お姉様には、きちんと読める手紙を送りたかったから。
◇◆◇
返事が届いたのは、それから三週間後だった。
北方からの封筒。
見慣れた、お姉様の文字。
私は、震える手で封を開けた。
『クラリッサへ。
手紙を読みました。
あなたが自分の人生を歩もうとしていることを、嬉しく思います。
ただ、私たちが以前のような姉妹に戻れるかどうかは、まだわかりません。
私にも、整理しなければならない気持ちがあります。
それでも、あなたが幸せになることを願っています。
どうか、自分を大切にしてください。
リーゼ』
私は、何度も読み返した。
お姉様は、許してくれたわけではない。
それでも、私の幸せを願ってくれている。
「……ありがとう、お姉様」
私は、手紙を胸に抱いた。
◇◆◇
それから、さらに数か月が経った。
伯爵家の財政問題は、まだ完全には解決していない。
お父様が信用を取り戻すには、長い時間がかかるだろう。
お姉様は、北方で幸せに暮らしていると聞く。
私は、王都で花屋の仕事を続けている。
そして、フェリクス様とは正式に交際を始めた。
まだ、結婚の約束はしていない。
でも、急ぐ必要はないと思っている。
お互いのことを、もっと知りたい。
そんな気持ちが、少しずつ育っている。
ある日、私は久しぶりに『縁結び相談所』を訪ねた。
◇◆◇
「クラリッサさん。お久しぶりです」
「ご無沙汰しております」
私は、小さな花束を差し出した。
「成田さんのおかげで、私は自分のことを少し好きになれました」
成田さんは、穏やかに笑った。
「それは、よかったですね」
「それから、フェリクス様とも順調にお付き合いしています」
「おお。それは何よりです」
机の上の緑色のスライムが、ぽよんと跳ねた。
『――おじさん! お祝いだね!』
「そうだね、ミドリ」
『――お祝いにはパン!』
「……君は、いつでもパンだね」
私は、思わず笑ってしまった。
すると、ミドリがこちらを向いた。
『――クラリッサさん! 幸せ?』
私は、少し考えた。
以前の私なら、立派な家に嫁ぐことや、誰よりも褒められることが幸せだと答えただろう。
でも、今は。
「……ええ。幸せです」
ミドリが、嬉しそうに跳ねた。
『――よかった!』
成田さんも笑った。
「……うん。よかったですねぇ」
私は、窓の外を見た。
王都の空は、よく晴れていた。
お姉様。
私は、まだあなたのようにはなれません。
きっと、これからも失敗するでしょう。
でも、もう誰かと比べて自分の価値を決めることはしません。
私は、私として。
自分の幸せを、見つけていきます。
◇◆◇
その日の夕方。
花屋の前で、フェリクス様が待っていた。
「クラリッサ様」
「フェリクス様!」
「もしよろしければ、新しくできた喫茶店へ行きませんか?」
「まあ、素敵ですわ」
「それから……帰りに、花を見に行きませんか? 王都の南に、小さな庭園があるそうです」
私は嬉しくなった。
「ぜひ!」
フェリクス様が、手を差し出した。
私は、その手を取った。
温かい手だった。
……ああ。
きっと、こういうことなのね。
誰かの引き立て役でもなく。
誰かに選ばれるための飾りでもなく。
ただ、自分として生きて。
その自分を、大切にしてくれる人と歩いていく。
それが、私の幸せなのだ。
私は、フェリクス様と並んで歩き出した。
秋の風が、頬を優しく撫でていった。
――完――
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
本作は『「お前は妹の引き立て役だ」と父が言うので、婚活アドバイザーに相談して先に嫁ぎました』の妹・クラリッサ視点の後日談です。
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姉の結婚をきっかけに、自分自身と向き合い始めた妹の物語をお届けしました。
婚活アドバイザー・成田とスライムのミドリが活躍する連載本編『46歳、社畜のオタク婚活アドバイザーですが、異世界転生したらコミュ力だけで無双してしまいました ~妻子持ちのおじさん、帰宅を目指して魔王すら成婚させる~』も投稿中です。
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