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覆い香と一粒の沈香  作者: 彩色栞彩


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覆い香と一粒の沈香

プロローグ

街路樹が紅葉に染まり始めている、都会の喧騒の中に、コンクリートとガラスに囲まれた無機質な空間がある。

天井から照らされる青白い光の中で、今日も山下やましたワタルは白衣を着て、依頼された香りの調香を続けていた。

精密なピペットから、一滴の透明な液体がフラスコに落ちる。


「この匂いで、合っているはずなんだけど……」


差し出した試香紙ムエットを鼻先に近づけ、ワタルは小さく呟く。クライアントの要望通り、100%完璧に計算された数式通りのレシピ。

なのに、どうしても自分の心が納得しない。

鼻の奥がカサカサと乾いていくような、割り切れない迷いが湧き上がる。

ワタルが創り出そうとしていた

「完璧な香り」――それはいつしか、調香師としての自分の焦りや迷いを覆い隠すための、ただの**「覆いおおいこう」**になってしまっていたのではないか。


「所長。週末、四連休の有給をいただけますか」

「おっ、ワタルくん、珍しいね。京都にでも行って、鼻を休めてくるかい? お土産を楽しみにしてるよ」


パソコンの予約サイトから、京都への新幹線とホテルの確保を済ませる。カチャ、という静かなクリック音とともに、ワタルはその日の業務を終わらせた。


第一章 東山の境界線

翌日、新幹線は秋晴れの京都駅に滑り込んだ。

巨大なガラスの天井から差し込む光、空を切り取るような鉄骨のグリッド。

都会の人工的な匂いではない、どこか古びたお香の甘さが微かに混ざった古い都の空気が、ワタルの鼻腔をくすぐった。

翌朝、澄んだ空気の中でワタルは銀閣寺へと足を運んでいた。

小高い山の中腹辺りに佇む、銀閣寺(東山慈照寺)。

鮮やかに紅葉した木々が、歴史を重ねた建物の佇まいを静かに引き立てている。

その敷地へと一歩、足を踏み入れた瞬間だった。

世界を包む空気感が、ガラリと変わる。観光客のシャッター音が引き波のように消え去り、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。

秋の木々の匂いに混ざって、重厚で、どこか湿った温かさを持つ香気が、ワタルを誘うように鼻腔を満たした。

香りに誘われるまま進むと、東山文化の象徴、銀閣寺の『同仁斎どうじんさい』が目に飛び込んでくる。

(……おかしいな)

調香師としての鋭い嗅覚が、空間の「歪み」を捉えていた。

ここは足利義政が美を研ぎ澄ませた室町時代の遺構だ。

しかし、この鼻を突くくすぶった炭の匂い、そして空間を支配する圧倒的な「侘び茶」の気配。

これは、もっと後の時代の……。


「――おやおや。これはまた、随分と珍しい格好をなさっていらっしゃる」


背後から、静かに砂利を踏みしめる音とともに、穏やかでありながら深く響く声が降ってきた。

ワタルは息を詰め、ゆっくりと後ろを振り返った。

そこに立っていたのは、墨色の着物をまとい、周囲の自然と完全に溶け込むような身のこなしをした小柄な男性だった。


「ここはな、東山の美の本質が融け合う場所。普段は人が来ぬよう、私が『覆い』をかけておるのです」


ふふ、と笑う男の衣服から、さらに深い和の香気が広がる。

男に促されるまま、ワタルは本殿の裏手にひっそりと佇む、大人二人がやっと収まるほどの「一畳半」の極限まで削ぎ落とされた茶室へと足を踏み入れた。


第二章 一畳半の茶聖

壁の古い土の匂い、畳の微かな青さ。

さっきまで都会の焦燥で激しく波立っていたワタルの心に、染み入るような静寂が広がっていく。

男は無駄のない手つきでお茶を点て、静かな笑みを浮かべて一碗をすっと目の前に差し出した。


「作法がわからず、不作法をお許しください」

「どうぞ、お気になさらずに」


ワタルは茶器を両手で包み込み、ゆっくりと口元へ寄せた。

立ち上る抹茶の瑞々しい香りと、部屋を満たす香木の香りが入り混じり、口に含むと驚くほどまろやかで、奥深い味わいが広がった。

――その瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。

自分の弱さを、焦りを、完璧な調香という名の「覆い香」で隠し続けてきた限界が、一気に押し寄せ、熱い涙が一筋、ワタルの頬を伝って零れ落ちた。

それを静かに見守っていた男が、静かに微笑む。


「貴方はもっと、ご自身の心に正直になりなさい。私から見れば、今の貴方は、己の『迷い』を別の何かで無理に覆い隠そうとしている。……貴方は一体、何者ですか?」


ワタルは涙を拭い、真っ直ぐに答えた。


「私は山下ワタル。はるか未来の時代から来ました。人工的に『香り』を組み立てる、調香師という仕事をしています。……貴方様は?」


男は、静かに頭を下げた。


千宗易せんのそうえきと申します」


その名を聞いた瞬間、ワタルの全身に電撃が走った。

(千宗易……! 後世に『茶聖・千利休』と呼ばれる、あの……!?)


「宗易先生、一つお聞きしても? この部屋を満たしている香りは、白檀ですか?」 「いやいや、これは『沈香じんこう』でございますよ。ほれ」


宗易がすっと差し出してきた香炉。

ワタルがそれを両手で受け止め、静かに鼻腔へと香りを吸い込んだ。

温められた木から立ち上る、深く、重厚な香り。

白檀のダイレクトな華やかさに比べ、この香りは湿った大地の気配や、年月を経て凝縮された樹脂の「ほろ苦さ」を含んでいる。

現代のラボで嗅ぐ、100%純粋に精製された人工香料には決して再現できない、圧倒的な『時間の深み』がそこにはあった。


第三章 香りの真贋、宗易の調香

「宗易先生。もしよろしければ、これを試していただけませんか」


ワタルはポケットから、ガラス製の小さなサンプル瓶を取り出し、そっと手渡した。


「おや、これは……なんと、摩訶不思議な器ですな」


宗易は子供のように目を輝かせ、未来の香りの封をゆっくりと解き、その香りを吸い込んだ。

次の瞬間、宗易の顔からすべての表情が消えた。

呼吸さえも忘れたかのような長い沈黙ののち、宗易は突然、首を振った。


「確かに良い香りでございますが……若い。いや、若過ぎますな。香りに『奥行き』というものがございませぬ。白檀のようではあるが、何かが決定的に違う……」


ワタルは深く息を呑んだ。


「おっしゃる通りです。それは自然が育てたものではありません。私たちが生きる未来で、人が化学の力を使って、100%不純物を取り除き、人工的に作り出した白檀の香りなのです。……完璧なのに、どこか冷たく、血が通っていない。私はこの完璧なだけの香りに、ずっと悩んできました」


すると、宗易はふっと悪戯っぽく目を細めた。


「完璧、ですか。では山下様、その『完璧な香りの瓶』を、私にちょいと貸してくだされ」


宗易は未来のガラス瓶を受け取ると、茶室の隅にあった古い香炉から、ほんの僅かな


「消えかけの炭の灰」を指先でつまんだ。そして、ワタルが驚く間もなく、その灰を人工白檀の液体の中へ、躊躇なく一ツマミ落とし込んだのだ。


「あっ! 何を――」

「まぁ、黙って、もう一度これを嗅いでみなされ」


宗易は瓶を軽く揺らし、再びワタルに差し出した。

困惑しながらも、ワタルはその瓶に鼻を近づける。そして――激しい衝撃に、目を見開いた。

(……なっ、なんだこれは……!?)

さっきまでツンと尖っていた、あの冷たくて機械的だった人工白檀の香りが、一瞬にして変貌していた。

ほんの僅かな炭の灰――泥の匂い、煙の焦げ臭さ、不純な雑音ノイズが混ざり合った瞬間、人工白檀の香りに圧倒的な「湿り気」と「影」が生まれたのだ。

それはまるで、激しい雨が上がった直後の、静まり返った京都の深い森そのものの匂いだった。


「不純なもの、生きてきた痕跡……。そうした雑音の中にこそ、本物の香りは息づくのです」


宗易はワタルの目を真っ直ぐに見据えた。


「完璧なものだけを純粋に集めても、そこに『生きた時間』がなければ、人の心には響きませぬよ。美しさとは、傷のない器ではなく、傷を愛おしむ心にこそ宿るものです。貴方は完璧な『覆い香』で、世界が持つ本当の美しさから目を背けていただけなのです」


最終章 目覚め

「傷も、歪みも、すべてはその者が生きてきた証。それらが混ざり合うからこそ、香りは『生きた温もり』を持つ。貴方の創るこれからの香りが、私は実に楽しみですな」


宗易の温かい言葉が、お茶の温もりとともに、ワタルの身体の隅々まで染み渡っていく。

溢れる感謝に、ワタルが再び深く頭を下げた、その時だった。

ふっと、沈香の香りが風にさらわれるように薄れていく。

顔を上げると、視界がじんわりと白い光に包まれ、一畳半の静謐な空間が、水面に描いた絵のように解けていった。

遠くから、観光客たちの楽しげな話し声が聞こえる。

ゆっくりと目を開けると、そこは――鮮やかに紅葉した木々が揺れる、現代の銀閣寺の庭園だった。

手のひらには、あの小さなサンプル瓶が握られている。

ガラス越しに見る液体は、宗易が混ぜた灰のせいで、ほんの少しだけ黒く濁っていた。 だが、その濁りこそが、この世界で一番美しい「奥行き」を放っている。


「……よし」


ワタルは、もう迷わなかった。

自分の迷いを覆い隠す「覆い香」は、もういらない。ありのままの自分と、この世界が持つ傷や不完全さをすべて愛し、生きた香りを創るために。


エピローグ

週明けの月曜日。

ラボへと向かうワタルの足取りは、いつになく軽やかだった。

片手には、京都から持ち帰った生八ツ橋の紙袋。揺れるたびに、ほんのりとニッキの甘く温かい香りが鼻をくすぐる。

都会のビル群の隙間を、冷たい秋風が吹き抜けていく。

その風は、もうじきやってくる冬の、ツンと張り詰めた気配をかすかに混ぜ合わせていた。

以前なら「不純なノイズ」として排除していたはずの、排気ガスや、アスファルトの乾いた匂い、そして季節の境界線が紡ぎ出す少し寂しげな空気。

それらすべてが、今のワタルの五感を心地よく満たしていく。

不完全だからこそ、混ざり合うからこそ、世界はこんなにも美しい。

手元の生八ツ橋を少しだけ強く握り直し、ワタルは真っ白なラボの自動扉に向かって、静かに歩みを進めた。

もう、自分を偽る覆い香はいらない。

その胸には、あの小さな茶室で宗易と共に創り出した、深く、懐の広い一粒の沈香の余韻が、今も確かに息づいている。

(終わり)


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