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この世界に生まれてから初めて訪れる、忍びの里以外の町。
実はこれまでにも里を出た事はあるんだけれど、それは全て修行の為で、森やら谷やら、山だの湖だの、人の気配のしない場所ばかりだったから、ちゃんとした町を訪れるとなると流石にちょっと興奮してしまう。
いや、折角里を出られたのだからこのまま逃げてしまおうとは、流石にまだ思っていない。
今の僕の実力では、茜や吉次はともかく、中忍の六座から逃れる事は難しいだろうし、里には六座以上の実力の忍者だっているから、逃げ切れずに殺されるのがオチだ。
もっと実力をつけて、辺りの地理も完璧に頭に入れて、信用を得て遠方での任務を任されるようになるまでは、里を抜けるなんて夢のまた夢である。
今はただ、初めての町に驚き、物珍しさに興奮をする世間知らずを演じよう。
まぁ、演じなくても実際に興奮はしてるんだけれども。
今回訪れたのは、河西の国と湖南の国の境にある宿場の、色街だった。
僕らの里からは、歩いて三日ほどの距離になる。
宿場といっても甲川って大きな川が旅人を足止めする為、傍らにある宿場の規模はかなり大きい。
そしてここの色街で、脱走しようとして罰せられ、死んでしまった遊女の飼っていた猫が化けて人を食い殺しているらしい。
五人程が化け猫に食い殺されたところで、宿場を訪れた武芸者が退治に名乗りを上げたそうだが、この化け猫、それなりに強い癖に、相手が強いと見るや否や、即座に逃げ出してしまうので、その武芸者には退治しきれなかったという。
武芸者のお陰で被害は減ったが、それでも化け猫は宿場や色街のどこかに潜んで、遊女や客、相手を問わずに老若男女を食い殺していってるから、宿場には旅人も寄り付かず、住人も皆が家に籠ってしまっているのだとか。
そこで妖怪に対処できる力を持ち、逃げる相手を追えそうな、そう、忍びに退治を依頼すると決まったそうだ。
……なんというか、幾人もの人死にが出ている話に言うべきではないんだろうけれど、平和な話だと思ってしまった。
何が平和かといえば、幾つかあるんだけれど、一番は河西の国と湖南の国の関係が平和である。
国と国の関係が悪ければ、その間にある宿場はこんなに栄えない。
宿場が栄えるのは道が整備されてるからで、両国の関係が険悪だったら道は整備されないどころか、逆に破壊されるだろう。
確かに道があれば旅人、商人がそこを通って金と物を運んでくるが、同時にそこを敵の兵も通れてしまうのだ。
故に宿場にそれなりの規模の色街があって、そこで起きた問題に頭を悩ませられるというのは、この辺りが平和な証である。
また忍びに事態の解決を依頼するという発想も、やっぱり平和なんだと思ってしまう。
そういった形で依頼が来るというのは、忍びの存在がある程度はあっても知られてて、受け入れられてるって証明だ。
年がら年中、陰に潜んで何かを殺す為の訓練を積んでるテロリスト紛いの存在を。
これが胡散臭くは感じても、問題を解決する為の特殊技能者だと考えられるのは、その技が自分に向くとは考えないからだった。
しかし僕がずっと受けてきた訓練は、人を殺したり、情報を盗んだり、施設を破壊する為のものである。
こうした平和な場所でそれが常に活かせる訳ではないのだから、たとえ河西の国と湖南の国が平和であっても、それ以外のどこかに争い合う国々はあるんだろう。
そうでなければ、あの里が維持できるとは思えない。
忍びという武装集団を維持するには、それなりの金が必要になるから。
争う国に敵国の情報を売ったり、破壊工作や暗殺任務を請け負ったり、或いはもっと単純に戦力として忍びを派遣したりして、大金を稼いでる筈だった。
または国ではなく、商人の争いに加担して、街道を運ぶ荷を賊の仕業に見せかけて奪ったりもするのかもしれない。
……でも今は、そうした誰かを殺したり困らせたりする任務じゃないんだから、余計な事は考えずに妖怪退治に集中しようか。
猫が相手というのは気が進まないが、妖怪は甘い考えで戦える相手じゃない。
そもそも化け猫が本当に遊女の飼っていた猫だとは限らないのだ。
もちろん、人が噂をするように死にゆく遊女の陰気が飼い猫を妖怪に変えた可能性はある。
だが死にゆく遊女の怨念が猫に乗り移るんじゃないかって妄想が、実際に化け猫を生んだって事も十分に考えられた。
実際には飼い主を失った猫は、餌をくれる人を求めてどこかに行ってしまっただけなのに、色街に澱のように溜まっていた陰気が、遊女の死に様を見て何かに祟られるんじゃないかと考えた人々の怯えを核に、化け猫として形を成す。
今回は、そうやって生まれた妖怪、化け猫を退治するのだと思う事にしよう。
そう考えた方が、飼い主を失って復讐に走った猫を退治するよりも、随分と気持ちが割り切り易いし。
色街の支配人から話を聞かされて、一通りの事情を把握した僕は、そう判断すると決める。
同じようにそれを聞いた吉次や六座、茜がどんな風に受け止めたのかは、わからない。
こうした任務に慣れた彼らはいちいち何も思わないのかもしれないし、実は心の奥底で猫や遊女に同情してるのかもしれないけれど、それを表情に出すような事は少しもなかった。
いや、吉次は、早く終わらせて色街で遊びたいって願望をこれっぽっちも隠さずに口にしてるから、本当に何とも思ってなさそうだけれども。