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僕は幼い頃から聡明だった。
少なくとも、物心もつかぬ年頃から、幼い身に課せられる訓練の意味を考えてしまうくらいには。
そして物心がついた頃には、その聡明さを隠さなかった愚かさにも気付いた。
尤もそれは既に手遅れで、里の大人達は幼子とは思えぬ物の考え方をする僕を、鬼憑きの子だなんて風に噂していたけれども。
まぁ、そうなってしまったものは仕方がない。
本来なら薄気味悪いと、物心がつく前に殺されていてもおかしくはなかったが、幸いにもこの里は少し特殊で、有能である事には寛容だった。
そう、物心がつかぬ年頃の子供にも、遊びに見せかけた訓練を施すくらいには、ここは特殊だったのだ。
例えば親が泣いてる赤子をあやす時、……いや、親というよりは子守り役か。
恐らく肉親の情が強くなり過ぎぬよう、里親の跡取りである長子以外は、生まれた子供は他の家に預けて育てられる決まりがある。
里を支える重鎮の家の長子は、十になる頃に元の家に引き取られ、跡取りであると教えられるが、その他の子は自分が生まれた家を知らぬままに育つ。
いずれにしても、泣いてる赤子をあやす時、大人は棒の先に綿がついた玩具を使い、その綿を赤子が目で追える速度で動かし、その動きを徐々に速めるという事をしていた。
結局、その動きを追いきれずに赤子が再び泣き始めれば、大人は同じように赤子が目で追える速度からの動きを繰り返す。
つまりこれは、赤子を泣き止ませる事は二の次で、あやすように見せかけた動体視力を鍛える為の訓練なんだろう。
齢が二歳になった頃、庭に植えられた種から生えた芽を、踏まぬように毎日何度も跨いで越えろと言われる。
すぐにピンときた。
これは跳躍力を高める為の訓練なのだと。
育って少しずつ背が高くなり、芽から木になっていくそれは、やがて跨ぐだけでは越えられず、跳んで越えねばならなくなる。
もちろん跳んで越えるにも限度はあるが、その木が小さな頃から毎日毎日、それを越えるのが当たり前だという認識で何度も跳んでいると、跳躍力が鍛えられ、その限度は常人よりも高くなるのだ。
ちなみにこの訓練は大人もやっているんだけれど、流石にあまりに大きく育った木は跳んでは越えられないのか、幹を駆け上がって越えていた。
中には物足りないのか、わざわざ金砕棒等の大きな武器を手にしながら幹を駆け上がる大人もいて、やはりこの里は色々と特殊なんだなと、僕は納得させられる。
そんな里だからこそ鬼憑きだと噂しながらも、僕は将来が有望な子供であるって目でも見られてて、殺されたり極端な排斥は受けずに僕は育つ。
もちろん薄気味悪いからと遠ざけられる程度の事はあったけれど、それは大した問題じゃなかった。
何しろ僕は里の大人達が言う通り、実際に鬼憑きなのだから。
まぁ、鬼といってもその正体は、こことは違うどこかで生きた前世の記憶だ。
最期が事故死だった以外は平凡な人生だったけれど、それでも一度それなりの年齢まで生きていれば、自分の状況を客観視するくらいの事はできるようになる。
前に生きた世界の文明は進んでいて、僕はそこで教育を受けさせて貰っていたから、その幾らかが漏れ出てしまえば、里の大人から鬼憑きだと思われるのは無理もないだろう。
そしてその前世の記憶を以ってこの里を見れば、……ここが忍びの里である事は一目でわかる。
いや、前世で忍びの里を見た経験がある訳じゃないんだけれど、そう判断せざるを得ない要素が多過ぎた。
大人達の異様に高い身体能力や、里の鍛冶屋が鍋鎌と一緒に作る特殊な形状の武器、道具。
毎日受ける訓練の内容や、教えられる知識の数々。
その全てがここが忍びの里である事を示してて、疑う余地はない。
ただ……、それでも僕には、ここがどこだかわからなかった。
少なくとも、前世に生きた世界の、日本という国ではないだろう。
日本にも過去には忍び、忍者が少なからずいて、忍びの里が幾つもあったというけれど、そのいずれかって事はあり得ない。
何故なら、ここの空には、夜には二つの月が浮かび、それが共に満月となる日は天の両眼と呼ばれているから。
ちなみに僕が生まれたのは、この天の両眼の夜だったらしい。
天の両眼の夜に生まれた子供には不思議な力が宿る事があるそうで、僕の鬼憑きもその類だと、里の大人達には思われている。
新作、忍者です
よろしくお願いします