迷走流転
昭和44年(1969年〕吉岡昇平は、今年もまた群馬の実家に帰り、新年を迎えた。元日は母、信子が作ってくれたお節料理を、父、大介や兄、政夫、弟、広志といただき、新年を家族で祝った。皆、元気だが、父、大介は交通事故で頭を打った後遺症が消えず、精神的にも肉体的にも正常では無かった。人の言葉を鵜吞みにして、信じてしまうところがあり、家族もそうであろうが、昇平にとっても、一つの悩みであった。昇平は、午前中、母や兄たちと世間話をしたり、テレビを観て過ごした。午後からは神明神社に初詣して、家族の者や自分を見守ってくれることを、お願いした。その後、家に戻って、前橋の河合家からやって来た姉夫婦と近況などを喋って、夕方には父、大介と兄弟、姉夫婦と酒を飲み、大勢で晩御飯をいただいた。翌日、2日目は午前中、皆で祖父母の眠る墓参りに出かけた。そして午後、前橋に帰る好子姉たちのライトバンに乗せてもらい、松井田の下町の交差点手前で、降ろしてもらった。正治義兄と好子姉に挨拶し、前橋に帰って行くライトバンを見送ってから『下町食堂』に行くと、北条常雄、清水真三、小野克彦、金井智久が、既に酒を飲んで会話していた。相変わらず、小学校から高校時代の仲間の話が中心だった。同級生の男や女の話は故郷を離れている清水や昇平にとって、とても興味深かった。小池早苗の話も出たが、まだ結婚していないという。皆それぞれに目指す仕事に従事し、結構、楽しそうだった。それに比べ自分はまだ、どの道に進むべきか定まらず、不安定な状態だった。だからといって絶望してはならないと思った。直ぐに目が出なくても諦めず、自分の道を進んで行こうと思った。また明日あたり、もしかすると小池早苗から電話があるのではないかと思ったりした。だが翌日の3日、兄、政夫や弟、広志はデートに出かけたが、昇平には早苗からの誘いは無かった。故郷は昇平の帰るところでは無いのかも知れなかった。昇平は4日、両親に別れを告げ、広志の車に乗って高崎駅まで送ってもらい、その道すがら、広志に恋人は出来たかと訊いた。すると広志は恋人が出来たが、家族に反対されていると告白した。昇平も、東京で見合いの話があり、困っていると話した。昇平は高崎駅で広志の車から降りると、広志にさよならの手を振り、駅のコンコースへ上がった。そこにある売店で、今回も磯部せんべいを数個買った。それから改札口を入ってホームに行き、上野駅行き電車に乗った。上野駅に着いてから、山手線に乗って、渋谷経由で『春風荘』に戻ると、沢山の年賀状が届いていた。尾形恵三代議士、王育文先生、木下徹先生、松原千恵子、赤座美代子といった有名人の年賀状の中に寺山修二の年賀状があったので、びっくりした。宛名を書いたのは早坂桐子に相違なかった。その年賀状の『毛皮のマリー』の川村都の絵は大胆で、中々、鮮烈だった。その他、中学時代から高校、大学時代の友人、ガールフレンド、『オリエント機械』の社員たちからも、年賀状が送られて来ていた。年賀状を出さなかった人から来ていたので、慌てて予備の年賀状に宛名を書いて、4日の夜に投函した。5日の日曜日は翌日からの仕事に備え休養を取った。そして6日、『オリエント機械』の仕事が始まった。今年は5日を過ぎての初出勤なので、和服姿の女子の出勤姿は見当たらなかった。まずは大食堂での磯部社長、大野副社長から年頭の挨拶を聞き、午前10時から各職場に就き、日常業務を開始した。昇平は、自分の席に座るや関東、甲信越、静岡地区の客先に新年の挨拶の電話をかけまくった。午後の4時過ぎになると、向井静子、宮本知子、添田汐里、渡辺桂子らが総務部の野田和栄係長の指示に従い、大食堂に行って料理や酒の準備を始め、4時30分から社員全員集合の新年祝賀会が始まった。磯部社長の挨拶の後、遠藤常務が中心となり祝賀会は行われた。大野副社長は既に『オリエント貿易』の新年会に向かっておらず、磯部社長も、5時前に、黒岩運転手と自宅に帰って行って、途中から姿を消した。お堅いトップがいなくなると、祝賀会は大いに盛り上がった。その祝賀会が5時半に終わると、昇平は高野課長たちに声をかけられ、雀荘『竹藪』に行き麻雀を楽しんだ。『竹藪』には遠藤常務、多賀部長、田口部長、石本部長、岡田課長、浜田課長たちも来て、結局、暮れの麻雀大会のような状況になった。そんな状況で、初出勤から帰りが遅くなった。次の日からは、『オリエント貿易』の営業マンと都内の客先に挨拶回りをして、また日本橋の『オリエント貿易』近くの雀荘で麻雀。木曜日から土曜日までは千葉、埼玉、栃木、茨城、群馬などの客先を訪問した。都内の客先は土曜日を休日にしていたが、地方の客先は土曜日も機械を稼働させ頑張っていた。日曜日、林田絹子から会いたいと電話があったが、当分、営業活動で忙しいので会えないと断った。すると絹子の勤める『IZ産業』の営業マンも同様だと言って、彼女は昇平の断りを納得してくれた。13日からは静岡地区などを回り、営業活動に切り替えた。1月18日の土曜日には同人誌『山路』の月例会があるので、移動の電車の中などで、同人の作品を読んだ。土曜日の月例会の開始時刻が、誰の都合か、夕方7時からだった。その為、喫茶店『ロダン』に集まったのは10人ちょつとだった。合評会は副会長の沢木駿介の司会で、『中央文学』や『新生』と同じように始まった。13人が執筆した詩、随筆、小説を月例会で順繰りに批評する形式だった。西条麗子の詩『冬に』から批評が始まった。作品は木枯らしに託して、喪失したものと郷愁を織り交ぜ、人間の悲哀を謳った詩だった。批評は技巧的で密度が濃い。ケチのつけようのない大人の詩である。手慣れた作品の表現は新鮮さに欠ける。冷たい詩であるなど種々、だった。作者は人間生活の根底に流れる悲しさのようなものを表現しようとした作品で、人間の原初的なものに対する郷愁のようなものを汲み取っていただければ幸いであると語った。昇平は美しい詩であると思った。次に兵庫県から寄稿した女性会員、垂水操の長編小説『港の死』の批評となった。『港の死:は学生運動で死去した朝鮮人学生Rの死と、一昨年、ベトナム戦争反対や、佐藤栄作首相の外国訪問阻止などの闘争に関与した日本人学生Kとの物語で、一つの事柄について徹底的に追及して行く作者の筆致が、昇平を感動させた。昇平が『М大学』の学生の頃から始まった授業料値上げ運動は、今や学生運動の革命ロマンとなり、共産主義者同盟を結成するに至り、より過激になりつつあった。そのような時代の中で、学生運動に夢中になる男たちとの関わり合いを持つ女性を主人公にした作品は興味深かった。羽田闘争を経て、米軍基地内で米軍将校を刺殺するKとのストーリーはショッキングだった。彼女は神から流し込まれた社会革命という濃厚な毒によって生かされていると語り、セックスもデモも同じだと表現した。昇平は、その理論に驚かされた。この作品ついて蛭間紀夫は、こう評した。
「強いモチーフにより明確な思考が設定され、登場人物も単純明快であり、人間心理をかなり良く表現している」
飯塚文昭先生は、こう言った。
「垂水さんの『港の死』はアクチュアルな作品である。学生運動に関与する主人公の思いが行間から推測され、革命に情熱を捧げる男たちに思いを寄せる、現代女性の心理が、見事に描かれている。佳作と評して良いだろう」
その他、何か追い詰められた感じで、作者は、そのことに酔っている。結末の米軍将校の刺殺については物語の経緯からして必然性が無く、付け足しのように感じられたなど、昇平には参考になる批評が多かった。作者は手紙で、学生運動という身近な状況の中の『不毛の青春』を描きたかった。いやらしい自己愛を露呈してしまったような気がすると、投稿後の感想を伝えて来ていた。以上の合評の月例会が終了すると、飯塚文昭会長の呼びかけで、集まっている会員で新年会をしようということになった。そこで去年暮れに忘年会をした中野駅南口正面の料理屋『みかく亭』に行って、新年会の飲み会を楽しんだ。何故か座席が飯塚会長たち中年組と女性組と若者組の3つに分かれた。昇平は蛭間紀夫、岡本悟史、広松彰人と4人で文学論を交わした。女性組は西条麗子が中心になり、山本香澄、門倉久美、西沢芳恵を相手に、現代詩について語リ合っていた。飯塚会長、沢木副会長、添田計夫、高橋和利は『山路』の立ち上げが成功したことを喜び、今年の会の方針を相談していた。友が友を呼び、『山路』の会員は新年になって50名を超えるという勢いだった。そんな人たちとの新年会を終わらせ、『春風荘』に戻ると、ドッと疲れが出た。なのに翌週には新潟の客先に新年の挨拶に出かけた。上野駅発深夜の上越線の夜行列車に乗り、新潟に向かった。上野駅を発車するや直ぐに、オーバーコートを胸にかけて眠りについた。従って正月目にした群馬の景色を眺めることは無かった。渋川、水上を経て、トンネルを潜ったところで、薄目を開けて窓外を確認すると、越後湯沢だった。まだ真っ暗なので、また瞑目した。ゴトゴトと走る夜汽車の音を聞きながら半寝入り状態で眠っているとやがて辺りが明るくなり始めた。気づけば長岡を過ぎていて、辺りはまさに雪国だった。その白銀に広がる雪景色を見て、昇平はノーベル文学賞を受賞した川端康成が日本人の死生観や美意識を世界に紹介した『美しい日本の私』と小説『雪国』の駒子を想像した。列車は更に東三条、新津を経て、朝の6時半過ぎ、新潟駅に到着した。昇平は駅前のビルの2階にある喫茶店『田園』に入り、カレーライスを食べて身体を温め、それからコーヒーを飲み、時間調整をした。8時半、喫茶店を出て、そこから5分程の所にある『熊谷商店』に行き、熊谷社長に新年の挨拶をした。その後、市内にある『本間商店』に行き本間社長に新年の挨拶をした。新潟市内での挨拶回りが終わるや、新潟駅から東三条駅に引き返し、東三条駅前の食堂でラーメンを食べ、燕の食器類の包装業を手掛ける『高野商店』に訪問し、高野社長に新年の挨拶。燕の喫茶店『ロンドン』で打合せ後、東三条駅に戻り、午後3時半過ぎの列車に乗って、夜中に東京に帰った。そんなこんなで、営業活動が忙しかった為、昇平は『モエテル』の新年会に参加することが出来なかった。『モエテル』の仲間は長野の山荘建設の話や第37代アメリカ大統領にニクソンが就任したことなどを語り合っているに違いなかった。
〇
2月になると、新年の挨拶回りも終わって、のんびり出来ると思ったが多忙で個人的時間の調整が難しかった。その為、2月の同人誌『山路』の月例会に出席することが出来なかった。『オリエント機械』は遠藤常務、岡田課長の努力により、『三井石油化学』から大型機械を受注し大変だった。昇平はスウェーデンに本社のある紙容器及び液体充填包装システムを得意とする『TTパック』が、御殿場に工場建設を開始しする計画が進み、そこの工場に設備する紙容器製造用樹脂コーティング装置の見積に取り組んだ。本件については、何時ものように『МS製作所』の上野課長に相談し、見積書を作成して、『オリエント貿易』の藤木澄夫主任と共に客先に訪問し、客先窓口の松田部長やオーレン技師らと交渉した。結果、『TTパック』が『ドナルド社』のコーティング装置を使用しており、『オリエント機械』がアメリカの『ドナルド社』と技術提携しているということから、昇平たちはスムースにコーティング装置を受注することが出来た。また『JJ製紙』からラップフィルム製造装置の引合があり、『三菱重工』と『東芝機械』と3社の競合となった。昇平は、その引合いに、『オリエント貿易』の島崎正彦主任と取組み、『ドナルド社』の実積と『オリエント機械』が『ID石油化学』に納入した実席を説明し、客先担当者たちに安心感を与え、『オリエント機械』に発注することを勧めた。3社の性能比較表をでっち上げ、それに基づき強力なピーアールを行った。昇平たちの説明を聞いた『JJ製紙』の技術者たちは、『オリエント機械』が『ID石油化学』に納入した実積、『ドナルド社』のバックアップ体制、性能比較の優位店の3点を選考基準の重要要素に取り上げ、若き島崎正彦と昇平の迫力に押されるまま、導入機械装置を『オリエント機械』に発注すること決定した。このような状況から『オリエント機械』は大型機を受注し、年初から多忙になった。昇平は、昨年、受注した『SH高分子』への延伸装置の納入が迫っており、『TK興産』の金型の納入もあり、『TTパック』、『JJ製紙』との受注後の打合わせもあり、このままでは、パニック状態になり、会社に迷惑をかけることになると思った。そこで、営業部員を増員して欲しいと、伊藤部長と岡田課長に依頼した。岡田課長は分かってくれたが伊藤部長は岡田課長と宗方主任と君がいれば大丈夫だろうと言って、はっきりしなかった。そんなモヤモヤ状態の22日の土曜日、林田絹子が畑中鈴子の所へ来た帰りだと言って、『春風荘』にやって来た。彼女は昇平がいる『202号』室に入って来て、オーバーコートをハンガーに掛けるや、コタツに足を突っ込んで、同人誌『山路』2号に投稿する次の作品の執筆に取り組んでいる昇平のことなど考えず、直ぐに部屋掃除に取り掛かった。昇平は仕方なく執筆作業を中断し、部屋掃除の手伝いをした。絹子は寒いのに窓を開け、部屋掃除をしながら喋った。
「部屋の中を綺麗にしておかないと、病気になるわよ。ホコリだらけの部屋にいては駄目」
「田舎育ちの僕は、そんな程度で病気になんかならないよ」
「油断は大敵よ。何時も部屋を清潔にしておかないと、心も汚れてしまうのよ」
絹子は、そう喋りながら、機敏に動いた。かって大橋花江などが部屋に来たことがあるが、部屋掃除など一度もしたことが無かった。なのに絹子は部屋掃除の他、ガスコンロや流し台の掃除、窓ガラス拭きなど、部屋中を綺麗にしてくれた。昇平にとっては有難いような、迷惑のような絹子の行動だった。部屋掃除を終えて、夕方になると、絹子は自分のバッグを部屋に置き、食事に行きましょうと昇平に言った。昇平は部屋掃除をしてもらったので、何処で夕食をご馳走しようかと考えた。早坂桐子のいる『信濃屋』に連れて行くのはまずいと思った。そこで中目黒商店街にある大衆食堂『ヤナギ食堂』に連れて行き、それぞれ好きな定食を食べた。昇平は豚の生姜焼き定食、絹子はアジフライ定食を食べた。腹ごしらえを終えて『春風荘』に帰ろうとすると絹子が買い物があるというので、近くにある『丸喜百貨店』に寄った。何を買うのかと思ったら、彼女はピンク色の洗面器と石鹸とタオルを買った。昇平はびっくりした。驚いている昇平を見て、絹子が笑って言った。
「吉岡さん。電気釜を買いましょうか?」
「ええっ。電気釜などいらないよ」
「どうして。ご飯を部屋で炊ければ経費節減になるわよ」
「1人暮らしには、反って無駄だよ。出張帰りに外で食べたり、麻雀屋で食べたりすることが多いから、休日に炊いても、翌週、残ってしまい、捨てることになるよ」
「言われてみれば吉岡さんの職業柄、そうなるかもね。なら結婚してからね」
「うん。そうだね」
昇平は、そう答えて、『丸喜百貨店』を出て、『春風荘』に引き返した。部屋に戻ってから、昇平は絹子を見つめ、絹子に確認した。
「そろそろ時間かな」
「そろそろって?」
「林田さんの帰る時刻」
「何、言っているのよ。しばらくぶりに会えたのだから、この前みたいに泊って行くわ。その為に洗面器を買ったのよ。分からないの。私の気持ち?」
「有難いけど、家族に黙って外泊するのは良くないよ」
「スズちゃんの所に泊まると言って出て来たから大丈夫」
昇平は、おしとやかそうに見えて大胆な行動をする絹子に疑問を抱いた。突然、訪ねて来て泊って行くと言い出すなんて、どういう考えなのか分からない。昇平は戸惑った。どうしたら良いか分からなかった。
「お風呂へ行きましょう」
昇平は頷くしか無かった。洗面器と石鹸とタオルと着替えを持って、坂下の銭湯『松の湯』に行った。女湯の暖簾をくぐる絹子を見送ってから、昇平は男湯に入り、富士山の絵を眺めながら、絹子は何を考えているのだろうかと思った。長い交際の後の事を考えているのだろう。振り返れば、彼女との交際は3年を経過し、4年目に入ろうとしている。彼女は結婚のことまで考えているのだろうか。だが昇平には結婚は、まだまだ早すぎるように思えた。初恋の人、遠山美帆をはじめ、結婚を考えた笛村真織、川北節子、寺川晴美、大橋花江たちは何時の間にか、昇平の前から消え去って行き、小池早苗、小野京子とも会う機会が無くなって来ていた。社内結婚はトラブルになりそうだし、結婚相手として絹子はどうなのだろうか。昇平は目を閉じて湯船の中で絹子の事を考えた。細面の絹子の顔立ちは悪い方では無く、『モエテル』の中にも、彼女に興味を抱いている者たちがいるようだ。勤務先でも言い寄って来る男性たちがいるに違いなかった。彼女は綺麗好きで、小まめに働き、大人しそうでいて、負けず嫌いなところもあって、おっちょこちょいなのが可愛かった。誰かが言っていた。女房をもらうなら、打たれ強い女か鈍感な女だと。絹子は、それに当てはまるだろうか。女房は欲得で選ぶものなのだろうか。そんなことを考えていると約束の30分になろうとしていた。昇平は慌てて風呂から出て、新しい下着に着替えて、絹子が出て来るのを待った。絹子は5分程、遅れて出て来た。そこで風呂上がりの牛乳を飲み、昇平と絹子は『松の湯』を出て、寒風の中、石鹸をカタカタ鳴らし、『春風荘』に帰った。その後ミカンを食べて雑談してから布団を二つ並べて敷き、別々の布団に潜り込んだ。だが、じつとしていられなかった。昇平は自分の枕を持って、絹子の布団に移動した。そして、さっさと自分のパンツを脱いで、絹子を抱いた。絹子の身体は湯上がりのような温もりを残していて、ツルツルだった。昇平はその絹子を仰向けにさせ、両腕を横に広げさせて、その上に重なった。昇平は腰を使い絹子を乱暴に攻めながら、どうしてこんな関係になってしまったのか考えたが、その原因が見つからなかった。事が終わると、昇平は絹子と手をつないで眠った。翌朝起きてからも、また絡み合った。起き上がって窓を開けると、何処からか梅の花の香りが流れて来た。絹子は昇平に好かれていると確信してか、昇平に言った。
「今日から私、吉岡さんのこと、昇平さんと呼ぶわ。だから昇平さんも私の事を絹子と呼んで」
「うん分かった。絹子さんと呼ぶよ」
「それと、この部屋の予備鍵はあるの?」
「あるよ」
「あったら私に予備鍵を貸して欲しいわ。昇平さんがいなくても、時々、部屋掃除しに来てあげるから」
「それは有難いな」
昇平は、そう答えると、引き出しの奥から、船木が使っていた予備鍵を探し出し、絹子に渡した。その鍵を受け取ると、絹子はルンルン気分になった。まるで昇平の心の扉の鍵を独り占めしたかのような喜びようだった。
〇
3月になると『三井石油化学』経由で静岡の『SW製袋』から農業用広幅フイルム製造装置の引合いがあった。昇平は、その打合せに遠藤常務と本間課長と内幸町の『SW製袋』本社に出かけた。打合せは2時間ほどで終了した。ほぼ内示に近い打合せが終了して、外に出てから、昇平は遠藤常務に言った。
「遠藤常務。僕は現在、『TTパック』、『JJ製紙』、『SH高分子』、『TK興産』など、沢山の仕事を抱えており、これ以上、仕事が入って来たら、客先に対し、充分な対応が出来なくなります。営業マンを1名、増やして下さい」
すると遠藤常務は、昇平を見つめて、こう返事した。
「岡田課長からも、そんな意見があったが、伊藤営業部長も田口総務部長も、宗方君に、もう少し頑張ってもらえば大丈夫だと言っている」
「でも宗方さんだって大変ですよ。福島から青森までの東北地区に北海道の客先の他、名古屋地区の客先の担当をしているのですから、アップアップ状態ですよ。名古屋地区の客先からの苦情を耳にしていると思いますが・・・」
「あれは名古屋の『オリエント貿易』の対応が悪いからだよ」
「そうとは思えません。いずれにせよ、僕はもうパンク寸前です。営業部員を1名、増やして下さい」
「分かった。考えておこう」
遠藤常務は、そう答えると、これから『オリエント貿易』の郡司耕作係長と待合せして、『三井石油化学』の堀田部長、桑原課長と麻雀することになっているからと言って、霞が関方面へ向かって行った。昇平は本間課長と内幸町から新橋駅まで歩き、新橋駅前で東海道線の電車に乗って横浜方面へ帰る本間課長と別れた。それから絹子の勤める『IZ産業』に電話しようかなどと思ったが、同人誌『山路』に投稿する作品の創作を優先すべきだと考えた。そして地下鉄新橋駅のホームへ行き、渋谷行きの電車に乗り、渋谷経由で、祐天寺に帰った。夕食をしに大衆食堂『信濃屋』に行くと、早坂桐子が待ってましたとばかり寄って来て、昇平から注文を取ると、勝江女将に合図した。すると主人の滝沢寛治が弟子の松雄に聞こえるように答えた。
「あいよっ!カツカレー1丁」
そのカツカレーが出来る間、桐子は時々、昇平の席に来て雑談した。
「今度の土曜日、3月15日に『天井桟敷館』がオープンするの。そのこけら落としに『時代はサーカスに乗って』を発表するの。見に来て頂戴」
「それは、お目出とう。でも、ごめん。その日は『山路』の合評会があるから行けないよ」
「まあっ、そうなの。残念だわ。合評会の方が大事ですものね」
「申し訳ない」
昇平が、桐子に、そう弁解し、謝っていると、勝江女将が昇平の席にカツカレーとほうれん草のお浸しを持って来て言った。
「何をもめているの?桐ちゃん、吉岡さんをいじめては駄目よ」
「いじめてなんていません」
「吉岡さんにも、いろいろと都合があるのだから・・」
勝江女将は、桐子が、昇平にほの字なのではないかと推測しているみたいだった。すると桐子は、プィツと別の客席に移動した。昇平は美味しい夕食をいただいてから、『春風荘』に帰り、ノートに向かって、執筆中の小説のペンを走らせた。会社勤めをしながら小説を書くのは大変だった。飯を食べ生きて行く仕事の中心は、あくまでも『オリエント機械』の営業活動だった。そのかたわらの執筆活動は二の次の趣味に他ならず、辛かった。でも創作活動が好きだったから、どんなに辛くても、創作に取り組むことが出来た。そんな昇平の好きな文学活動のひとつである同人誌『山路』の合評会が、3月15日の土曜日、喫茶店『ロダン』で行われた。出席者は11名で、夕方6時半、沢木駿介の司会で始まった。まず春日幸子の長編小説『とべない女』から始まった。『とべない女』は結婚に戸惑う女の心情を描いた作品で、この長編作品に挑んだ作者の情熱に、昇平は感心した。学校教師をしている高橋和利は、こう批評した。
「この作品は平易な文章で、素直に書かれているので、長編なのに抵抗なく読めました。しかしながら、主人公の考えが他人事のようで、親しみを感じることが出来なかった。作中に常識を覆すようなエポックを書き込んでもらえれば嬉しかった」
岡本悟史は、こう言った。
「全体的に良くまとまっていますが、読者に気を持たせて行きながら、結果が平凡なので残念に思えた」
作者、春日幸子の感想はこうだった。
「今回、『とべない女』を書いて、まず自分の生活を厳しく見つめて、それを発酵させなければならぬと気づきました。もっと厳しく自分を俎上に載せる意気込みで描きたいと思いつつも、勇気が足りなかったようです」
それに対して、飯塚文昭先生は、こう述べられた。
「登場人物を突き放して冷静に扱っているのが作者の特徴であり、よそよそしさも感じられるが、好感の持てる作品です。手慣れた文章は作者の技倆を窺わせるものがあり、次の作品に期待してます」
長編小説『とべない女』の批評は、まずまずの評価に終わった。その後、安倍紀義の詩『朝の所在』と『生きている』の批評が始まった。まず詩人と自負する西条麗子が口火を切った。
「作品『朝の所在』の中で使われている〈原罪〉という語句が、数度、使われているが、作者がこの語句を如何なる重みをもって自得使用しているのか内容的にはなはだ疑問です」
それに同調するように鈴木秋絵が言った。
「2つの作品のうち『朝の所在』は作者が何を志向しているのか難解で良く分かりません」
すると作者、安倍紀義は、こう答えた。
「私の詩には、西条さんのような一定した文体がありません。私にとって詩は、現実に対する抵抗です。非合理な心理に対する接近です。生きている証明です」
「成程。『生きている』は現状況に密着していて共感を覚えます。作者の詩魂のような片鱗が窺えます」
飯塚先生は、そう上手く評価して、合評会を終わらせた。その後、昇平は岡本悟史、広松彰人、安倍紀義と4人で居酒屋『らんまん』に行き酒を飲んだ。その席で、安倍紀義は、宮城県から東京への転居を考えていると発言した。文学の為に東京に出て来るという、安倍の意気込みに昇平は感服した。そのような若い同人同士で語り合うのは実に楽しかった。そんな文学に洗脳された状態で、翌週、『オリエント機械』に出勤すると昇平は岡田課長と一緒に役員室に呼ばれた。何事かと思って、岡田課長の後について役員室に入ると磯部社長と大野副社長、遠藤常務の3人が、厳しい顔をして座っていた。何か重大なミスでもしてしまったのかと思うと、磯部社長が優しい顔になって言った。
「2人から、営業部員の増員の提案があったということですが、現在の受注状況から頷けます。しかし、『オリエント貿易』には、4月から新入社員が3名、機械部に配属されます。それで充分だと思いますが、駄目ですか?」
昇平は、磯部社長の言葉に、仕事上でのミスで呼ばれたのでは無いと知って、ホッとし、岡田課長がどう答えるか、様子を窺った。すると岡田課長は、こう返事した。
「増員をしたいのは『オリエント貿易』では無く、『オリエント機械』の営業部です。私たちはお客や『オリエント貿易』の人たちに、煽られっぱなしです。私は宗方君と吉岡君の3人で、『オリエント貿易』の10人以上の営業マンに対応する他、客先との直接対応もあり、残業しても追いつかないくらい大変です。増員をお願いしたいのは私の部下です」
「それは、『オリエント貿易』の機械部の連中が無能だということかね」
岡田課長の返答に大野副社長が不服そうに言った。そう言われ、岡田課長は返答に窮し、恐る恐る返事した。
「そ、そういう事ではありません。兎に角、大変なんです。吉岡君。君からも実情を説明してくれ」
昇平は、岡田課長に、そう言われたので、この時とばかり説明した。
「ご存じの通り、現在、我が社は大型装置から小型装置まで、沢山の受注をしております。私たち『オリエント機械』の営業マンは、その設計から製造、出荷、搬入、試運転、検収迄、面倒を見なければなりません。受注した段階で、設計者を客先に連れて行き、仕様打合せをして、承認を得てから部品手配に入ります。それから機械組立てまで資材部や製造部に任せられますが、社内立合い後、客先工場への機械搬入、現地試運転から検収書にサインをいただくまで、客先に張り付かなければなりません」
「それを『オリエント貿易』の者と手分けする訳にはいかないのかね」
「それは人によって違います。作業着を着たがらない機械部の人がいますので、不可能と言って良いでしょう。油まみれになるのは機械メーカーの役目と思っている人がほとんどですから・・」
昇平の言葉に大野副社長は渋い顔をした。昇平は更に付け加えた。
「その他に困るのは客先からの引合時から、私たちが引張り出される事です。客先が求めていることを理解出来ないから、機械部の人たちは私たちを同席させ、私たちに商談をまとめさせようとするのです。確かに私たちを連れて行けば楽です。私たちが仕様を確認して、見積書を作成して、客先に見積書類を提出出来る段取りまでしてあげるのですから」
「それがメーカーの営業担当の役目だと思うのだが・・」
「だから大変なのです。『オリエント貿易』の営業マンは私たちが見積書や仕様書を作って上げなければ、客先に見積書などを提出することが出来ず、客先から督促を受け、私たちにやいのやいの言うのです。ですから私と宗方さんは岡田課長と一緒に残業して、その要望に応えるよう頑張っているのです」
普段、大人しい昇平が何時もになくベラベラ喋るので、磯部社長たち役員3人は、目を丸くした。その昇平が更に喋ろうとすると、岡田課長が昇平の発言を止めた。
「吉岡君。喋るのは、そこいらまでで止めておけ」
すると遠藤常務が磯部社長と大野副社長に向かって言った。
「2人の言う通り、今の営業部員の人数では、客先や機械部のメンバーからの依頼に、満足する対応は不可能だと思われます。4月からの人事で営業部員を増やす検討を致しましょう」
「では1名増やすことで・・・」
「1名ですか?」
岡田課長がそう言うと、遠藤常務が、岡田課長を睨みつけて言った。
「とりあえず1名で我慢してくれ」
社内事情に詳しい遠藤常務に、そう言われては、岡田課長も昇平も不本意ながら了承せざるを得なかった。
「では取り敢えず1名ということで、やってみます」
「して誰が良い?」
遠藤常務に、そう訊かれて、岡田課長が直ぐに答えなかったので、昇平は自分の考えを述べた。
「現在、技術サービス課にいる金子君が適任だと思います。彼は『KS館大学』の経営学部出身で、人当たりが良く、営業に向いていると思います」
「そうか。では金子君のことも頭に入れて検討してみよう。ご苦労さん」
遠藤常務にご苦労さんと言われ、岡田課長と昇平は役員室から退出して、営業部の部屋に戻った。すると伊藤部長が岡田課長に訊いた。
「何の話でしたか?」
「はい。営業の仕事量についての確認です」
「それだけですか?」
「はい。それだけです」
岡田課長は、そう答えると、直ぐに宗方主任に北海道の客先との状況がどうなっているかを確認した。昇平は組立工場に行き、製造部の多賀部長と『TK興産』に納入する金型の出荷準備を目視した。予定通り、3月末には納入出来そうだったので、昇平は安心した。
〇
そんなこんなで、ホットしている月半ばになると、林田絹子が『春風荘』にやって来て、部屋掃除をしてくれた。彼女は部屋掃除しながら上機嫌だった。部屋掃除が好きらしい。
「何故、部屋掃除が、そんなに嬉しいの?」
「部屋の中が綺麗になって行く気持ち、昇平さんには分からないわね」
絹子は肩をすくめて笑った。昇平はずるい考えかもしれないが、彼女の好きにさせておいた。部屋の中が何時も綺麗になっているのは有難かった。絹子は一晩、昇平と過ごすと、日曜日に帰って行った。昇平は何時ものように上野駅まで彼女を送った。次の月曜日の仕事中、昇平は向井静子から、メモをそっと渡された。トイレに行った時、人に隠れて、そのメモを読んだ。そこには、こう書かかかれてあった。
〈 今日の帰り、大倉山の喫茶店『ポエム』で
待っています,。
先週、私は総務部に退職願を提出しました。
その報告方々、貴男にいろいろ、
お話したいことがありますので・・・〉
その文面を読んで、昇平は余りにも突然のことなのでびっくりした。伊藤部長や岡田課長から、彼女が辞めることについて、何も聞かされていなかった。昇平は席に戻ってから、静子に頷いて見せた。夕方、昇平は林原武士から原田隆夫たちと飲みに行こうと誘われたが、その誘いを断った。静子からのメモが無ければ、今月いっぱいで会社を辞める同期入社の設計部員の田中俊明を誘って宮里敦司と3人で飲みに行きたいところだった。そんな事を考えながら仕事をしているうちに、本日の就業のベルが鳴った。昇平は営業部の向井静子と宮本知子が事務室から出て行くのを見送ってから、岡田課長に一言、帰りの挨拶をした。
「岡田課長。今日は用事がありますので、お先に失礼させていただきます」
すると岡田課長は林田武士が、営業部の片隅に来て、昇平とヒソヒソ話をしているのを見ていたので、昇平が林田たちに付き合うのではないかと予想していたのか、簡単に了解してくれた。
「そうか。遅くまで、飲んだりしちゃあ駄目だぞ」
昇平は、その言葉を聞いて、ホッとし、ロッカー室に行った。ロッカー室に入ると丁度、宮里が着替えをしていて、設計部の田中の送別会は27日になったと聞いたので、幹事に特別参加させてもらいたいと伝えるよう、お願いした。それから宮里たちと一緒に綱島駅まで行って、駅前で別れ、何時もと違う横浜方面に向かい、1駅目の大倉山駅で下車した。喫茶店『ポエム』に行くと、先に入っていた向井井静子が奥の窓辺の席で手招きをした。昇平は、静子のいる席へ行って椅子に座り、緊張した顔で彼女と向き合った。静子が先に口火を切った。
「驚いたでしょう。私が会社を辞めるなんて」
「勿論だよ。いずれ辞める日が来るとは思っていたけど、余りにも急なので、びっくりだよ」
「私にとっては急では無いのよ。このまま『オリエント機械』に居続けるべきか、辞めるべきか、時間をかけて考えて来たのよ。このまま居残ったら、自分の希望する人生計画と食い違ったことになるのではないかと、不安が募って、辞める決断をしたの」
「何が理由で食い違ったことになると考えるようになったの?」
「だって、そうでしょう。10歳も年上の岡田課長と結婚するよう、会社のトップから勧められたら、身動き出来なくなってしまうでしょう。私の理想の結婚は恋愛結婚なの」
「じゃあ、田浦さんと結婚すれば良いじゃあないか」
「田浦さんは駄目よ。純粋な人でないから・・」
「そうかなあ。田浦さんを追いかければ良いんだ」
昇平が、そうアドバイスすると、静子は鋭い目をして昇平に言った。
「馬鹿!」
「何が馬鹿なんだよう?本当のことだろう」
「貴男。本気で言っているの。私の気持ち、分かっていないのねえ」
「分かっているよ。岡田課長とは結婚したくないんだろう」
「そうよ。だから私、貴男と結婚したいの。結婚しましょう」
「冗談だろう。からかわないでくれよ」
「冗談じゃあないわ。本気よ」
昇平は、静子から結婚の話を持ち出され、困惑した。彼女は大まじめだった。どう返答したら良いか昇平は考え、返事した。
「僕は社内結婚して苦労して来ている人を何人も見て来ている。それに向井さんの事、詳しく知っていない。だから結婚しようと突然、言われても・・」
「何よ。その言い方。冷たいわね。貴男が、社内結婚をしたくないと言うから、私が会社を辞めるのじゃあない」
「それは反対だ。三浦さんと浅岡さんのように、男が会社を辞めて結婚すれば、会社に縛られることは無くなる。でも今の自分は結婚など考えていない。一生独身でいるつもりだ」
静子は昇平が結婚を拒否したので、吐き捨てるように言った。
「分かったわ。もういい」
昇平は、焦った。静子は暗い顔になり、今にも泣き出しそうだったので、昇平は急いでコーヒー代の清算を済ませ、静子を喫茶店『ポエム』から、連れ出した。そして暗がりで言った。
「ごめん。突然のことなので、僕も、びっくりして、思い付きで返事してしまったが、良く考えてみるよ」
「本当に、そうしてくれる?」
「うん」
昇平は、そう答えた。すると静子が涙顔をしてしがみ付いて来たので、静子と暗がりでキスをした。それからレストラン『スマイリー』に行って食事をして、その後、大倉山駅改札口に入って、東西に別れて電車に乗って、それぞれの住まいに帰った。そして『オリエント機械』設計部の送別会は3月27日の木曜日、綱島の料理屋『浜太郎』で行われた。跳び込み参加は製造部の雨谷幸雄と原田隆夫と営業部の吉岡昇平の3人だった。送別会の開始時刻になると、まず設計部の本間課長から、退職者、藤井敏久、秋山勝文、田中俊明、石坂房子の4名の送別会であることが発表され、松尾常雄部長から、新天地で頑張って欲しいとの、4名へのおざなりの送別の言葉があった。それから石本栄一開発部長が、次の仕事先での活躍を期待していますと挨拶して、皆で餞の乾杯をした。乾杯が終わると、酒好きの連中が中心になり、退職する4人の涙の挨拶など、まともに聴かず、仲間同士で、別の話題に花を咲かせ、騒ぎまくった。昇平は設計の宮里、越水、大塚、若森らと田中俊明を囲み、別れを惜しんだ。その設計部主催の送別会が終わってから、昇平は同期の宮里と田中と3人で、綱島駅から、電車に乗り、武蔵小杉駅で下車し、バー『エリカ』に飲みに行った。ドアを開けて、中に入ると、前田真由子ママが昇平の顔を見て大喜びした。3人はテーブル席で保坂園子や佐山仁美にビールを注いでもらって、改めて、田中俊明の送別会をした。田中が涙顔して念を押すように言った。
「会社が別々になっても、俺たちは親友だからな」
「あたり前田のクラッカーだよ。俺たちの絆は強いんだから」
昇平は、そう返事して笑った。昇平は田中俊明に随分と助けてもらった。麻布の深沢家から祐天寺の『春風荘』に引っ越しする時、田中の家の外車『ターナス』を利用させてもらった。あの深沢家からの脱出劇は、今も忘れられない。田中が車を運転して深沢家に来てくれなかったら、どうなっていただろう。そんな昇平が語る田中たちとの絆を語る昇平の話を聞いて、『エリカ』の真由美ママたちはセンチメンタルな若者の別れに、胸を詰まらせた。そこへ何と『クリエイト機械』の川内裕次専務が入って来たので、昇平たちは、びっくりした。かっての上司、川内専務も驚き、先に声をかけて来た。
「おう、今日は何だね。3人そろって」
昇平は直ぐに立ち上がって、直属の上司だった川内専務に挨拶した。
「あっ、川内専務。お久しぶりです。今日は田中君の送別会を終えて、2次会をしているところです」
「おお、そうか。田中君の送別会か。『オリエント機械』での修行を終えて、『田中電送機器』の仕事を継ぐのだな」
「はい、そうです。実家の工場で人手が少なくて困っているので、早く戻れというので、今月いっぱいで辞めることになりました」
「ところで、田中以外の2人は、どうなんだ。『オリエント機械』を辞めて、うちに来る気はないか。給料を倍にしてやるぞ」
川内部長が、そう言うと、宮里が昇平の顔を見た。どうするという顔つきだった。日頃、給料が安いとぼやいている昇平の顔を田中も見た。昇平が何も答えないでいると、真由子ママが昇平たちに言った。
「給料を倍にしてもらえるなら『クリエイト機械』に転職しなさいよ」
真由子ママにそう言われたが、昇平は職業差別をする訳では無いが、真由子ママの意見に従う気になれなかった。
「僕たちは入社して3年経ち、ちょつと仕事に自信が持てるようになって来たところです。これから本格的に知識を積み重ね、それに見合った給料をいただけるものだと確信しています。従って『オリエント機械』の経営がおかしくならない限り、転職しません。なあ、宮里」
「うん。俺も設計に残り、田中の分、頑張らなければなりません」
すると川内専務は残念そうな顔をして言った。
「そうか。遠藤常務は良い社員を持ったものだ。羨ましいよ。君たちの気持ちは分かった。でも会社を辞めたくなったら、うちに来い」
「ありがとうございます。頭に入れておきます。では失礼します」
昇平が、そう答え、頭を下げると、川内専務は真由子ママに連れられ、奥の席に移動した。邪魔者が去ると宮里が会社を辞める設計部の石坂房子や営業部の向井静子のことを話題にした。自分たちと同期入社の三浦照男が退職し、浅岡陽子と結婚し、新会社を設立し、順調であるのを羨ましく思い、恋のチャンスを求めて石坂房子は会社を辞めると言ったという。
「まさか田中と結婚するつもりでいるのじゃあないだろうな」
昇平が、そう訊くと田中は、そんな気配は全くないよと答えた。確かに彼女たちは結婚適齢期になっており、気が付けば『オリエント機械』にろくな男が残っていないと判断したのかもしれない。こうして田中の送別会の日は過ぎ去った。その翌週の月曜日の夕方、営業部では向井静子と金子孝昌の歓送迎会を行った。金子孝昌は岡田課長や昇平の意見による人事異動で来月から営業部配属が決まっていた。会場は綱島の『福龍亭』で、1年前、田浦係長と浅岡陽子の送別会を行った料亭と同じだった。料理が並べられた部屋に伊藤部長以下、全員が集まり、席についたところで、岡田課長が司会を務め、伊藤部長が、まず向井静子に送別の言葉を送った。それに対し、向井静子が長年お世話になったと、涙を光らせ、謝辞を述べた。その後、伊藤部長が一呼吸おいて、金子孝昌を歓迎する言葉を述べ、金子孝昌が明日から営業部に配属されることへの喜びを喋り、そこで乾杯。それからは料理をいただき、酒を飲み、雑談をした。歓送迎会が、終了すると、向井静子は宮本知子や資材部の渡辺桂子、受付の添田汐里らと、何処かへ行った。伊藤部長は、お疲れさまと言って、自宅へ向かった。昇平たちは岡田課長に連れられ、武蔵小杉のバー『オリーヴ』に行った。『オリーヴ』は先客で混んでいたが、昇平たちが行くと、何人かが帰って行き、木村弥生ママも岡田課長の所へやって来た。昇平たちは何時も相手をしてくれる宮本奈々や関口ゆかりを相手に、適当なことを喋って時を過ごした。金子孝昌は岡田課長が酒を飲みながら営業部員の心得などを、指導するので辛そうだった。宗方主任も、早く奥さんの所へ帰りたい素振りだった。それを見て昇平は適当なところで岡田課長に言った。
「岡田課長。明日、朝礼がありますので、そろそろ帰りましょう」
「そうだな。明日は朝礼だからな」
岡田課長は昇平の言葉に、直ぐ納得した。4人は、弥生ママや奈々たちに見送られ、『オリーヴ』を出てから武蔵小杉駅に行き、東横線の電車に乗る者と南武線の電車に乗る者とに分かれて、解散した。
〇
4月1日、昇平が勤める『オリエント機械』は午前9時から新年度を迎え、年度初めの朝礼と入社式を行った。総務部の浜田課長が司会を務め、まず全員で社是、社訓を唱和し、式次第に従い磯部社長からの挨拶が続き、その後、新入社員男子8名、女子4名の名前が読み上げられ、新入社員代表、藤田義明が入社式の挨拶を読み上げた。その後、遠藤常務が本年度の目標を掲げて、新年度、最初の朝礼は終わった。それから、それぞれの職場に戻り、昇平たちは営業部の席に就いた。岡田課長から座席の変更の指示があった。伊藤部長の前の席に岡田課長が座っているのは以前と変わらないが、その前に2列に並んだ机の席順に変更があった。岡田課長の直ぐ前の右側の列の向井静子が座っていた席に宮本知子が座った。その次の昇平の席は変わらず、新人女性社員の青柳加代子が昇平の右の席に座った。岡田課長の左側の列には、今まで通り、宗方主任が座り、その隣りの宮本知子が座っていた席に、金子孝昌が座って、金子孝昌と昇平は相向かいで座る格好となった。従って、昇平は相向かいの金子孝昌と右隣りの青柳加代子に、細かなことを指導する立場にされてしまった。営業部に配属になった金子孝昌の活動範囲が、名古屋地区と静岡地区に決定したので、昇平が最初に、金子を静岡地区に案内し、『TTパック』、『SW製袋』、『岩水化成』などに連れて行って担当変更の挨拶をした。『FUフィルム』に就ては、秘密保持契約があるので、昇平が、そのまま担当することになっているから、金子を連れて行かなかった。金子孝昌は静岡地区の挨拶回りが終わると、今度は宗方主任に連れられ、名古屋地区の挨拶回りに出かけて行った。金子との挨拶回りをして、ホッとする間も無く、今度は『オリエント貿易』から機械部に配属された富山克彦が1週間の研修に、『オリエント機械』にやって来た。その為、昇平は富山克彦にヘルメットを着用させ、工場内の機械組立現場、検査現場、出荷前試運転現場を案内する他、設計部の製図現場や、資材部の部品保管現場などを案内し、機械部で販売する機械装置が、どのような工程で出来上がるのかを説明した。そして4月11日の金曜日、青柳加代子と富山克彦の歓迎会を『福龍亭』で行った。何時ものように岡田課長が司会を務め、伊藤部長が『オリエント貿易』の新人、富山克彦と『オリエント機械』の営業部に配属になった新入社員、青柳加代子を歓迎する挨拶をした。富山は宮里と同じ『Y大学』出身で、宮里が所属する設計部の本間課長の他、滝口、若森、大塚たち先輩が『オリエント機械』に沢山いるので、早く馴染めそうだった。また営業部の宗方主任、金子孝昌とも同じ、福島県出身だったことから、『オリエント機械』に研修に来たのに、新入社員同様に可愛がられ、歓迎会に招かれ大喜びした。昇平の隣りの席に配属になった青柳加代子は、『オリエント機械』に入社して初めての飲み会なので、緊張していて、宮本知子の傍を離れなかった。添田汐里は総務部の受付係なのに営業部の飲み会に誘われ、迷惑そうな顔をしていた。その新人歓迎会は、富川克彦が、『オリエント機械』の為に頑張りますと挨拶して終了した。それから、何時ものように伊藤部長は自宅に帰り、女性たちも遅くなるからと自宅に帰った。昇平たちも、そのまま帰りたかったが、何時ものように独身の岡田課長が武蔵小杉のバー『オリーヴ』に行こうというので、付き合った。富川克彦も『オリエント貿易』の田園調布の社員寮にいるので、昇平たちと同行した。『オリーヴ』に入ると、木村弥生ママが大喜びした。昇平たちは、カウンター席の片隅で弥生ママと親密に話す岡田課長を他所に、テーブル席で奈々、ゆかり、志延を相手に酒を楽しんだ。妻帯者の宗方主任が帰りたいといった素振りを見せたので昇平たちは10時に切り上げることにした。昇平は1週間、指導して来た富川に岡田課長に先に帰るからと伝えろと指示した。すると、富川はカウンター席に行って、岡田課長に伝えた。
「寮の門限が11時になっておりますので、お先に帰らせていただきます」
「おお、そうか。1週間、ご苦労さん」
「こちらこそ、お世話になり、ありがとう御座いました。では失礼いたします」
富川はそう言って、岡田課長に深く頭を下げた。そこで空かさず、昇平も岡田課長に言った。
「僕たちも富川君と同じ方向なので、一緒に帰ります」
「おお、そうか。ご苦労さん。また来週会おう」
岡田課長は、そう言って、カウンター席で背を向けた。昇平たちは奈々たちに見送られ、『オリーヴ』を出て、東横線の武蔵小杉駅に行き、そこで宗方主任と別れ、渋谷行きの電車に乗った。富川は田園調布駅で降り、昇平は祐天寺駅で降り、渋谷方面に向かう、金子を見送った。昇平たちが、そんな春の浮かれ気分になっている間、製造部の多賀部長、高野課長、小林課長代理、原田隆夫たちは『TK興産』に新しい金型を納入し、試運転準備をしていた。昇平は、その試運転に金子孝昌と設計の若森君夫を連れて立会いに出かけた。押出機に樹脂原料を投入し、新しく取付けた円形の金型から溶融したフィルムを吹き上げると、以前の金型のような筋の発生も無く、一発で綺麗なフィルムを製造することが出来た。皆、拍手して喜んだ。試運転終了後、客先の会議室で、昇平は北村部長や青山次長たちを相手に、検収打合せを行った。結果、客先と検収の交渉をする昇平を会議に参加してくれた多賀部長が援助し、仮検収書をいただき、昇平は胸を撫で降ろした。会社に戻り、岡田課長を通じ上司に報告すると遠藤常務がとても喜んでくれた。若い社員の意見を採用して良かったと言ってくれた。だが営業マンにホッとしている暇など無かった。大手企業『三菱油化』から引合いがあり、昇平は『オリエント貿易』の島崎主任と『МS製作所』の上野課長と宮里敦司と4人で総武線の電車に乗り、千葉県の九十九里浜の突端、銚子に行き、そこからタクシーに乗り、利根川を越え、砂丘の中の道を神栖の『三菱油化』の鹿島工場建設現場に出かけた。建設現場へ行くまでの道路は凸凹道で、どこが道なのか、昇平たちには分からなかった。突然、ダンプカーが砂丘から跳び出て来たりして、怖がり屋の島崎主任に抱き付かれたりした。タクシー運転手は笑って言った。
「ここは毎日のように道が変わるんです。俺たちは、お天道様を見て方向を確かめ、車を走らせるんです。次っからは、鹿島神宮駅の方から来た方が無難ですよ。俺たちは雨の日は、こっちに来られねえから・・」
昇平たちは、それを聞いて、こんな所に、本当に機械装置を設置しようと、『三菱油化』が考えているのか疑問に思った。だがプレハブの建設事務所に行くと、四日市工場から来た担当者が、昇平たちを待っていた。打合せは簡単だった。『ID石油化学』の研究所に納入したキャストフィルム製造装置より、少し狭幅のテスト機が欲しいということだった。客先のグループ会社、『三菱重工』が同様な機械装置を製造しているというのに、『オリエント機械』に注文したいらしかった。何処の研究者もアメリカの『ドナルド社』からの技術を習得したいと切望しているようだった。打合せが終了すると『三菱油化』の担当者が、タクシーを鹿島神宮駅から呼んでくれた。その帰り、上野課長は、今度来る時は車で来ようなどと冗談を言った。だが一週間後、昇平たちが成田経由で鹿島神宮駅に行くと、上野課長の姿が見えなかった。『オリエント貿易』の島崎主任に確認すると、上野課長は本当に車で現場に直行すると言っていたという。昇平たちが駅前で昼食を済ませ、タクシーに乗って、『三菱油化』の建設現場に行くと、本当に上野課長が自家用車から降りて、昇平たちを待っていた。そして午後1時から、『三菱油化』の保科課長たちに見積書と見積仕様書及び全体図を提出し、詳細説明を行った。説明は2時間ほどで終わった。それからタクシーが来る間、昇平たちは上野課長が赤土の砂丘に生えている磯松の若木をスコップで掘るのを眺めた。自宅の庭に植えるのだと言う。上野課長は、格好の良い小さな磯松を掘り出すと、紙袋に入れ、車のトランクに入れて、さよならを言って、先に帰った。昇平たちは、それからやって来たタクシーに乗って鹿島神宮駅まで行き、そこから電車で東京に帰った。数日後、昇平は『オリエント貿易』の島崎主任と丸の内にある『三菱油化』本社に行き、購買部長たちと打合せして、テスト機械の注文書をいただいた。そして、夜、『三菱油化』購買部の山田部長と高橋課長を食事に接待した。『オリエント貿易』の太田部長と島崎主任と一諸に、銀座の百貨店『三越』前で、山田部長と高橋課長と待合せして、そこから中華料理店『銀座アスター』に行き、コース料理を楽しみながら、酒を飲んだ。その後、銀座のクラブ『風花』に移動し、山田部長たちとの親睦を深めた。桐本悦子ママは今日も和服姿だった。甘い香水の香りを振りまき、男たちを接待した。昇平はテーブル席が狭いので、カウンター席で西村マスターと喋くって時間を過ごした。10時半過ぎ、山田部長たちが帰ると言うので、昇平と島崎主任は店の清算を太田部長に頼み、店から、銀座通りに出て、山田部長と高橋課長を見送った。それから『風花』に戻ると、太田部長は先に帰っていなかった。昇平たちが、西村マスターに預けておいたカバンを受取り、帰ろうとすると、悦子ママが島崎主任に言った。
「島ちゃん。ヨッちゃんと少し飲んで、気を楽にして帰ったら。サービスしておくわよ」
「いいんですか?」
「良いも悪いも無いわよ。お客さんを連れて来てくれたのだから」
「では、ヨッちゃん。甘えて少しだけ飲んで行こう」
昇平は悦子ママと島崎主任に誘われ、島崎主任に付き合うことにした。昇平は島崎主任と綾と理沙と悦子ママを相手に、ウィスキーを飲みながら、笑い話をした。男は女に弱い。結局は閉店まで居残り、それから帰ることになった。
〇
そんな客先との営業の仕事に走り回っているうちに、同人誌『山路』の月例会の日がやって来た。昇平は夕刻、中野の喫茶店『ロダン』に行った。出席者は今回も10人ちょっとだった。今回は水戸潤治の随想『窓を開ける』から始まった。蛭間紀夫が、まず批評した。
「この短い随想に3つの事象が書かれているのは多すぎます。実在の出来事をモデルにしているようだが、1つの事象に絞って深く書き込んだ方が良かったのではないかと思います」
「何故か作者が感情的になって書かれている感じを受けました。特に最後の語句など、説得調なのが少なからず気になりました」
西条麗子が厳しい批評をしたので昇平は、助け船を出す批評を行った。
「髄筆は小説と異なる特殊性を持っています。形式にこだわらない、自由表現なので、こういった書き方でも良いのではないでしょうか。小品ながら僕には好感の持てる作品でした」
以上のような批評を受けると、作者の水戸潤治は、こう言った。
「昨年の夏、登山した時の鮮やかな印象を主題にして、他の2つの事象を関連させてまとめましたが、主眼を、もっと絞るべきでした」
昇平は、厳しい批評が飛び交うので、自分の作品の合評会の時は、どんなことになるのだろうと、不安になった。水戸潤治の作品の批評の後、飯塚会長の作品『怯者の肯定』の合評に移った。同人誌『山路』の会長の作品なのに、同人たちの批評は厳しかった。『中央文学』や『新生』の同人たちとは異なり、遠慮容赦無い事を言った。高橋和利は、こう批評した。
「長編小説の前篇とのことであるが、古めかしい活弁調の文章が到る所にあり、如何にも陳腐という感じを拭えません。1回だけ読んだのでは分からぬが、次回の続きを読めば作者の創作の意図が分かるようにな気がします」
作者と古い付き合いの西条麗子が続いて批評した。
「作者が作中に見えるので、私には馴染めません。主人公の男性へ作者が密着しすぎることは良くないと思います。もっと女性側からの描写を加えることで作品が、すっきりするのではないでしょうか」
広松彰人も発言した。
「いたずらに複雑にこね回していて、何を伝えたいのか、ポイントを把握することが出来ず、読んでいて苦痛でした」
司会の沢木駿介は、こう語った。
「続きものは、前編だけで批評するのは難しい。底の浅い作品と見られてしまう。長編小説の難しさが、そこにあります。次回に期待しましょう」
以上の批評に対し、飯塚会長は、こう感想を述べた。
「本作品は10年ほど前に創作した作品で、良否は別として愛着があり、今回、掲載しました。臆病者を夫にした女性の絶望感を浮き彫りにしたかったのですが、作者の視点の不明瞭さが、そのまま読者にとって不明瞭な作品になってしまったようです。後篇をどうすれば良いのか、皆さんの意見を参考にまとめたいと思っています」
こうして、同人誌『山路』の合評会は終了した。その後、飯塚会長、沢木駿介、西条麗子たちが、居酒屋『カモメ』に行くと言うので、岡本悟史、宮内英武、西沢芳江、門倉久美は先輩たちについて行った。そこで蛭間紀夫、広松彰人と昇平の3人は中野から新宿に移動し、新宿ゴールデン街のバー『ランラン』に行った。『ランラン』に入ると、何と昇平の文学仲間の青木泰彦と石田光彦がカウンターで飲んでいた。
「まあっ、ヨッちゃん。いらっしゃい」
花田香織ママが、昇平の久しぶりの来店を笑顔で迎えた。昇平は同人誌『山路』の仲間、蛭間紀夫と広松彰人を皆に紹介し、5人で酒を飲み文学論を交わした。香織ママが熱弁を振るう昇平に言った。
「ヨッちゃん。矢張り、文学を捨てきれないでいるのね」
「うん。ストレス解消の為の趣味だけどね」
「青ちゃんや石ちゃんは、テレビの台本などに取組み、本格的よ」
香織ママが、そう言うと青木泰彦が頭を掻きながら皆に言った。
「俺たちが文筆の仕事で食えるようになったのは、吉岡君が木下徹先生に俺たちを紹介してくれたお陰だよ。吉岡君に感謝、感謝だ。なっ石田」
「うん。吉岡君が仕事を譲ってくれなかったら、僕らはルンペンになっていたかも」
「それは言い過ぎだろう。俺は看板書き、石田は古本屋の奥で居眠りの毎日ってところかな」
青木が、そう言うと昇平たちだけで無く、江里も則子も、他の客も笑った。昇平は皆に持ち上げられ、ゴールデン街の夜に酔った。しかし、昇平が文学に酔っている時間はほんのわずかで、昇平の日常は『オリエント機械』の営業活動でいっぱいだった。それでも、文学を愛する昇平の事を知る人たちは昇平に声を掛けて来た。1日の仕事を終え、昇平が夕食を食べに『信濃屋』に寄ると、早坂桐子が今度の日曜日、『天井桟敷館』へ行くので、昇平に見学に来ないかと誘って来た。昇平はその日に予定が入っていなかったので、同意し、桐子に案内され『天井桟敷館』に出かけた。その場所は、かって麻布の深沢家から渋谷へ遊びに行く時の都電の通り道で、昇平には懐かしい並木橋近くだった。昇平は、『天井桟敷館』を目にしてびっくりした。大きなピエロのマスクやマネキン人形の手や足や首などが建物に張り付けられていて異様だった。昇平は桐子の後について、『天井桟敷館』に入った。1階の喫茶室の人たちに挨拶すると、桐子は地下の小劇場に昇平を案内した。そこには40程の客席があり、舞台は意外と小さかった。観客は20代から30代の若者たちばかりだった。稽古をしていたのは『犬神』と題する仮面劇だった。近く青山の『草月会館』で上演されるとの話だった。昇平は桐子と片隅の席に座り、若者たちの熱心な稽古風景を眺めた。俳優たちは汗びっしょりになって稽古をしていた。主人公の月雄と祖母と愛犬シロとの生活、月雄と17歳の娘との結婚、そして、その花嫁の死の物語は怪談みたいに不気味で異様だった。昇平は稽古を見終えて、萩原朔太郎の『月に吠える』を連想した。夜空の黄色い月に向かって吠える狼の姿が、何故か彷彿として来た。寺山修司は、もしかしたら萩原朔太郎の作品からヒントを得て、『犬神』を書き上げたのではないだろうかと思った。その稽古場を見てから、昇平は桐子の紹介で、寺山修司と会った。寺山は2階の事務室から降りて来て、母親に客人だと伝え、コーヒーを出させ、昇平と面会した。昇平がペンネーム『吉岡昇太郎』の名刺を出すと、寺山はそれを見て笑顔で言った。
「良いなだね『春風荘』って。そこで小説書いているの?」
「はい。会社勤めの合間の趣味の創作です」
「僕は『松風荘』に住んでいる。『春風荘』に較べると、何故か『松風荘』というのは古臭いね。君、会社をやめたらどうだ。そしたら本物になれるぞ」
寺山の言葉に昇平は唖然とした。会社を辞めたら、東京では生きて行けない。桐子のように花屋や食堂でアルバイトをしながら、演劇の研究生として楽しんでいるのと状況が違う。家賃、食事代、洋服代、洗濯代、新聞代、本代、ノート代、総てにカネがかかる。カネ、カネ、カネの世の中である。それを会社を辞めろとは、無茶苦茶な話だ。
「給料をもらえないと、飢え死にしてしまいます」
「なら、物書きになろうなんて夢は捨てるんだな。ところで『犬神』はどうだった?」
「朔太郎に出会った気分です」
昇平の言葉に寺山の顔色が急変した。寺山は嫌悪するような厳しい目で昇平を睨みつけ、しばらくして、ニヤリと笑った。そして萩原朔美を紹介してくれた。彼は朔太郎の孫だった。昇平は、自分の祖父、慶次郎と朔太郎が知り合いだったことを朔美に説明した。すると朔美は昇平が群馬出身だと知って、昇平と握手した。それから話が進むと、寺山は今後、昇平のことを『祐天寺昇太郎』という名で呼ぶからと言った。また昇平が『М大学』卒だと話すと、寺山は『状況劇場』の唐十郎が『М大学』出身で、俺の前を走っていたが、今や俺の方が彼を追い越していると言って笑った。その後、寺山は昇平に訊ねた。
「ところで祐天寺君。君の大学の第2外国語の専攻は何語だったかね?」
「はい。僕はドイツ語を専攻しました」
「なら丁度良い。今度、僕らはドイツのフランクフルトで開催される『世界前衛演劇祭』に参加するんだ。通訳として一緒に行ってくれないかね」
「ぼ、僕は通訳が出来る程、ドイツ語が堪能でありません」
「でも少しでもドイツ語が分かるなら同行してもらえると有難いのだが。勿論、旅費はこちらで負担するから」
「僕の勤務先は、小さな会社なので、長期休暇は無理です」
昇平は敬愛するドイツの詩人、ゲーテ、ヘッセ、ハイネ等が生まれた国、ドイツに行ってみたかったが、同行出来ないと断った。寺山は桐子から、近くの劇団『テアトル・エコー』のキノトールの仕事を昇平が手伝ったことがあることを耳にしていて、帰国後、再度、会おうと言って、2階の事務室に戻って行った。昇平は『天井桟敷館』を見学し、寺山修司と話した後、レジにいた寺山修司の母にコーヒー代を支払い、『天井桟敷館』を出て、桐子と渋谷に行き、喫茶店『フランセ』で演劇について長い時間、論じ合った。
〇
藤の花やツツジの花の美しい季節、5月になった。昇平の大学時代の友人『モエテル』の連中が、連休に長野に建築する山荘の地鎮祭に行くので、同行しないかと誘われたが、休みが3日間だけなので、昇平は長野行きに参加しなかった。その連休のしょっぱなの3日の午後、昇平が同人誌『山路』第2号に投稿する作品の執筆に取りかかつていると、林田絹子から、現在、畑中鈴子と橋本美智子たちと都内で遊んでいるので、夕方、部屋掃除に来ると言う電話が入った。昇平は了解した。来るのは勝手だ。それより、同人誌『山路』第2号の原稿締切りは、5月末と迫っている。早く書き上げ、何度も読み直し、弱点を見つけ出し、修正し直さなければならないと思うと、気が焦った。書いているのは同人誌『新生』の主幹、森秋穂の自害と同人、岬百合香の後追い自殺にまつわる小説で、岬百合香の恋人だった羽島流一の語りによって、その哀切さを表現しようと試みた。だが思うようにペンが進まなかった。ノートに走り書きをしては消し、また書き加えの連続だった。そんな苦労をしているところに、林田絹子がやって来た。部屋の鍵を持っている彼女は、ガチャガチャと部屋の鍵を使ってドアを開けると、グリーン色のワンピース姿で部屋に入って来て、窓のガラス戸を開け放った。
「新鮮な空気を入れなければ駄目よ」
「止めてくれよ。東京の空気は決して新鮮じゃあないんだ。それに外の騒音が入ると思考が乱されるんだ」
昇平は反論した。すると絹子は言い返した。
「そんなことないわ。『春風荘』は駅や駒沢街道から離れていて、欅の若葉が揺れて、爽やかじゃあないの」
「物書きには密室が好都合なんだ」
「お勝手も汚れているわね。ちゃんと食べているの。ちゃんと食べないと駄目よ。生きる基本なんだから・・」
出会った頃の絹子は、言葉少なかったが、最近は昇平が一つ喋れば、その二倍の言葉が返って来た。絹子はバックと紙袋を部屋の片隅に置くと、直ぐに部屋掃除を始めた。これでは執筆活動は出来ない。昇平は部屋掃除する絹子に言った。
「俺、部屋掃除の間、邪魔だろうから、『ナイアガラ』に行ってコーヒーを飲んでいるよ」
「そうね。そうして。私、部屋掃除してから、『ナイアガラ』に行くから」
絹子が理解してくれたので、昇平は祐天寺駅と『春風荘』の中間にある洋食レストラン『ナイアガラ』に行って、コーヒーを飲みながら、小説『この愛のかたち』の原稿の続きを書いた。だが絹子の事が気になり、途中でペンを置き、『ナイアガラ』のマスターとフランスでフランシーヌが焼身自殺した話や、ドゴール大統領が辞任した政治運動などについて意見交換した。そんな話に盛り上がっているところに、絹子がやって来たので、昇平と絹子はハヤシライスを註文し、夕食を『ナイヤガラ』で食べた。そして夕食を済ませると、再び『春風荘』に戻った。部屋に入り、昇平が、さあ上野駅まで絹子を送って行こうと外出着に着替えようとすると、絹子が笑って言った。
「何、着替えようとしているの。私、今日、泊るって姉に言って来たのよ」
「えっ。ここに泊まるってお姉さんに言って来たの?」
「ここに泊まるなんて言って来ないわ。スズちゃんの家に泊まるって言って来たのよ」
「なら、良いけど。独身女性の外泊は良くないよ」
「良くないのは分かっているわ。でも昇平さんの所に泊まるのなら、問題ないでしょう」
「僕には分からないよ」
「そんなことより、早くお風呂に行きましょう」
絹子は、そう言ってピンク色の洗面器と石鹸とタオルと着替えを持って、坂下の銭湯『松の湯』へ出かける準備をした。昇平は絹子に言われるまま、彼女の指示に従った。『松の湯』で身体を綺麗に洗って、『春風荘』に戻ると、絹子が夕方、買って来てくれた赤いイチゴを、部屋でいただいた。とても甘いイチゴだった。イチゴを食べてから、2人は台所で歯磨きし、一つの布団に入って寝た。絹子は昇平の愛を確かめると、ぐっすりと眠った。翌朝、昇平は朝起きるや絹子に帰り支度をさせ、絹子を中目黒の喫茶店『テネシー』へ連れて行った。そこでトースト、ゆで卵、サラダ、コーヒーの朝食を楽しんだ。昇平は、その後、絹子を上野駅まで送って行った。何時ものように常磐線のホームで見送り、山手線の電車に乗り、渋谷に向かいながら、『春風荘』に一泊して帰って行った林田絹子に思いを巡らせた。昨年末、自分は何故、彼女に限りない欲望を感じ、彼女と結合し、そして今になっても、その存在に魅入られ続けているのか。それは怠惰な生活の中で彼女の単純な親切心に、甘えているに違いなかった。彼女が部屋掃除など、身の回りの世話をしてくれることは有難かった。会社勤めのかたわら創作活動を続ける藤沢周平は高橋和子と再婚し、奥さんが原稿用紙への清書までしてくれるので、有難いと仲間に言っているそうだが、羨ましい限りだ。昇平は絹子が藤沢周平の妻のようなサラリーマン作家の妻として、やって行ける女性であるか考えたりした。絹子は大学を出ていないが、吉屋信子の学んだ栃木女子高校の出身で、それなりの知性と教養を身につけていた。また兄が翻訳などの文筆の仕事をしていて、彼女も文学に興味を抱いていた。そんな成長環境から、文学に夢中の昇平に興味を抱いているのかも知れなかった。笛村真織、寺川晴美、大橋花江たちのように余り燃えることも無く何時とはなく、月日を重ね、結ばれていた。彼女は結婚のことを余り口にしなかった。昇平の小説『君知るや我が心を』を読んで、昇平が貧窮の中で結婚などよりも、作家になる夢を追いかけていることを知っていた。昇平は本業である『オリエント機械』の仕事で好成績を上げ、給料をアップしてもらい、生活が豊かになった時点で、本腰を入れて創作活動に取り組むべきではないかなどと考えたりしていた。瞑想を重ねれば重ねる程、昇平の心は迷走した。『春風荘』に帰り、絹子の居なくなった部屋で、再び小説『この愛のかたち』の執筆に取り組んだ。そこへ何と、突然、従兄の深沢忠雄が訪ねて来た。永福町に住む大学時代の友人、本郷博康の所へ行った帰りだという。昇平は久しぶりに会った忠雄を見て、元気そうなので、転職して順調なのだと推測した。彼は狭い昇平の部屋の中を観察してから言った。
「今度、インドネシアの駐在になるかも知れないので、ちょっと悩んでいる」
「でも、海外との貿易の仕事をするのが希望だったのだから、良い経験になるのじゃあないですか。僕なんか、貿易の仕事をしたいと思って入社したのに、全くお呼びがかからなくて、不満いっぱいです」
「しかし、外国駐在の話が具体的になって来ると、ちょっと心配になるんだよね。両親のことが・・」
「何、言ってるの。叔父さんも叔母さんも、まだ若いんだから心配ないよ。それに何かあったら、高子も僕もいるんだから」
「そうだよな。その時はよろしくお願いするよ」
忠雄は海外駐在になった場合のことを、予め昇平に依頼しておこうという目的で来訪したみたいだった。『春風荘』の部屋で1時間ほど話した後、昇平は酒好きの忠雄を、『信濃屋』に連れて行き、酒を飲んだ。店の主人夫婦や板前の丸山やアルバイトの早坂藤子や桐子は、昇平が連れて来たハンサムな若者が何者なのか気になって仕方ないみたいだった。最初に桐子がビールとつまみを持って来て、昇平に訊いた。
「こちらの方は、文学のお仲間?」
「いや。従弟の忠雄さんだよ」
「まあっ。麻布の?」
「そうだよ」
「そうでしたか。私、早坂桐子と申します。よろしくお願いします」
桐子は、そうお辞儀して、カウンター前に引き返して行った。その後ろ姿を見送り、昇平に忠雄が訊いた。
「彼女。お前と随分、親しいようだが、お前の彼女か?」
「いや。ちょっとした知り合いだけです」
昇平が、そう答えたが、忠雄は昇平の言葉を信じなかった。
「それだけじゃあ無いだろう」
「忠雄さん。勝手な推測はやめて下さい」
「うん。分かったよ」
忠雄は、そう言ってから、深沢家の近況を語った。両親が、高子を、そろそろ嫁がせようと考えているとの事だった。また昇平が忠雄の恋人について質問すると、忠雄は親戚の娘との交際を始めたと白状した。昇平は、引っ込み思案の忠雄に恋人が出来て良かったと、忠雄とビールのグラスをぶつけて乾杯した。忠雄は昇平に種々、告白出来たことに満足して、ほろ酔い加減で、祐天寺駅から電車に乗って帰って行った。5月の連休は、こうして、あっという間に過ぎ去った。再び忙しい『オリエント機械』の仕事が始まった。『DN印刷』からインドネシアに輸出する複合フィルム製造装置の商談があり、羽田にある『DN印刷』の関連機械メーカーとの打合せに、昇平は設計部の志田係長と出かけた。打合せはスムーズに終わり、『DN印刷』の担当者から内示の言葉をいただいた。このようにして忠雄が赴任するかも知れないインドネシアの仕事が決まったということは、インドネシアのスカルノ大統領が失脚し、スハルト大統領に代わっても、日本とインドネシアの関係は深く、これから更に両国間の貿易が拡大するのではないかと予想された。昇平は忠雄がインドネシアに行って活躍することと、『オリエント機械』の輸出の仕事が伸長する事を期待した。
〇
昇平が恐れていた同人誌『山路』の合評会の日がやって来た。昇平は5月10日、土曜日、同人たちに何を言われるかを予想して、返答を考えてから、喫茶店『ロダン』に行った。2階の月例会の会場に入ると、飯塚会長や沢木駿介、西条麗子、添田計夫たちが、固まって話していて、蛭間紀夫、石橋久幸、広松彰人、岡本悟史や女子たちも少し離れた所で固まって、会話していた。昇平は、その中間の席に宮内秀武、岩崎広吉たちと座り、合評会が始まるのを待った。定刻の6時半になると沢木駿介の司会で、合評会が始まった。最初に松木朝子の作品『木の花咲くや姫』から始まった。ストーリーは大山津見神の娘、磐長姫と木の花咲くや姫の姉妹と天照大御神の孫にあたる邇邇芸命の恋に似た現代の男女の恋を描いた作品だった。この作品について、岩崎広吉は、こう批評した。
「登場人物の対比の素晴らしさを高く評価する。作者の文章の中に鋭い感受性が汲み取れて、面白い作品でした」
すると、石橋久幸が、その岩崎の評価とは異なる意見を述べた。
「私には独断的な概念が散在し、内容に伴わないのが気になりました」
「私も同様で、結末の主人公の行動が飛躍しすぎて不自然に感じました」
山本香澄も遠慮なく批評した。いろんな意見の後、作者、松木朝子は、恥ずかしそうに自分の考えを喋った。
「この作品は過去のある体験を素材にしたもので、小説にまとめ上げようとしましたが、書き足りなかった気がします。私はプロレタリア文学の道を指向していて、その為の糧を吸収したいと思っています。従って、種々雑多な作品を取り扱う同人誌『山路』の会を辞め、何処かの先生について、勉強したいと思っています。何処かありましたら、教えて下さい」
松木朝子が突然、『山路』の同人会から脱会すると聞いて、飯塚会長はじめ、同席していた会員はびっくりした。だが西条麗子は、それ程、びっくりせず、松木朝子に言った。
「プロレタリア文学を勉強したいなら、この近くに良い学校があるわよ」
「ええっ、本当ですか。教えて下さい」
「東中野駅近くの『日本文学学校』よ。校長は野間宏先生。講師は安倍公房、金子光晴、千田是也といった有名作家よ。私も、時々、顔出ししているの。もし宜しかったら、紹介して上げるわ」
昇平は、西条麗子の言葉を聞いて、この女性は一体、何者かと思った。何処かの有閑マダムのようで、何時も綺麗に着飾りながらも、何処か知的な雰囲気を持ち合わせている。松木朝子の作品の合評が終わると沢木駿介が、吉岡昇太郎の作品『君知るや我が心を』の合評に入ることを告げ、まず、添田計夫が批評した。
「作者には悪いが、思いをぶちまけただけの作品で、文学的工夫が足りない。もっと作者の意図を加えたら良かったねではないかと思う」
石橋久幸は、こう言った。
「表現に使い古された言語が多く、陳腐な作品になってしまっている。表現に独自性が欲しいと感じた」
門田久美が、それに付け足した。
「対話相手の女性の印象が全く感じられないので、君知るやの君がぼやけてしまい、残念な気がします」
蛭間紀夫はこう語った。
「肉親に対する見方が一面的なので、別の人間の考えと対比させて、真実性らしく盛り上げて欲しかった」
それに同調するように広松彰人が笑って言った。
「俺は青春の鬱憤を臆面もなく歌い上げた吉岡さんの気概を高く買います。天真爛漫で、羨ましい」
昇平は、広松に持ち上げられ、ホッとして自分の感想を述べた。
「僕は創作は作者の主体を鮮明にする場であると思っています。僕はこの観点から作者の人間像を作中の人物に仮託して、この作品を描いてみました。対話形式にしたのは、イメージを強烈にする為でしたが、どなたからか御指摘がありましたように、言われてみれば、女性の言葉が少な過ぎました。皆さんの意見を参考にさせていただき、次回作に取り組みます」
こうして昇平が心配していた『君知るや我が心を』の合評は終わった。林田絹子が、涙をポロポロ流して読んだ作品の評価は、同人を感銘させることなく、それなりの評価だった。昇平の作品の批評で合評会は終わり、飯塚会長から、『山路』第2号の投稿が、現在、3篇ほど集まっているとの報告があった。昇平は喫茶店『ロダン』での『山路』の月例会が終わると、岡本悟史、広松彰人、石橋久幸と4人で居酒屋『らんまん』に行き酒を飲んだ。その席で、蛭間紀夫、宮内英武、松木朝子、西沢芳恵ら数人が同人誌『山路』から脱会するみたいだと、岡本悟史が語った。岡本は飯塚会長を尊敬していて、飯塚会長の自宅に出入りするなどして、『山路』の会員の情報を詳しく知っていた。50名ほどに膨れ上がった同人誌『山路』の会員は、石原慎太郎や五木寛之たちのように芥川賞や直木賞を狙い、ある者は大江健三郎や柴田翔のように、学生作家として売り出そうと考えたりしていた。事実、昇平たちも野坂昭如、開高健、高橋和巳、三浦哲郎たちの作品を読み、時代の流れの中で、良識に反するような、ショッキングな作品を書いてみたらなどと考えたりしていた。鈴木秋絵、山本香澄、門倉久美、本川幸子、深川和子といった女性会員たちも、曽野綾子、戸川昌子、有吉佐和子、倉橋由美子たちの作品を読み、傑作を書きたいと勉強しているに違いなかった。ところが、『山路』の月例会に出席していて、何故かグループに溶け込めず、松木朝子のように脱会する会員も少しずつ出始めていた。誰が生き残り、素晴らしい作品を書き上げ、何処かの文学賞を受賞するかが勝負だった。『山路』はそんな文芸作家になることを夢見る若者たちの稽古場だった。飯塚会長や沢木駿介、西条麗子たち、40代の文学志向の同人と異なり、昇平たち、20代の同人たちは、情熱に燃えていた。あちこちの文芸誌の新人賞作品募集に、先輩たちと競うように応募原稿を送っていると語った。昇平は、それを聞いて、『オリエント機械』の仕事も忙しいが、岡本、広松、石橋たちと同じように、新人賞に挑戦すべく、仲間から、いろんな情報をもらった。そんな情報交換をしながら、『らんまん』で酒を飲み、ほろ酔い気分で『春風荘』に帰ると、何と林田絹子が昇平の部屋で、昇平の帰りを待っていた。昇平は目にいっぱい涙を溜めている絹子を目にした。何事があったのか、昇平には予想がつかなかった。
「一体、どうしたの?急にやって来て・・」
「貴男の正体を知りたかったから・・」
「僕の正体。それは何年も付き合って来たんだから分かっているんじゃあないの」
「分からないわ。貴男に私以外の女性がいたなんて」
「何、言っているの。僕には、そんな女性はいないよ」
「嘘。私、貴男の日記帳、読んじゃったの。いろんな女性がいるじゃない」
昇平は、そう絹子に言われ、顔色を変えた。机の引出しの奥にしまっておいた日記帳を、絹子に読まれてしまうとは不覚だった。彼女は何処まで読んだのだろうか。大橋花江、堀口園子、早坂桐子あたりのことだろうか。まさか学生時代の笛村真織や寺川晴美との事まで、読んではいないであろう。昇平は絹子の言葉に反論した。
「君は何故、僕の日記帳を読んだりしたんだ。僕が二足の草鞋はいた文学青年であることを、君は知っているだろう。僕が日記帳に書いていることは半分が本当で、半分が嘘だ。君はその嘘の部分を読んで、それを真実だと思い込んでいるのか。それは誤りだ」
「そんなの貴男の言い訳よ」
「言い訳と思うなら思っても構わない。だが他人の日記帳を盗み読みするなんて、犯罪だ。僕は君を軽蔑する。君は何ていう人間だ。僕の心の中にいる君は、隠れて盗み読みするような汚い人では無い。他人の日記帳を無断で読んで、平然としているなんて。信じられない」
「信じられないのは、私の方よ」
絹子は、そう言うと、目に溜めていた涙を更に溢れさせ、目から涙をポロポロと流した。昇平はその涙を見て慌てた。身をすくめて泣く絹子に近寄り、背中に手をやって詫びた。
「どうして泣くんだ。泣きたいのは僕の方だ。大切な日記を読まれて、ついカッとなって、君を軽蔑するようなことを言ってしまった。ごめん。泣かないで、絹子」
昇平が、泣き声を上げようとする絹子をなだめようとすると、彼女は一層、悲しくなってか、昇平を振り払い、畳の上にうっ伏して泣いた。昇平は酒に酔っていたので、絹子をなだめるのが面倒になり、自分の布団を敷いて、先に寝た。そして翌朝、昇平が目覚めた時、絹子は部屋から消えていた。昇平は唖然とした。昨夜のことは夢だったのか、現実の事だったのか振り返ってみた。窓を開けると5月の風が、何時もより冷たく頬を撫でた。
〇
数日後、仕事を終えて、『春風荘』に帰ると、林田絹子からの手紙が昇平の靴棚の上の郵便受けに入っていた。昇平は、その手紙を持って、2階の自分の部屋に入り、直ぐに目を通した。
〈 吉岡昇平様
先日は突然、お邪魔して、大変、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
貴男の女性関係については、前から気になっていましたが、事実を知って私は愕然としました。
そんな貴男に夢中になっていた私は、愚か者です。
貴男の実態を知り、笑い者にならずに済みました。
貴男の身の回りの世話をする為に預かっていた貴男の部屋の鍵を同封し、返却致しますのでお改めの上、お受け取り下さい。
大変、残念ですが、私の事は忘れて下さい。
文学での成功を祈っております。
では、さようなら。
早々 〉
昇平は、返却された部屋の鍵を握りしめ、天井を見上げた。昇平は、その後、二度ほど、絹子からの手紙を読んだが、直ぐに気持ちを創作に切り替えた。何としても、同人誌『山路』第2号に掲載してもらう作品『この愛のかたち』を完成させなければならなかった。創作は絹子の事を忘れさせてくれた。また『オリエント機械』の仕事も、絹子を忘れさせてくれた。『オリエント機械』の工場では、岡田課長が担当する『三井石油化学』向けダンプラ装置、宗方主任が担当する『北海高分子』向け貼合フィルム製造装置、金子孝昌が担当する『Tパック』向け紙容器用押出機、昇平が担当する『JJ製紙』向けラップフィルム製造装置の組み立てなどで、工場内が足の踏み場も無い程の混雑ぶりだった。そこで、昇平は遠藤常務の指示に従い、自分が担当する『JJ製紙』向け機械装置の引取部と巻取部を外注組立に切り替えることにした。早速、都内荒川区にある『МS製作所』の松本社長と昵懇の『オリエント貿易』の山崎三郎次長と『МS製作所』に訪問し、松本社長や小西専務と交渉し、外注組立に切り替えることに成功した。昇平は『オリエント貿易』の島崎正彦主任と、時々、『МS製作所』に出かけて行き、上野課長や丹波係長、有岡係長と、工程確認を行った。『МS製作所』は『全金同盟』という労働組合が強く、工程の進捗が、組合活動などによって狂わされることがあり、組立て時間が制限されるような不安定なところがあった。その為、『JJ製紙』のカーボン紙工場と同時に操業開始予定のラップフィルム製造工場を完成させるには、『オリエント機械』の製造装置の納入が急がれており、予断を許されない状況だった。しかしながら『МS製作所』での工程は思うように行かず、5月末までに組み上がる予定が、更に1ケ月、遅延しそうだった。当然のことながら、『JJ製紙』から、工程遅れの説明要請があり、昇平は、『オリエント貿易』の島崎主任と一緒に、『JJ製紙』の丸の内本社に、納期遅延の御詫び方々、進捗状況説明に訪問した。客先担当者は、昇平たちの工程遅れの説明を聞くと、激怒した。交代交代に昇平たちに罵詈雑言を浴びせた。1時間以上、叱られっぱなしだった。昇平たちは馬鹿者扱いされ、罵られたが、自分たちが悪いので我慢した。平身低頭し、納期遅れを何とか納得してもらった。そして『JJ製紙』本社ビルから外に出た時には、東京の空は、もう夕暮れになっていた。昇平は島崎主任と、有楽町のガード下の居酒屋に入り、酒を飲み、『オリエント機械』の製造能力の低さと、『МS製作所』の労働組合の労働姿勢について、ボヤキ合った。1時間以上、飲んだのに、ボヤキ足りなかった。島崎主任は、そこで、昇平を銀座のクラブ『風花』に連れて行った。銀座八丁目の『NKビル』の地下にある『風花』のドアを開けて中に入ると、桐本悦子ママが、昇平たちを明るく迎えた。悦子ママに案内され島崎と昇平がテーブル席に座ると、悦子ママの指示に従い内村理沙と山田千尋が席にやって来てた。そこへ西村マスターが島崎のウィスキーのボトルとグラス、アイスペールなどを運んで来て、島崎に訊いた。
「今日は何か、良い事でもあったのですか?」
すると島崎が不服そうな顔をして答えた。
「とんでもない。いやな事があったので、自棄酒を飲みに来たのさ」
「いやな事ですか?」
「うん。注文をもらっている機械の納期が遅れていて、お客様からこっ酷く叱られた帰りさ」
「まあっ、それは大変。慰めて上げなくちゃあ」
理沙はそう言って島崎に寄り添った。千尋は西村マスターがテーブルの上に置いた2つのグラスにウイスキーを注ぎ、水差しの水を少し加え、アイスペールの氷を数個、投げ入れ、マドラーで搔き回しながら笑った。西村マスターは突っ立ったまま頷き、島崎のボヤキを聞いた。
「俺たち営業マンは取引の一線に立たされ、1番、大変なんだよ。理沙ちゃんたちと同じさ。2人も何か飲みなよ」
島崎が、そう言うと、理沙が直ぐに答えた。
「ありがとう御座います。ではマスター、私、ビール。千尋ちゃんは?」
「私にはオレンジジュースをお願いします」
ホステス2人の要望を聞くと、西村マスターは、カウンター内に戻り、ビールとオレンジジュースを持ってやって来て、直ぐに戻って行った。4人の飲み物が準備出来たところで4人で乾杯。
「仕事がうまく行きますように・・」
理沙たちが、そう言ってくれた。男たちも大変だったが、『風花』で働く彼女たちも大変だった。理沙は大学に通う弟の為に、食品会社の事務仕事を終えてから、『風花』にアルバイトに来ていた。千尋は『N女子大』の学生で授業料を稼ぐ為にアルバイトに来ていた。島崎正彦は、内村理沙とお客とホステスの関係以上に親しいみたいだった。時々、手を握り合って、昇平たちと会話した。映画の話になったが、最近、映画を観ていないので、昇平は、3人の会話について行けなかった。任侠作品、恋愛作品、喜劇作品など、島崎たちは、面白おかしく話した。イタリア映画『女性上位時代』の話になると、全く分からなかった。その映画はフランス人女優、カトリーヌ・スパークが主演の映画で、夫を亡くした女が、男を次々と誘惑して行くエロチックコメディらしい。昇平が島崎たちの会話に合わせ笑いしていると、『風花』に背の高い紳士が、そっと入って来た。彼は悦子ママに黙って頭を下げると、部屋の中程にあるピアノの椅子に座り、ショパンの『雨だれ』を演奏し始めた。それから数曲、ピアノ演奏を披露して、お客のリクエストを求めた。すると悦子ママが他の席から立って、昇平たちの所に来て、言った。
「島ちゃん。理沙ちゃんとデュエット、歌ってよ」
「ええっ。デュエット?」
「そう。デュエットよ。理沙ちゃん、何が良い?」
「そうね。『銀恋』にしようかしら。良いでしょう、島ちゃん」
「じゃあ、要望に応えて、理沙ちゃんと一緒に唄うか」
島崎は、そう言って理沙と一緒に立ち上がると、ピアノの脇の百合とバラと蘭の飾られた艶やかな花スタンドの前に立って、ピアノの先生の合図に従い、『銀座の恋の物語』の歌を唄った。島崎の男らしい太い声と理沙の明るい声がマッチして、素晴らしかった。2人が唄い終わると皆が拍手喝采した。すると他のお客も、『青い山脈』、『星影のワルツ』などを唄った。奥の方の席にいた本田綾はお客のリクエストで青江三奈の『伊勢崎町ブルース』を真似て唄い、皆を喜ばせた。山田千尋は『ゆうべの秘密』を唄い、昇平は『小樽の人よ』を唄って、楽しく時を過ごした。ピアノの先生が1時間半の仕事を終えて帰って行くと、もう閉店近かった。すると島崎は悦子ママに帰ることを伝え、西村マスターの所に行き、つけのサインをした。昇平は飲み代の1部を負担しようと、『風花』を出てから島崎に訊いた。
「僕は幾ら支払えば良いですか?」
「良いんだよ。『JJ製紙』の納期を遅らせてもらった接待費で処理するから・・」
「申し訳ありません。ありがとう御座います」
「それより、この後、『コージコーナー』に付き合ってくれ」
「えっ、『コージコーナー』にですか?」
「うん。彼女たちが来るんだ」
昇平は島崎に、そう言われ、『NKビル』の地下から、地上に出て、島崎と一緒に、喫茶店兼洋菓子店『コージコーナー』へ行った。コーヒーを註文し、島崎と2人で、しばらく喋っていると、内村理沙と山田千尋が服装を着替えて、店に入って来た。
「お待たせ」
そう言った理沙に、島崎がすかさず訊いた。
「何にする?」
「私たち、ケーキとお紅茶にするわ」
「なら俺たちもケーキをいただこう」
島崎は、そう言って、理沙たちのショートケーキと自分たちのモンブランケーキを、ウエイトレスに注文した。島崎はコーヒーをゆっくり飲みながら、理沙と話した。理沙も運ばれて来た紅茶とショートケーキを口にしながら、島崎と楽しそうに話した。昇平と千尋は、2人の話をぼんやり聞きながら、ケーキを美味しくいただいた。島崎は理沙とケーキを食べ終わると、レジに行き清算を済ませるや、理沙と手をつないで、昇平と千尋に言った。
「じゃあ。さよなら」
昇平と千尋は唖然とした。昇平と千尋は閉店間近い『コージコーナー』のウエイトレスたちに軽く頭を下げ、『コージコーナー』を出ると、ネオンが消え始めた銀座6丁目から4丁目まで歩いた。昇平は一緒に地下鉄の駅に向かいながら千尋に訊いた。
「何処まで帰るの?」
すると千尋は戸惑いの顔で、昇平を見詰めた。昇平は答えずにいる千尋に、慌てて言った。
「僕は銀座線で渋谷に出て、そこから東横線で祐天寺に帰るんだ」
昇平がそう言ったので、千尋は答えない訳には行かなかった。
「私は日比谷線で恵比寿までよ」
「なら僕も日比谷線の電車で、一緒に帰るよ。中目黒から歩いて行ける所だから」
「まあっ、そうなの」
千尋は昇平が同じ方向に住んでいる事を知り、驚いた顔をした。それから2人は地下鉄日比谷線のホームに降り、やって来た中目黒駅行きの電車に乗った。千尋は電車に乗ってから、目白にある『N女子大』に通学するにも、銀座の『風花』に出勤するにも、恵比寿から乗り換えなしで行けるので便利だと話した。千尋は『風花』の悦子ママと同じ、桐生出身で、もしかすると桐生で教師をしていた『山路』の同人、蛭間紀夫、を知っているかも知れなかった。だが昇平は彼女に蛭間の話はしなかった。電車が恵比寿駅に到着すると、千尋は電車を降り、ホームで昇平に手を振り、さよならをした。昇平は恵比寿から更に一つ先の中目黒駅終点まで電車に乗って行って下車し、そこから歩いて『春風荘』に帰った。
〇
季節の変わるのが早い。昇平が『オリエント機械』の仕事と同人誌『山路』の文筆活動の2足の草鞋で、バタバタしているうちに、6月がやって来た。『オリエント機械』では『三井石油化学』向け引取機や、押出機が組み上がり、塗装と出荷前の配線工事に入った。宗方主任が担当する『北海高分子』向け貼合フィルム製造装置も組立が始まった。また金子孝昌が担当する『TTパック』向け大型押出機の組立ても始まった。昇平は自分が担当する『JJ製紙』向け機械装置の工程が遅延しているのに加え、新しい客先からの商談が入り、憂鬱な日々が続いた。そんな中で、昇平は『山路』第2号の原稿締切り日に、若干、遅れたが、短編小説『この愛のかたち』を完成させて、その原稿を飯塚会長宅に郵送することが出来た。そして6月7日の土曜日、同人誌『山路』の月例会に出席した。月例会会場の中野の喫茶店『ロダン』に行くと、飯塚会長が、昇平の原稿を受け取ったと言ってくれたので、ホッとした。定刻の六時半過ぎになり、10人以上の会員が集まると、合評会が始まった。まず最初に広松彰人の『殻の中』という作品からの合評となった。会社員の宮本久男が、こう批評した。
「短編小説のツボを良く心得ていて、小気味良い。だが結末にキザな部分が見られたのが、ちょっと気になる」
宮本久雄の批評は的を得ていて、昇平も同感だった。美人の石田詢子を愛する会社員の兄、勲の別れ話を,元に復帰させようと詢子に迫る予備校生の弟、徹と、その予備校生仲間、三郎の物語は、実に良くまとまって描かれていた。西条麗子も広松の作品を称賛した。
「省略の手際が良く、感心させられました。詩を書ける才能があるのではないでしょうか」
「文章上で個性的な表現が特徴的であるが、自己満足に堕する可能性もあるので、注意して欲しい。詢子が何故、殺されたのか、そこまで掘り下げて欲しかった」
高橋和利が教師らしい批評をした。岡本悟史はこう言った。
「登場人物への焦点が、後半で、ぼやけてしまったのが惜しい」
昇平も、酒飲み仲間なので、一応、批評した。
「広松氏の作品の読後に物語の余韻を残させる技巧が素晴らしい。僕も彼に真似た作品を書いてみたい」
これらの批評に対し、広松はこう弁明した。
「かねてから抱懐して来た中間小説的なものを、更に縮小して投稿しました。その為、省略をし過ぎて、不自然さが目立ってしまった気がします。俺は俺の故郷、金沢にいる五木寛之の作品の愛読者で、彼の文学に近づきたいと思っています」
広松の弁明を聞き終わると、沢木駿介が、井上純也の作品『窓の外』の合評を求めた。『窓の外』は田舎教師の浜夫が東京の大学に通っていた時の下宿先の娘、琴子から手紙をもらい上京し、琴子の妹、波子や東京で有名画家を目指す高校時代からの親友、五郎との交流を描いた物語で、男と女の哀切を感じさせる作品内容だった。石橋久幸が最初に批評した。
「作品の内容が題名に即して、極めて制御的に書かれている。この描き方は作者の読書歴から来ているような気がする」
「そう一概に言えないと思います。作者の資質によるものと思われます」
珍しく門倉久美が発言した。女性に反論され、石橋は押し黙ってしまった。沈黙が流れると高橋和利が、こう批評した。
「主人公の心の在り方について疑問がある。これは戦後生まれの学生と社会人の心の在り方の相違かもしれない。考えさせられるものを含んでいて面白い」
続いて本川幸子が、こう述べた。
「浜夫を東京に呼び出した下宿先の娘、琴子のイメージが希薄で妹、波子の方が目立ってしまっています。姉妹が浜夫を慕う気持ちを、もっと鮮烈に描いて欲しかった」
いろんな意見が出終わると、司会の沢木駿介が、作者の感想を求めた。『C大学』の卒業生である井上は作家と画家を夢見ている塗装工で、自分の作品『窓の外』について語った。
「この作品は自分がスランプ状態の時に執筆した作品で、その時の精神的影響が所々に漏れ出しているかも知れません。でもこの作品は純然たるフィクションです」
井上純也の作品の合評が終わると、林元照子の詩『カッコウが鳴く』の合評となった。まず詩人の西条麗子が批評した。
「作者の心情のナイーブさを認めますが、やや単調過ぎるように思われます。もっと自分の心情を加味すれば、更に美しく心深い詩になります」
門田久美はこう批評した。
「作者の感情が素直にこめられていて、のどかな風景が想像され、爽やかさを頂きました」
「作中のカッコウ、カッコウの鳴き声や汽笛のポーといった音や薪割りのカーン、カーンといった音が、まるで、演劇の春の舞台の擬音のようで、詩の表現として、物足りなさを感じた。音に対する独自の表現方法があれば、もっと良い作品になったと思う」
浅野優馬が、以上のような発言をした。昇平は詩に興味があったが、自分の作風が、古典的なので、意見を言わなかった。林元照子が作中に挿入した音は、一種の歌のリズムであり、それはそれで効果的であると昇平は思った。作者は北海道小樽市に在住で、療養中に病院の窓の外の風景を眺め書いたとの手紙が、沢木駿介によって読み上げられ、『山路』創刊号の合評を終了した。そこで飯塚会長が、挨拶した。
「沢木副会長より、報告がありましたように以上をもちまして創刊号の合評は終了しました。そこで本日の出席者に、メモ用紙を配りますので、自分が推薦する創刊号の優秀作品を1つ記入して、私にメモ用紙を戻して下さい。よろしくお願いします」
すると添田計夫が、出席者全員にメモ用紙を配布した。昇平は創刊号の目次を見て、どの作品にしようか考えた。作品としては、今日の合評作品、広松彰人の『殻の中』が1番だと思うが、神戸から寄稿した女性会員、垂水操の長編小説『港の死』の労作を称え、メモ用紙に『港の死』と書いて、提出した。結果として、集めたメモ用紙を並べ、飯塚会長が次の三作品を創刊号の優秀作と報告した。
『港の死』 垂水 操
『殻の中』 広松彰人
『冬に』 西条麗子
合評会が終わると、飯塚会長が、久しぶりに全員で中野駅南口の料理屋『みかく亭』に行って、『ご苦労さん会』をしようと発言し、皆で『みかく亭』に行った。その『ご苦労さん会』の席は飯塚会長たち役員が、あらかじめ予約しておいたらしく、直ぐに10数名が席に座り、飲み会となった。相変わらず,飯塚会長たち年配組と若い男たちと若い女たちの3つのテーブルに分かれて飲んだ。昇平は広松彰人、岡本悟史、石橋久幸、井上純也たちと一緒のテーブルで、酒を酌み交わした。今まで何時も同席していた蛭間紀夫と宮内英武の姿が無いのが寂しかった。宮内英武の恋人、西沢芳恵などの姿も見えず、『山路』の会員の入れ替わりは激しかった。そんな入れ替わりに、飯塚会長たちは一喜一憂していたが、昇平たちは余り気にしなかった。情熱のある者たちだけが残る。強く明確な達成目標を持っている者だけが残る。去る者は去れば良い。昇平は、文学仲間と酒を飲みながら、ふと林田絹子の事を思った。彼女とはもう会うことはないだろう。
〇
昇平は、同人誌『山路』創刊号に載せた作品評価も終わり、自分に文学の才能が無い事を痛感した。しかし、文学仲間と共に学び、文章力を磨けば光る作品を書けるのではないかとも思った。それと同様、『オリエント機械』の仕事についても考えた。どうにすれば会社を発展させ、自分が、その頂点に立てるかを考えた。浮かんで来たのは新商品開発、市場拡大、生産性向上の3点だった。これらを実現させる為には、どうすれば良いか。それは学生時代、『М大学』の小牧正道教授から学んだ『商業経済論』に基づく考えだった。昇平は、他の営業マンが手を出したがらない、難しい顧客の要望を受け入れ、設計部の宮里敦司、越水正勝、若森君夫たちに図面を書かせた。少年時代から漫画を描くことが得意だった昇平は、顧客の要望を漫画にして、設計者に作図をお願いした。そして出来上がった図面は、昇平の武器となった。言葉で説明するより、設計者によって、寸法入りで作図された図面は、説得力があった。特に越水正勝に作図してもらった延伸装置は麻袋の代替として、延伸テープを使った肥料袋、土嚢袋などを製造する業界から、導入の商談が舞い込んだ。昇平と金子孝昌は、その技術を引っ提げ、越水を連れて、樹脂メーカーや日本各地の製袋メーカーに売り込みを行った。その為、『オリエント機械』は更に受注が増え、多忙になり、中途採用者を採用する事にした。そんな忙しい中、7月5日の『山路』の月例会に出席すると、飯塚会長から昇平に、『山路』第2号が出来上がるまでの月例会のテーマが欲しいので、何かエッセイを書いて欲しいと要請があった。昇平は悩んだが、飯塚会長からの要請なので、了解の返事をして、7月20日までに、飯塚会長宅に原稿を郵送すると約束した。その日の、『山路』の月例会は安倍紀義が昨年暮れの忘年会で出席者に配布寄贈した自費出版作品『コギトの崩壊』だった。宮城県在住の作者が不在の月例会で、詩集『コギトの崩壊』は詩人、沢木駿介、西条麗子、門倉久美たちによって、厳しく批評された。内容が極めてオーソドックスで、新味とか独自性を持たない。作者の内的世界が、観念語で羅列されているに過ぎない。支離滅裂で詩以前のものであるなど、昇平は自分の事を言われているようで、耳が痛かった。月例会終了後、居酒屋『らんまん』で昇平は、飯塚会長にエッセイを書くことを約束してしまったことを、広松彰人、岡本悟史、石橋久幸に話した。すると彼らは『君知るや我が心を』と同様に、昇平の思っていることを、天真爛漫に書けば良いのではないかと言ってくれたので、昇平は少し、気持ちが楽になった。そんなことで昇平は『オリエント機械』の営業活動に追われる傍ら、エッセイを書いた。それは全く自分勝手なエッセイだった。
『無窮の夢』
その1
文学とは、君自身にとって、そもそも何ぞやと問われるならば、私はかって申したと思うが、矢張り文学とは自己顕示にあると答えざるを得ない。多くの文学青年は社会の為、民族の為、人類の為、世界の為と、自己の文学の在り方を論述するが、私の場合、文学は決して他者の為に存在するものではなく、私自身の為に存在するものである。私の生、私の命の為に存在するものである。でなくしてなじょう文学の必要性があろう。私にとって私の作品は、まさに私の分身なのである。それ故、私が私の作品に託する夢は大きい。その夢は永遠に生存せんとする私の無窮の夢である。永遠に生きるという事。それは命ある私たちには不可能なことである。しかしながら、かの詩人ではないが、人間、誰しも、あゝ、自分のような者でもどうかして生きたいと、希求するものである。1年。1月。1日。いや一時でも良いから、多くこの世に生きていたいと願うものである。なれど人間、二百年も三百年も生きられはしない。必ずや死が訪れるのだ。そういった避けがたい人間の1回きりの生を思う時、私には一層、生が惜しまれてならない。私は何とかして、生きようとする。生きる術を考える。考えたところで、どうにもならない。天与の命は1回きりの命で、死んだら2度と蘇生し得ない、うたかたのように果敢ない命なのだ。さらば死ぬ運命にある私たちに残されたこの世の救いは、自己の血を直系する氏族繁殖の為の性交にしか無いのだろうか。否、性交のみでは無い。私は、その救いが文学にもあると思うのだ。仮に前者を肉体の救いとするならば、後者はまさに精神の救いと言っても、過ちではない。何故なら、文学とは正確に自己の精神、思想を後世にまで語り伝えてくれるからである。そして、その語り伝えの中に、作者は回生するのだ。作者の肉体が滅びてしまい、2度とこの世に蘇ることがなくとも、作者の心は、作者の作品の文字を通して、その作品を読む人の心に、創造と愛をもって美しく現世に回帰し、再び生命を得るのである。ここに於いて、私の申す、〈作品イコール作者の分身〉という論理は証明された筈だ。このようなことから私は私の生命が私の作品を読んだ他の者をして、この世に再び花咲くことを願い、自分の作品のペンを執っている。その内容は勿論、私という人間が,蘇生する時の為に、現在、私の世界が具備するところの一切のものを、偽らず、心のままに描くものである。ゲーテは言った。〈胸から出たものでなければ、胸に達することは出来ない!〉と。まさに、その通りである。作者は作者自身の作品、作者自身でなければならないのだ。このことは言うまでもない。
その2
人はよく私の作品を読んで、自分勝手な作品だと言う。このことは、私自身も良く分かっている。さりながら永遠に生きる為、私は自己を中心にして、自分自身を描かずにいられない。何故なら自己精神を、この地上に永遠にとどめて置きたいからだ。それには何よりもまず、自分自身を描くことが肝要だからである。もし自分自身を描かぬのであるなら、描いた作品は作者にとって何の価値も有しない。私にとって私の作品は、私の分身、私自身であるから、当然、私は私の事を描く。私にとって文学は私の為のものである。決して他者のものでは無い。他者をして私自身を蘇生させてくれはするが、主体は何といっても、私自身である。この文学に託する私自身の意欲をあからさまに申すならば、私は文学に私自身を賭けている。私の吐息。私の情熱。私の風貌。私の遍歴。私の女。私の恋。私の肉体。私の瞳。私の悩み。そういった私の世界の一切を、私は文学に賭けている。それは他者に私自身を分かってもらいたいからだ。私という一個人を、心の中に生き返らせて欲しいからだ。このことを人は愛情乞食と言うだろう。乞食と言われても良い。作家は皆、愛情乞食なのだ。他界してもなお、この世の人に愛されることを夢見続ける愛情乞食なのだ。身は滅んでも、後からこの世に生まれて来る人々の心から心へと移り住んで生きようとする宿り木にも似た愛情乞食なのだ。であるから文学は、さながら避けがたい孤独の死に直面しつつ、漂流する水夫が、遥か彼方の水平線上に発見した美しい白い帆影のように、作家にとって、まさに救いの神なのだと言っても過言ではないであろう。その白い帆影に総てが託され、今、その総てが救われ生き延びようと輝いているのだ。かってメーテルリンクは〈死んだ人を思い出すと、思い出された死者が生き返る〉と言った。このことは事実かもしれない。トルストイ。ミケランジェロ。ヒットラー。紫式部。シェークスピア。グウルモン。ヴェートーベン。その他、多くの人々が私たちの心に生まれ、私たちの心の中で死んで行く。その生まれ死んで行く人々には、それぞれの心があり、影があり、また命もある。彼らは、あっちの人の心に住んだり、こっちの人の心に住んだりしている。そういった彼らのように、私は1人でも多くの人の心に住んで、1人でも多くの人に愛されたいと願う。この1人でも多くの人に愛され、1人でも多くの人の心に生きたいと願う夢は、自分勝手かもしれない。しかしながら、私は生きたいのだ。永遠に生きたいのだ。この願いは文学を通して永遠に生存せんとする私にとっての、この世に於ける無窮の夢なのである。あゝ、文学は私にとって、まさに自己顕示の手段であり、自己の不死を希求してやまない、一生を賭けての無窮の夢なのである。
昭和44年7月10日
ちょっと恥ずかしいエッセイであるが、同人誌『山路』の若者たちに、自分の文学への情熱を伝える為に、執筆し、飯塚会長宅に送付した。昇平は何事にも夢中になりすぎる傾向があり、梅雨の季節が終わった所為でもあるのか、良く分からないが、何となく毎日が、かったるくて仕方なかった。1年の半分が経過して、精神的に、疲れが出始めていた。そんな時に、管理部の林原武士に自由ケ丘のキャバレー『キングオブキングス』へ行かないかと誘いがあった。昇平は月初めに夏の賞与を頂いていたので、直ぐにOKした。考えてみると、ここのところ、自分を取り巻く女性たちが目の前から去って行って、日頃、会話したり、目にする女性は『オリエント機械』の女子社員、宮本知子、渡辺桂子、青柳加代子、添田汐里たちと、『信濃屋』のアルバイト、早坂姉妹くらいだった。昇平は久しぶりに堀口園子に会えると思うと何故か心が躍った。『オリエント機械』の就業のベルが鳴ると、昇平は林原武士、片岡哲人、原田隆夫、越水正勝と綱島の居酒屋『綱菊』で軽く食事をして酒を飲んだ。1時間半ほど、『綱菊』で、社内の出来事を喋くり合ってから、横浜や相模原方面に住む、片岡、原田、越水たちと別れ、昇平は林原と一緒に綱島駅から自由ケ丘駅に向かうことにした。その自由ケ丘へ向かう電車に乗る時、残業を終えて、渋谷方面に帰る設計部の滝口康夫に会った。ちょっと酔いの回った林原は仲間が1人でも多い方が楽しいと思ったのだろうか、滝口に声をかけた。
「俺たち、今から自由ケ丘のキャバレーに行くけど、一緒に行きませんか?」
「ええっ。キャバレーですか。私はまだ入社したてなので遠慮しておきます」
最近、設計部に途中入社した滝口に、折角、林原が声を掛けて上げたのに、年上の滝口は体よく断った。昇平たちは、電車が自由ケ丘駅に到着すると、その滝口に手を振り、電車を降り、東横線南口の線路に沿った商店街のビルの2階にあるキャバレー『キングオブキングス』に行った。林原はあらかじめ浅井弓子と約束していたらしく、彼女が直ぐに席にやって来た。だが昇平の期待する堀口園子は他の客の相手をしていて現れず、代わりに額田明里が隣の席に座り、昇平の相手をしてくれた。初対面の明里は自分の名刺を出してから、昇平の名を訊いた。
「私、明里です。貴男のお名前は?」
「吉岡です」
「そう。吉岡さんね。ター坊と、どういう関係?」
林原は、『キングオブキングス』の常連なのだろうか、明里が弓子と同様、林原のことをター坊と呼ぶので、驚いた。そういえば、『オリエント機械』の資材部の三橋課長も、林原のことを、ター坊と呼ぶことがあった。三橋課長も林原に誘われて、この店に来たことがあるに違いない。昇平が答えずにいると、弓子が言った。
「ヨッちゃんはね、ター坊と同じ会社の営業マンよ。覚えておいてね」
「はい。じゃあ、私もヨッちゃんと呼んで良いですか?」
「ああ、良いよ」
それから、昇平は林原や弓子や明里と一緒にビールを飲んだ。薄暗い席に若い女と座って、煌びやかな舞台のダンスなどを眺めながら酒を飲むのは楽しかった。林原と弓子が酒の勢いで、いちゃつき出すと、明里が昇平に囁いた。
「私もユミちゃんみたいに、ヨッちゃんに可愛がって欲しいわ」
昇平は、明里に内股を触られ、慌てた。
「その言葉、信じて良いのかな」
「勿論よ。私と恋人関係になって欲しいわ」
「でも初対面では決められないよ。何度か会って、互いの素晴らしさを知るようにならないと・・」
「そうね。その方向で行きましょう」
明里は、そう言うと、グラスをぶつけて、昇平と乾杯した。そんなところへ、キャバレーのボーイがやって来て、明里に園子と交代するよう指示した。明里は折角、昇平と親しくなれたのに、園子と入れ替わった。堀口園子は今日も和服姿だった。白粉の甘い香りを漂わせ、昇平の脇に座った。久しぶりに会った園子は昇平に言った。
「ヨッちゃん。また痩せたみたいね。大丈夫?」
「うん。営業の仕事が忙しい上に、悩み事も多くてね」
「悩み事って何よ。女性問題?」
「うん。女性については諦めているよ。僕のような甲斐性無しに、ついて来る女性なんていないから」
「そんなこと無いわよ」
「それより、お客や上司の考えが、しょっちゅう変わるから困るんだ。昨日、白と言っていたのに、今日は黒と言うんだ。全く、やってられないよ」
「世の中なんて、そんなものよ」
園子は、昇平の悩みを笑った。昇平と林原は、それから金髪ショーの終わる閉店まで『キングオブキングス』で、楽しく華やかに過ごした。その後、『鮨銀』に寄り、美味しい寿司をいただいてから、林原たちのカップルと別れ、タクシーで『鷹番ローズ』へ行って泊った。こんな自堕落な日が数日続いた。月末になると、忘れていた林田絹子からの手紙が届いた。現在、知人からの紹介で、アメリカのロサンゼルスで仕事があるので、アメリカで働かないかという話があり、アメリカに行こうと思っているとの文面だった。昇平は、その手紙を読んで、彼女がアメリカに行ってしまうことを残念に思ったが、職業の選択は自由、どうぞご勝手にという返事を出した。毎回の事であるが、親しくしていた女性が身辺から去って行くというのは寂しい事だった。昇平は、『春風荘』の部屋の中で、絹子への別れの詩を書き、自らの心を慰めた。
〇
人生のスケジュールなど立てられる筈がない。だが時間は暦通りに通り過ぎて行く。7月末、銀座の喫茶店『パリシェ』で『モエテル』の会合があり、昇平は久しぶりに『モエテル』の仲間と会った。その席で、手塚秀和、岩野義孝、細木逸郎から、『モエテル』の長野の山荘が、ほぼ完成したので、皆で盆休みに出かける計画の説明があった。手塚と岩野の車に分乗して、8月13日に出発し、17日に東京に戻る計画だった。昇平は諸事情があり、途中、16日から山小屋に訪問すると皆に伝えた。その山小屋行きの約束を守る為には、現在、受注している機械の製造工程が遅れないよう、製造部門に頑張ってもらわなければならなかった。昇平は伊藤部長や岡田課長の了解をとり、一旦、営業活動を中断し、製造部の多賀部長、高野課長に許可を得て、製造部の組立ての手伝いをした。営業部の宮本知子、青柳加代子が、何故、そんなに汗びっしょりになって製造部の現場仕事に熱心になるのと不思議がったが、理由は単純、自分の受注している仕事の遅れの為に、夏休みに出勤したくなかったからだ。そんな忙しさの中、8月になり、同人誌『山路』の月例会が、8月2日の土曜日にあった。昇平は欠席したかったが、自分が飯塚会長に提出したエッセイの合評があり、欠席する訳にはいかなかった。我慢して中野の喫茶店『ロダン』に行くと、夏の暑さの所為か、出席者が、たったの7人だったので、昇平は愕然とした。それでも飯塚会長は昇平のエッセイ『無窮の夢』のコピーを出席者に渡し、その文章を読み上げ、合評した。昇平は、ただ黙って、皆の批評を訊いた。高橋和利はこう批評した。
「このエッセイは本人が言っているように、自分勝手な文学観、そのものである。文学を、その客観性において捉えていない」
すると西条麗子が助け舟を出すように言った。
「これにプラスする何かが欲しかったわね」
沢木駿介も発言した。
「サルトルは自分自身の為に書くと言うのは真実ではない。もし、そうすれば、最悪の失敗を招くだろうと言っている。私もサルトルと同じ考えです」
以上の批評を聞いて、昇平が不服そうな顔をすると、飯塚会長が皆の意見に付け足して言った。
「芸術は他人の為の、また他人による芸術の他に芸術はあり得ないと言うことを他山の石として、筆者には、更に精進して欲しいと願っています」
昇平は愕然とした。こうして昇平のエッセイの批評が終わると、飯塚会長はトルストイに関する正宗白鳥と小林秀雄の論争の話を持ち出し、正宗白鳥に共感を感じると発言し、例会は終了した。昇平は、その後、広松彰人と2人で新宿ゴールデン街のバー『ランラン』に行き、香織ママや江里やお客を相手に、7月20日のアポロ11号の有人月面着陸の成功は人類の偉大さを証明したものであるなどと喋って、乾杯した。昇平は生活が如何に苦しくとも、仕事、創作、友達のことが、どんどん好きになって行く自分を感じ、酒に酔った。広松たちと飲んでいると楽しくて仕方なかった。翌日になって、昇平は酔っぱらった自分が、どのようにして、『春風荘』に帰って来たのか、記憶に無かった。日曜日の午前中を、ボンヤリと過ごしていると、畑中鈴子から、電話がかかって来た。相談したいことがあるので、午後、学芸大学駅近くの喫茶店で会いたいということだった。林田絹子の事だろうか、船木省三のことだろうか、昇平はいろんな事を想像したが、まず会って確認しようと決めて、鈴子と会うことにした。昇平は午後、鈴子に指定された学芸大駅近くで、ブルーの軒先テントを目立たたせている喫茶店『マチルド』に行った。店に入ると、既に鈴子が先に来て待っていた。相変わらず能面のような白い顔をしていて、少し笑って右手を上げて合図した。
「お久しぶり」
昇平が、そう言って、椅子に座り、アイスコーヒーをマスターに注文すると、鈴子は安堵した顔をして、微笑んだ。
「変わってなくって良かったわ」
鈴子のホッとした言い方に、昇平は当惑した。どういう意味か。そこで昇平は同じ言葉を鈴子に投げ返した。
「スズちゃんも変わってないね」
だが、その後の言葉が続かなかった。その隙間を埋めてくれるようにマスターが昇平の所にアイスコーヒーを運んで来た。昇平は、そのアイスコーヒーをストローで一口飲んで、鈴子に訊いた。
「ところで、相談したいことって何?」
「何から話せば良いかしら」
「船木のことかな?」
「ええ、それもあるけど、あの人、北海道に行ったきりで、連絡くれないから、もうどうでも良いわ」
「それは無いだろう」
「私には分かるの。北海道で素敵な彼女が見つかったのよ」
「あいつは、昔から、もてるからなあ」
昇平は、そう答えて笑った。そういえば船木省三が、どうしているか、昇平にも彼の近況は知らされていなかった。都会育ちの鈴子は船木の事を諦め、もう次の男と付き合い始めている風だった。昇平は鈴子の顔を見て、その様子を窺った。すると鈴子が、次の話を切り出した。
「実は、この間、絹ちゃんに会って、驚いちゃってね。吉岡さんと別れたって聞いて・・」
「うん。そうなんだ。一方的に絶交するって言われたよ」
「それなのに、どうしても、貴男に会いたいんですって」
「アメリカに行くからかな」
「その話は断ったらしいわよ」
「何故?」
「私にも、はっきり分からないけど、多分、吉岡さんのことが気になっているんじゃあない。吉岡さん。一度、絹ちゃんに会ってくれない」
「そう言われてもなあ」
昇平は、そう言って苦笑いし、アイスコーヒーのストローを再び、口にした。すると、鈴子が怒った顔をした。
「何、言っているの。彼女は真剣なのよ。絹ちゃんに手出ししたのは、貴男の方が先でしょう」
「それは、そうだけれど。彼女の方が、私の事は忘れて下さいと手紙を寄越したんだ。嘘じゃあない。見せたって良いよ」
「分かっているわ。でも、それは貴男の反応を見てみたくてしたことよ。絹ちゃんの本心では無いわ。だから、彼女と会ってよ。今度の夏休み、私も一緒するから、彼女に会って上げて」
「それは無理だな。今年の夏休みは、山小屋へ行くなど、予定が詰まっているんだ。夏休みが過ぎてからにしてくれ」
「じゃあ、そうしましょう。約束しましたよ」
「うん」
昇平は、そう約束して、喫茶店『マチルド』を出た。そこから電車に乗らず、『春風荘』まで、歩いて帰った。それから1週間、昇平は『オリエント機械』の組立工場での現場作業に汗水を流した。汗臭い作業服を着たまま、営業部の席に戻ると、宮本知子や青柳加代子たちに嫌がられた。彼女たちの気持ちも分からないではないが、『オリエント機械』の収益は、この男たちの汗水によって生み出されていることを、彼女たちに分かって欲しかった。でも、それを分かってもらうことは、時間を要しても不可能かもしれなかった。昇平は、そんな汗水を流した日々を過ごしてから、盆休み兼夏休みを迎えた。8月14日の木曜日、昇平は群馬の実家に向かった。正午過ぎ、兄、政夫に西松井田駅まで、車で迎えに来てもらい、実家に行くと、前橋の河合家から、姉、好子と義兄、正治夫婦が来ていて、母、信子と一緒に昇平の来訪を喜んでくれた。だが父、大介は何故か不機嫌な顔をしていた。13日の迎え盆の日、昇平が顔を見せなかったから、怒っているのだろうかと、昇平は推測した。だが、その推測は違っていた。夜になって仏壇に昇平が持参したお菓子や信子が作った食事や果物などをお供えし、灯りを点け、御先祖さまに線香を焚き、皆で感謝し、お祈りをした後の食事の時だった。酒に酔った父、大介が昇平を睨みつけ、小言を言った。
「昇平。お前はまだ、自堕落な性格が治っていないようだな。いい加減に目を覚ませ」
昇平は、父親から突然、そんなことを言われ、何を言われているのか合点がいかなかったので、大介に確認した。
「いい加減に目を覚ませって、どういう意味ですか?」
すると大介は更に厳しい顔をして言った。
「分かっているだろう。お前は麻布の家から跳び出した後、アパートで、何処の馬の骨とも分からぬ女と、同棲しているというではないか」
「何を証拠に、突然、そんなことを言うのですか。俺は同棲なんかしてないよ」
「隠したって、駄目だ。麻布の忠雄が、利江に、そう話しているんだ。隠そうたって、そうにはいかんぞ」
「誤解だよ。何を根拠に忠雄さんは・・・」
昇平は首を傾げた。忠雄がアパートに来たのは事実だ。その時、女などいなかった筈だ。それなのに何故?大介は小言を続けた。
「利江の話では、お前の部屋に忠雄が訪れた時、女物の洗面器や歯ブラシ、コーヒーカップなどが、そろっていたと言うんだ。お前が女の事を隠そうとしたって駄目だ。お前には利江が勧めている縁談があるんだ。縁談先にその女のことが知れたら、お前の婿入りの話はおじゃんになるんだ。その女をアパートから直ぐに追い出せ」
「追い出せなんて言っても、そんな女はいないよ」
昇平は義兄のいる前であったが、父、大介に反逆した。言ってはならぬことを口走った。
「おやじは交通事故で、自分の頭が正常でないことに気づいていない。麻布の叔母さんの作り話を信じ込んでいる。嘘っパチの話を信じちゃあ駄目だ。田舎でも、悪い奴の嘘の話を信じ、騙され、近所の人たちに笑われているのじゃあないのか」
「何だと。父親に向かって」
「自分の息子の事を信じられないでいて、父親と言えるか」
昇平が、そう言うと、兄の政夫が昇平を叱った。
「昇平。それは言い過ぎだぞ。オヤジに謝れ。謝れ!」
「俺は謝らない。俺は同棲などしていない。だが兄貴や広志と同じで、女が寄って来る。だから親や親類に押し付けられた結婚はしない。気に入った女を見つけたら、家に連れて来て、皆に紹介し、結婚する」
「なら、そうしろ。だがオヤジには謝れ」
兄、政夫の言うことは道理だった。今まで育ててくれた親への感謝を忘れ、父親を罵倒するなど、やってはならない事だった。昇平は悔しかったが我慢した。家族の前で、畳に両手をつき、額を畳に擦り付けて、父親に謝った。
「では謝ります。お父さん、誠に申し訳ありませんでした。心にも無いことを言ってしまいました。でもお願いです。自分の息子を信じて下さい。叔母さんたちの意見を聞くのも良いですが、自分の息子を信じて下さい」
だが酒に酔った大介は、怒りを鎮めようとはしなかった。その大介に母、信子が涙声で言った。
「お父さん。折角の家族そろってのお盆が、台無しになってしまうではありませんか。御爺さんやご先祖様に笑われますよ。昇平が、どんなお嫁さんを見つけるか、楽しみにすることに致しましょう」
「お父さん。そうしましょう」
好子姉の夫、正治兄が、そう言って、大介の御猪口に酒を注ぐと、大介は少し、機嫌を直した。だが昇平の気分は、一晩中、収まらなかった。翌15日、昇平は、前橋に戻る好子姉夫婦の車に乗せてもらい、松井田に出かけ、清水真三、金井智久、川島冬樹たち旧友と再会した。何時もの『下町食堂』で、高校時代の仲間がどうしているかなど、情報交換した。小池早苗は、まだ結婚していないとの話だった。彼女と会ってみたかったが、その時間も勇気も無かった。昇平は早苗のことを思いながら夕方前に実家に戻り、家族と送り盆を済ませた。そして翌日、朝早く、兄、政夫に西松井田駅まで車で送ってもらい、直江津行き信越線の列車に乗った。新緑に包まれた碓氷峠を越え、軽井沢を経て、浅間山などを眺めながら、昇平は多くの詩人たちのことを思った。島崎藤村、北原白秋、立原道造、高野辰之、大手拓次などなど。そんな昇平を乗せて、列車は小諸、上田、戸倉、篠ノ井を経て長野駅に到着した。駅の改札口を出ると、何と『モエテル』の連中が、手塚秀和と岩野義孝の車2台で、昇平を出迎えに来ていた。彼らは長野市内での買い物のついでに、電車の時刻表を確認して、昇平が現れるの待っていたのだという。有難い話だ。今回、手塚と岩野の他に参加していたのは、細木、小平、梅沢、久保、下村だった。昇平は、早速、手塚の車に乗せてもらい、仲間と一緒に、戸隠ソバを食べに行った。戸隠バードラインで『大座法師池』の湖畔近くにある蕎麦屋に行き、戸隠ソバと山菜の天ぷらを食べた。その美味しさに、昇平は仲間と一緒に大喜びした。その後、昇平は『モエテル』の山小屋に行き、白樺の木の植えられた自分たちの記念館を目にした。飯綱山の山麓にある山荘からの眺めは抜群だった。近くには飯綱高原スキー場やゴルフ場があり、カッコーが鳴いていた。ふと北海道在住の林元照子の詩『カッコウが鳴く』を思い出した。のどかで、素晴らしい場所だ。敷地300坪の『モエテル』の山荘は平屋建てで、まだ柱の香りがした。広い和室2部屋と10畳ほどのリビングがあり、その他にお勝手、風呂場、脱衣所、トイレ、物置などがあって、『モエテル』のメンバーが集まるのに丁度良い大きさだった。昇平が気に入ったのは、玄関が適当な広さを確保しており、上がり框からリビングルームに行くまで、廊下のある設計だった。その廊下にいろんな絵や写真を飾りたいと思ったりした。昇平はリビングルームの片隅に荷物を置いてから庭に出て確認した。山荘の建物の裏山には桜や栃や欅や山椒の木があり、裏庭は狭く、蕗やシャガなどの野草が伸び、山から、ちょろちょろと水が流れて来ていた。左右の庭には大きな石などあり、石庭を造るのに活用出来そうだった。道路に面した前庭の面積は駐車場の他、バーベキューを楽しむのに充分な広さだった。昇平は満足し、これなら利用価値が充分にあると思った。昇平が庭を眺めたり、近所の景色を眺めている間、小平、梅沢、久保、下村たちはトランプを楽しみ、手塚、岩野、細木の3人が料理。昇平はやることも無く、気になった庭の茨や山吹などの整理をしながら、隣の敷地との境界線の紅葉や藤やマユミを綺麗に眺められるようにした。駐車場脇のアヤメの群生の周りの雑草刈りもした。庭に点在して咲く、山百合、姫ギボシ、アザミ、吾亦紅などが昇平の心を癒してくれた。そんな庭仕事をして一汗かいて部屋に戻り、昇平が裸になると、部屋の窓を開け放ってトランプ遊びをしていた連中が笑って言った。
「田舎育ちの吉岡は草刈りが上手だな。俺たちの気づかぬところまで綺麗にしてくれた」
「早く、風呂に入って、着替えろ。酒盛りが始まるぞ」
昇平は小平たちに言われ、山荘の風呂に入った。洗い場の面積が結構広かった。身体の汗を流し、風呂につかり、疲れが抜け、すっきりしたところで、夕方の6時から、リビングルームで宴会。男料理を食べ、ビールや酒を飲みながら、山荘に来てから気づいた事、楽しかった事、学生時代の思い出、政治経済の事、仲間の悪口などを言い合ったりして、深夜まで、大笑いして過ごした。岩野のもつ煮料理、細木のうどん料理、手塚の牛ステーキ、梅野のポテトサラダ、長野市内で仕入れた刺身、スルメ、落花生などで満腹になり、昇平は、酒好きの連中が酒を飲んでいる間、酒の弱い岩野と一緒に10畳間と8畳間に布団を敷き、皆より先に布団に入って眠った。実家から移動して来て、山荘の草刈りなどをしたので、仲間の笑い声も、子守歌のように聞こえ、ぐっすりと眠れた。翌朝はゆっくり起床。朝食を済ませるや、帰り支度をして、2台の車に乗り、戸隠経由で鬼無里に向かい、『いろは堂』でおやきを買った。その後、『モエテル』一行は長野に引き返し、帰路につき、長野から中仙道を東京方面に向かった。昇平は岩野の運転する車に乗り、同乗する梅沢、小平と冗談を言いながら、通り過ぎて行く、長野の美しい景色を眺めた。浅間山は今日も、煙をぷかりと吐いていた。軽井沢から碓氷峠を下り、横川に着いたところで、『荻野屋』に入り、昼飯を食べた。『荻野屋』で働く、田舎の顔見知りの新井のおばさんたちに、昇平が声をかけられると、『モエテル』の仲間は目を丸くして驚いた。何も驚くことは無い。ここは昇平の故郷近い場所だった。岩野と手塚は自宅への土産だと言って、峠の釜めしを数個、買った。昇平は『名月堂』の磯部煎餅を買った。中木山を眺めての横川での一休みを終えてから、運転手を細木と梅沢に交替して、『モエテル』一行は2台の車で東京へと向かった。安中、高崎、本庄を経て、熊谷の喫茶店で小休止した。そこで再び手塚と岩野が車の運転を交替して、都内へ向かって車を走らせた。鴻巣、大宮を経て、戸田で荒川を越え、都内に入った。そこから環八を走り、渋谷駅前まで行って、解散となった。昇平は祐天寺の『春風荘』に戻り、ホッとした。このようにして喜怒哀楽に満ちた夏休みが終った。
〇
昇平は再び、『オリエント機械』の仕事に追われた。岡田課長が担当する『三井石油化学』向けダンプラ装置の納入の為、狭山の『SY工業』へ手伝いに出かけたり、自分が担当する『JJ製紙』の引取機、巻取機の外注先『МS製作所』に工程チェックに訪問したりして多忙だった。そんな多忙な月末の土曜日、やっと休みがとれて、朝寝坊していると、1階の管理人の石川百合ママが階段の下から、昇平の名を呼んだ。
「吉岡さん、電話ですよ。吉岡さん、電話ですよ。吉岡さ~ん」
昇平は、百合ママの声を聴いて、慌てて階段を駆け降りた。パジャマ姿の百合ママが、ウインクして、ピンク電話の受話器を昇平に渡した。部屋に入る百合ママの尻を見送りながら、昇平は電話の相手を確認した。相手は畑中鈴子だった。
「吉岡さんですか。鈴子です」
「ああ、鈴子さん。お早うございます」
「この前、約束した通リ、昨日、絹ちゃんが私の家に泊まったの。昼、喫茶店『マチルド』で待っているので、『マチルド』に来て。一緒に食事して、お話ししましょう」
「うん。連絡ありがとう。12時に『マチルド』に行くよ」
昇平は、そう答えて電話を切った。絹子とは、どんな顔をして会えば良いのだろう。それは自分が考えることではない。絹子が考えることだ。12時丁度、昇平は鈴子と約束した喫茶店『マチルド』に行った。店に入ると、鈴子と絹子が並んで座っていた。昇平は決まり悪いのを隠して、マスターにアイスコーヒーを註文した。それから鈴子と絹子の前の椅子に座って言った。
「お久しぶり。毎日、暑くて嫌になっちゃうね」
「そうね。まず腹ごしらえしてから話しましょう」
「うん。そうだな。朝飯食べていないので腹ペコだから、僕はオムライス。君たちは?」
「私たちはナポリタンにするわ」
鈴子たちが、そう決めたところへ、マスターが昇平のアイスコーヒーを運んで来たので、オムライスとナポリタンをマスターに注文した。そのマスターが注文を受けて、奥に戻ると、鈴子が絹子の尻を突っついて言った。
「絹ちゃん。吉岡さんが来てくれたのだから、何か言いなさいよ」
すると絹子は俯いて、か細い声で言った。
「ごめんなさい。この前は私の方から、別れの手紙など出したりして」
「なあに良いんだ。女性に振られるの慣れているから」
「振ったなんて。誤解よ。私、凄く悔やんでいるの。吉岡さんに悲しい思いさせちゃって」
「良いんだ。アメリカに行っちゃったんだと思っていたから」
「アメリカ行きは止めたの」
「どうして?」
昇平が絹子に問い詰めると、鈴子が鋭い目で昇平を睨みつけた。そこへマスターが食事を運んで来た。鈴子が昇平に言った。
「吉岡さん、野暮な事、訊かないで、食事しましょう」
「うん。そうだね」
昇平は鈴子の指示に従った。昇平がオムレツを食べ始めると、鈴子が、『モエテル』の長野での夏休みは、どうだったかと訊いた。昇平は山荘が出来上がり、庭に沢山の花が咲き、蝶や蝉が飛び回り、時折、カッコウが鳴いて快適な夏休みだったと答えた。また船木については、佐渡に帰省して、山荘行きには参加しなかったと話した。食事を終え、食後のホットコーヒーを飲み終わると、鈴子が昇平と絹子に言った。
「2人の話、私が聞いても、仕方ないから、私、先に家に帰るわ。絹ちゃん。私の食事代、払っといて」
「はい」
「じゃあ、吉岡さん、よろしくね」
鈴子は、そう言うと、花柄のワンピースの裾をヒラヒラさせ、『マチルド』から出て行った。昇平は絹子と向き合い、何を話したら良いのか迷った。マスターに2人の会話を聞かれたくなかった。そこで、昇平は、店の伝票を手にして絹子に言った。
「では僕たちも帰ろうか」
「はい。あっ、待って。ここのお金、私が支払うから、伝票を私に渡して」
「いいよ。僕が払うよ」
「駄目。鈴ちゃんに叱られるわ」
「いいの。本当にいいの?」
「勿論よ」
絹子の言葉に甘えて昇平は、飲食代を絹子に支払ってもらった。喫茶店『マチルド』を出てから、2人は東横線の電車に乗り、学芸大駅から、渋谷に移動した。昇平は黒い半袖の上着と緑のスカート姿の絹子を連れて、喫茶店『フランセ』に入り、ケーキを食べながら話した。絹子は近況を語った。
「アメリカでの仕事は、給料は良いけど、レストランの仕事なので、私には合わないと思い断ったわ」
「そうだよな。アメリカでは白人が闊歩し、黒人や黄色人の仕事はレストランの仕事かゴミ拾いだからな」
「ごめんなさいね。この前は、部屋の鍵を突っ返したりして。自分勝手な女だと思ったでしょう。辛かったでしょう。どうしてた?」
「辛くは無かったよ。僕は辛いことに慣れているから、傷つかないんだ。ちょっと寂しかっただけだよ」
「私は悪いことをしたって、毎日、嘆いていたわ」
「本当かな」
「本当よ」
絹子は昼前に会った時の顔と違って、生き生きとした笑顔を向けて言った。その顔を見て、昇平は可笑しくなった。女って分からない。しばらく、そんな話してから、絹子が提案した。
「今日は、これから映画を観て過ごさない?」
「うん。良いよ」
昇平は了解し、喫茶店『フランセ』の清算を済ませ、直ぐ近くの『東急文化会館』のビルに行き映画を観ることにした。絹子が『渋谷パンテオン』で上映中の洋画より、『渋谷東急』の邦画を観たいと言うので、2人分入場料900円を支払い、『渋谷東急』に入り、山田洋次監督の映画『男はつらいよ』を観た。映画のストーリーは中学生の時、父親と大喧嘩して家出した渥美清が演じる車寅次郎が主人公で、20年ぶりに東京の下町、葛飾柴又に帰り、倍賞千恵子が演じる美しく成長した妹、さくらと再会し、喜び合うところから始まった。ところが寅次郎はさくらの大事な見合いの席で大失態を起こし、さくらの縁談をぶちこわしてしまう。皆に厄介者にされた寅次郎は、そこで再び旅に出る。その旅先の奈良で、偶然にも笠智衆が演じる柴又帝釈天の御前様と光本幸子が演じるその娘、冬子と出会う。美人の冬子に恋をした寅次郎は、御前様たちに同行して、再び柴又に戻って来る。柴又では妹、さくらと隣の印刷工場で働く、博が恋仲になっており、寅次郎も、御前様の娘、冬子と楽しい時間を過ごす。ところが最後、冬子のフィアンセが現れて、寅次郎は失恋する。そして傷心の寅次郎は再び柴又を後に旅の出る。そこで終わり。昇平も絹子も、大いに笑い、泣きそうにもなった。『男はつらいよ』の上映が終わると、伴淳三郎主演の映画『喜劇深夜族』だった。だが、昇平たちは帰りが遅くなるので、その映画を観ないで、外に出た。昇平は腕時計を見て、絹子に言った。
「じゃあ、上野まで送って行くよ」
「私、『春風荘』に行きたいわ」
「何故?」
「部屋の鍵、また借りたいから・・」
「駄目だよ。また返されるの嫌だから」
「でも、部屋の中、汚いんじゃあないの。掃除してる?」
「ちゃんとやっているよ」
「ふうん。なんかつまんない」
「昨日、鈴ちゃんの所に泊まったんだから、兎に角、今日は帰りなよ。上野まで送って行くから・・」
昇平は田舎に帰った時、父、大介から同棲していると言って、叱られた事が頭にあり、絹子を自分の部屋に連れて行く気持になれなかった。自分に興味を抱いてくれる絹子に有難さと魅力を感じたが、以前の出来事もあるので素直に喜べなかった。昇平は、とりあえず、絹子と一緒に上野まで行き、『聚楽亭』で食事をして、上野駅の常磐線ホームで、絹子に手を振って別れた。こうして、昇平の8月は去って行った。
〇
9月になると、狭山の『SY工業』に納入した大型機械装置の検収の目途がつき、岡田課長はホッとしたのか、営業部の若者たちでのレジャーの企画をした。その企画は9月7日、鶴見にある『オリエント機械』の外注業者『共栄鉄工』の知り合いの釣り船業者の船に乗って、海釣りに出かける計画だった。昇平は、その前日に、同人誌『山路』の月例会であったが、翌日、船酔いするといけないので、月例会を欠席した。海釣りの船には10人程が乗れるということで、岡田課長は部下の宗方、金子と昇平の他に、女子社員に声をかけた。ところが女性のリ-ダー宮本知子は、その日、別の予定があるので参加出来ないが、岡田課長が企画した折角の行楽行事なので、部下の青柳加代子に参加するように命令した。そこで青柳加代子は同年配の社内の女性たちに声をかけた。受付の添田汐里は、宮本知子同様、個人的都合があるということで参加を断ったが、加代子は総務部の斎藤好美と小山君子に声をかけ、参加することに協力してくれた。当日、岡田課長以下、昇平たちは鶴見駅に集まり、『共栄鉄工』の知念部長と松沢課長と合流し、鶴見の釣り船屋に行き、釣り船『新明丸』に乗って、海釣りに出かけた。昇平は、『オリエント機械』に入社当初、大島に船で行ったことはあるが、漁船に乗るのは初めてだった。岡田課長は知念部長たちと何度も釣り船に乗ったことがあるらしく、何事にも慣れていた。男性6人、女性3人が乗り込むと、漁漁長と甲板員が昇平たち乗客に注意点を説明し、午前9時半に出港した。岡田課長は知念部長たちと一緒に、参加者に釣り道具の準備とエサの付け方などを指導した。鶴見を出発した『新明丸』は東京湾を南に進み,浦賀水道先の冨津近辺で、海釣りを開始した。海釣りに慣れている『共栄鉄工』の2人や岡田課長は、アイナメ、アジ、イサキなどを釣って喜んだが、宗方主任以下、誰も魚を釣ることが出来なかった。1匹でも良いから、何とか釣り上げたいと、あれやこれや頑張った。あっという間に昼時になり、『新明丸』は横須賀沖に移動し、第三海堡に船寄せした。第三海堡は明治時代、日本の首都、東京を防衛する為に東京湾口に設けられた砲台を設置した人工島で、今は使われなくなっていて、草藪状態の小島だった。そこで、昼飯を食べようというのだ。ところが女性たちには第三海堡に上陸するのは、水深が深く大変だった。そこで岡田課長は金子と昇平に命令した。
「彼女たちを肩車して、陸まで運んでやれ。俺は小山さんを運ぶ。斎藤さんは重そうなので金子君が運べ。青柳さんは吉岡君が運べ」
「ええっ」
昇平は、びっくりした。しかし、青柳加代子が、早くしてと合図するので、昇平は仕方なく海の中に入り、船上から降りる彼女を肩車した。細っそりしているように見えたジーパン姿の彼女の尻は予想していたより大きく、昇平は焦った。加代子の重さに、よろけて海水の中にころびそうになりながらも、何とか無事、岸辺に上がることが出来た。彼女たちは、島に降ろしてもらうと、急いで島影に走り出した。その駆ける後ろ姿を見て、知念部長が笑って言った。
「小便を相当、我慢していたらしいな」
そう言われれば、昇平も小便をしたくて仕方ない状態になっていた。そこで女性たちが行った方向と反対方向の島影に行って、草むらに小便をした。見上げるコンクリートの砲台跡は緑の苔が生えて、まるで古墳のように見えた。気分がすっきりしたところで、石がゴロゴロしている岸辺で、知念部長が『オリエント機械』のメンバーに用意してくれたおにぎり弁当をいただいた。また女性たちが準備して来たサンドイッチや果物をいただいた。夏の終わりの潮風はまだ生暖かかった。第三海堡での昼食を終え、小休止してから、昇平たちは再び女性たちを肩車して『新明丸』に乗せて上げた。
「ありがとう」
女性に感謝されると、何故か嬉しかった。それから、午後の釣りを始めた。昇平はハゼやアジを釣った。たまに緑色のクサフグが釣れるのは迷惑だった。女性たちもイサキやキスを釣って喜んだ。あっという間に時間が過ぎた。『新明丸』は3時半過ぎに移動を開始し、八景島、本牧岬、大黒埠頭を経て、鶴見の船屋に、無事、夕暮れ前に帰着した。『新明丸』から下船すると『共栄鉄工』の従業員が車で昇平たちを出迎えに来ていた。昇平たちは、その『共栄鉄工』の車に分乗し、『共栄鉄工』の工場へ行き、皆で面白かった一日を振り返り、釣って来た魚を焼いて、食べながら酒を楽しく飲んだ。こうして岡田課長の営業部員や女性社員たちとの親睦の計画は成功した。そんな船に乗っての海釣りに行ってから、普段、固く思われている営業部の岡田課長以下、昇平たちは、社内の女性社員たちと、気安く話せるようになった。岡田課長は総務部の小山君子に気があるらしく、営業部に君子が来たりすると、君子をからかったりした。金子は体格の良い斎藤好美が声をかけて来ても、相手にしなかった。金子は設計の石坂房子が辞めた後に入社した永山晴子に興味があるらしかった。昇平にはかっての向井静子のように青柳加代子が接近して来たが、昇平は以前同様、社内の女性に深入りしないように心掛けた。2つの人生を歩む秘密主義の昇平にとって、社内結婚せねばならぬような羽目になったら、多くの秘密が露呈し、大変なことになると考えていたからだった。同人誌『山路』の会員になり、文学に心酔する自分を、『オリエント機械』の社員に知られたくなかった。秘密裏に文学の海の中を潜行して、突然、浮上する日を夢見た。そんな昇平の面倒を見ようと、『春風荘』に林田絹子が、時々、やって来た。昇平の部屋の予備鍵を再び手にし、部屋掃除や洗濯などをして上げた。小説執筆の為に『オリエント機械』の仕事をおろそかにしてはいけないと、金曜日には訪れす、金曜日の夜から土曜日の午後まで、昇平の執筆時間にしてあげようと、土曜日の夕方に来て、日曜日に帰って行った。昇平は同人誌『山路』に掲載する小説の他、文芸誌が募集している懸賞小説作品を投稿する為の原稿の執筆にも取り組んだ。そして9月20日、仕事のやり繰りをして『山路』の自由会合に出席した。そこで『山路』第2号に掲載する自分の作品『この愛のかたち』の校正を行った。第2号の作品は詩5篇、随想2篇、小説7篇と、創刊号に劣らぬ作品数だったので感心した。その後、飯塚会長が大江健三郎の『平和について』やソ連作家、クズネツオフについて語ったが、イギリスに亡命したソ連作家、クズネツオフについては、全く興味を感じなかった。その会合が終わってから、昇平は広松彰人と石橋久幸と3人で、中野から新宿に移動し、新宿ゴールデン街のバー『ランラン』に行った、花田香織ママも江里も則子も元気だった。香織ママの話では、青木泰彦と石田光彦は最近、飲みに来ていないということだった。
「銀座か赤坂で飲んでいるのでしょう」
香織ママは皮肉をこめて青木と石田の悪口を言った。彼女も文学には興味があり、昇平たちとの会話に対応するのが上手だった。また演劇にも興味があり、青木と石田のお笑いネタも、『ランラン』の常連客たちから得たもので、『ランラン』が彼らの仕事に役立っているのだと自慢した。彼女の話では、この近くの『花園神社』にテントを張る唐十郎率いる『状況劇場』の連中も、時々、やって来て、社会の矛盾や弱者の悲哀を語って帰って行くという。昇平たちは、そんなママのいる『ランラン』で文学論を交わすのが好きだった。
〇
金木犀の香りと共に10月がやって来た。納期が遅れていた、昇平担当の『JJ製紙』向けラップフィルム製造装置が完成した。『オリエント機械』の工場で出荷前の試運転を行った結果、一応、フィルムの製造が出来たので、『JJ製紙』磐城工場に全装置を納入することになった。その為、昇平は製造部の高野課長、青木俊輝、原田隆夫、太田陽一たちと、福島県の最南端にある『JJ製紙』の磐城工場に出張した。装置の一部を制作してもらった『МS製作所』の上野課長や丹波係長にも、現地工事に参加してもらった。茨城県と隣接する『JJ製紙』の工場は磐城の山々と勿来海岸の中間位置に建設されたノーカーボン紙の生産をメインに建設された新工場で、何もかもが新しく立派だった。ところが昇平にとって、『JJ製紙』の従業員たちの作業服姿は、『ID石油』の研究所などの作業服と異なり、まるで田舎の営林署の人たちの脚絆をつけた作業服に似ているので、何故か、そこで働く人たちが森林組合の人たちのようで、親しみやすく感じられた。毎週、月曜日に『オリエント機械』に出勤し、火曜日から金曜日まで磐城に出張して、金曜日の夜に『春風荘』に戻るという日々が続いた。そんな中、昇平が『春風荘』にいる土曜日の夕方を狙って絹子はやって来て、部屋掃除や洗濯をして一泊し、日曜日に帰って行った。かような絹子の献身的な世話は、独身生活を送っている昇平にとって、実に役立ち有難かった。何故、自分のような頼りない男に、彼女は尽くしてくれるのか。昇平は、昇平のことを気の毒に思っている、この女となら、格好よく見せようとする必要もなく、毎日、自然体で暮らせると思った。絹子との出会いは神の啓示か。それは考え過ぎのように思えた。年頃の彼女にはそれなりの計算があった。彼女は、居候している姉夫婦の家から、一時も早く脱出したかった。昇平とは何となく長い付き合いになり、彼の人柄も分かっていた。一応、有名大学を卒業しているし、仲間からは『フランス帰り』と呼ばれ、端正な細面の顔立ちも絹子の好みだった。絹子には数人の男からの誘いや見合いの話があったが、その度に、絹子は迷った。昇平の過去を知り、不運で貧弱な彼を放り出して良いものかと、絶えず悩み続けた。結果、2人は同棲までも行かないが、日々、親密さを増して行った。『春風荘』は絹子が転がり込むに都合の良い場所だと思っていた。そんな昇平との付き合い方をしている妹に、絹子の姉、平山光子が気づかぬ筈が無かった。毎週の土曜日、友人の畑中鈴子の所に泊まりに行く絹子の行動は、正常であるとは思えなかった。言うまでもなく、平山光子夫婦は、絹子に男が出来たのではないかという疑念を抱いた。絹子は親戚からの見合いの話をことごとく断るし、勤め先の上司からの縁談話も断っているみたいだったから、或る日、光子夫婦は、絹子を問い詰めた。
「絹子。変な事、訊くけど、お前、畑中さんの所へ、毎週のように行っているけど、本当は、別の所に行っているんじゃあないの?」
「そんな事、どうして急に訊くの?」
「前から気になっていたのだけれど、お前も年頃だから、彼氏が出来たのではないかと思って?」
その問いに絹子は、ドキッとした。どう答えたら良いのか迷った。すると義兄の平山健三が言った。
「絹ちゃん。本当の事、喋っちゃいな.そうすりゃあ、気が楽になるから」
その義兄の言葉に、絹子はあっさり、昇平とのことを白状した。それを聞いて、兄夫婦は呆れた顔をした。栃木で一人暮らししている父、林田隆吉に命じられ、絹子の親代わりをしている光子は、監督不行き届きであると、父に怒鳴られるのを恐れて、夫、健三とどうしたら良いか対策を考えた。絹子の相手がどんな男か、一時も早く確認せねばならなかった。光子は絹子に命じた。
「吉岡君を家に連れて来なさい。私たちが、どんな人物か確認するから」
「彼は仕事が忙しくて、無理よ」
「そんなこと無いわよ。絹子の事を大切に思っているなら、私たちに顔を見せる筈よ。兎に角、理由をつけて、彼を引っ張って来なさい」
絹子は昇平が来てくれるか全く自信が無かった。そんなことを言ったら、また別れ話になるかもしれなかった。絹子が逡巡していると、健三が諭すように言った。
「俺が、どんな男か見てやる。絹ちゃんにふさわしい男かどうか。もし俺たちに顔を見せたくないと言ったら、そいつは卑怯者だ。兎に角、我孫子に連れて来なさい」
絹子は姉夫婦に命令され、昇平を居候先に招くことを不承不承、約束した。絹子がそんな風に姉夫婦に追い詰められていることも知らず、昇平は磐城の『JJ製紙』の工場から、1週間の仕事を終えて東京の『春風荘』に戻って来た。その『春風荘』では絹子が待っていて、絹子が居候している『平山家』の姉夫婦が昇平を招待したいと言っているので、日曜日、是非、『平山家』に訪問して欲しいと依頼して来た。予想もしていなかった依頼なので、昇平はびっくりした。
「ええっ」
「だって、私たちのこと、ばれちゃったのだもの」
「でも、どうして、僕が訪問しなければならないの」
「私のお姉さんたちが、昇平さんに会ってみたいので、招待しなさいと言ってきかないのよ」
「そう言われても、僕は行かないよ」
「どうして?」
昇平は、そう訊かれて戸惑った。絹子の依頼は姉夫婦によって計算され、仕組まれた招待のように思われた。絹子は昇平の答えを、じっと待った。その昇平を見詰める絹子の目は切ない目だった。だが昇平は冷たく答えた。
「招待される理由がない」
「そ、そんな。姉たちは、貴男がどんな人物で、どんな人柄か知りたがっているのよ。顔を見せたくないと言ったら、そいつは卑怯者だと兄が言っていたわ。お願い。私が上手く話すから、我孫子の家に来て」
昇平は卑怯者という言葉を聞いて、これは意地でも訪問しなければならないと思った。昇平は幼い時から卑怯者が嫌いで、卑怯者と呼ばれるが大嫌いだった。漫画の読み過ぎか、正義を愛した。そして10月26日、中野の喫茶店『ロダン』で朝日新聞で紹介された同人誌『山路』の説明会があるが、絹子が暮らす『平山家』行きの方を優先した。上野駅から常磐線の電車に乗り、我孫子に向かった。車窓の景色は『JJ製紙』の磐城工場へ向かう途中の景色なので、別段、新鮮味はなかった。ただ秋が深まって行くのが、昇平の心を感傷的にさせた。上野から40分ほどで、我孫子駅に着いた。絹子が改札口で待っていた。その絹子と一緒に『平山家』を訪ねた。絹子が居候している家は我孫子駅から離れた手賀沼に近い丘の上だった。『平山家』の建物は新しい分譲地の階段の上に洋館のように建っていた。広い庭の池には鯉が泳いでいた。
「いらっしゃい」
絹子の姉夫婦は、待ってましたとばかり、昇平を歓待してくれた。珍しいお客に、絹子の姉夫婦の子供、直哉は絹子に抱かれ、昇平を、まじまじと観察した。昇平は手土産の『ナボナ』を差し出し、平山夫婦に、初対面の挨拶をした。それから、昇平は絹子の姉、光子と義兄、健三に、年齢や経歴を訊かれた。絹子から聞いているであろうが、その再確認だった。取り寄せてもらった寿司と光子姉の料理は美味しかった。酒好きの健三は、良い酒飲み相手が出来たと大喜びだった。昇平が小説家を目指していることを姉夫婦は知っていて、昇平に、自分たちが暮らす、我孫子の自慢をした。
「この近くには、以前、志賀直哉や武者小路実篤が住んでいたのよ。だから、お父さん、子供に直哉なんて名をつけちゃったの」
昇平は絹子が住む我孫子が、そんな場所であるとは全く知らなかった。義兄、健三が、それに付け足した。
「その他、柳宗悦、バーナード・リーチなども、作業場を構えていたんだ」
昇平は、どんな話が出るのか恐れていたが、会話してみれば、素晴らしい美男美女に可愛い男の子のいる家庭だったので、ホッとした。『平山家』の家族への挨拶が終わり、玄関先の階段を降り、道路に出ると、健三が昇平の肩に手をやり、そっと言った。
「よろしく頼むよ」
昇平は、頷き光子姉や直哉に手を振って、絹子と我孫子駅に向かった。歩きながら絹子が昇平に訊いた。
「お姉さんたち、どうだった?」
「うん。理想的な家族だね。羨ましく思ったよ」
「でしょう。私たちも、ああなりたいわね」
絹子が、そう言ったが、昇平には自信が無かった。『オリエント機械』の現在の安月給では、結婚など夢の夢のように思われた。だが、絹子は生活が苦しくても、結婚して、2人で頑張れば、姉夫婦のように仕合せになれるという希望を抱いていた。世の中はそんな事を考えている昇平たちと違い、日本社会党と日本共産党が集会を行い、民衆を扇動し、全国でデモ活動を行っていた。それに便乗し、多くの革命家や学生たちが自動車を横転させ放火したり、交番を襲撃したりするなど、暴徒化し、悪行を重ね、機動隊と衝突するなど、不穏な時代に移行していた。
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11月の初っ端の1日、同人誌『山路』の例会があった。先月の朝日新聞の朝刊で、同人誌『山路』の紹介があった為、この日の例会は、新しく加入した会員も参加し、20名近くの出席者が集まり、喫茶店『ロダン』の会場はいっぱいになった。飯塚会長の説明で、会員数が60名に達したと聞いて、昇平は、びっくりした。かくも多く、文学を目指す者がいるのかと思うと、うかうかしていられないと思った。飯塚会長の挨拶が終わると、沢木駿介副会長の司会で、合評会が始まった。西条麗子の『地点』、添田計夫の『橋』、林元照子の『あなたが見つけたものは』、門倉久美の『教え給え』、副島覚の『生と死』の詩作品、5篇だった。昇平は戦前の詩歌が好きだったが、戦後の現代詩については、どうも馴染むことが出来なかったので、詩の批評についての意見を控えた。西条麗子の作品は冷たい不安が感じられるとの批評があった。添田計夫の作品は橋の上に立って思考する男の世界を語っていて、詩というより、随筆として取り扱うべきでなかったかという意見があった。林元照子の作品については前作に比較して詩境の進歩が窺えると西条麗子が批評した。門倉久美の作品は言葉でイメージを作る操作がなされていない。リズム感に乗れず、面白くないとの批評だった。だが昇平には古典的でリズム感があるように思われた。〈人恋う故の花なれば〉などという箇所は古めかしいが、昇平の好きな言葉だった。副島覚の作品は登場人物の設定があいまいで、理解に苦しむとの批評だった。合評会が終わると、詩人たちはホッとしたようだった。昇平たちは何時もの石橋久幸、広松彰人、岡本悟史らと、新しく『山路』の会員になった吉田久彦、藤山清貴、有村学、村上正夫の4人を誘って、居酒屋『らんまん』に行った。そこで改めて、互いの紹介をし合い、文学の話をした。ほとんどが、三島由紀夫や石原慎太郎、柴田翔、五木寛之に憧れての同人誌への加入だった。新人たちは同人誌『山路』2号が『日本文学振興会』に4部、芥川賞、直木賞の選考資料として送られていると、石橋久幸か語ると興奮し、目を輝かせた。彼らの興奮する様を見て、昇平は競争相手が更に増したと自覚した。新しく『山路』のメンバーに加わった若い連中からの刺激を受けて、昇平がほろ酔い気分で、中野から『春風荘』に帰ると、林田絹子が、何時ものように待っていた。絹子の方は、この前の昇平の『平山家』への訪問で、公認になったかもしれないが、昇平は同棲を疑われている絹子の存在を、実家の『吉岡家』にも、麻布の『深沢家』にも、知らせていなかった。だが何時かは、このような交際相手がいることを伝えなければならないので、『春風荘』に田舎から柿が送られてきたのを機に、絹子の存在を伝えるべく、両親に手紙を書いた。
〈 父上様、母上様。
ご無沙汰しております。
本日、見事な柿と栗を受け取りました。
東京では食べられない故郷の思い出の好物を送っていただき、誠に有難う御座います。
早速、皮を剥いていただきました。
白壁の土蔵の前の柿の木の枝々に、たわわに実っている柿の実の輝きを思い浮かべております。
また盆休みに帰省した折、僕の女性関係について、口論してしまった事を深く反省しております。
その後、東京に戻り、結婚しようかと思っている気に入った女性と出会いましたので、一応、伝えておきます。
彼女は僕より一歳、年下で、東京の商社に勤めています。幼い時に母親を亡くし、父親と兄弟たちに面倒を見てもらい、栃木女子高校を卒業し、今は東京の人と結婚した姉夫婦の家に居候しています。苦労人だから貧乏暮らしの僕に同情し、とても親切にしてくれています。機会があったら、そちらへ連れて行くつもりです。
これから寒さの厳しい冬がやって参ります。
くれぐれも健康に留意して下さい。
家族の皆様のご健勝をお祈りしておます。
昇平 〉
この手紙の報告についての両親からの反応は無かった。そんな昇平に仕事上での苦難が押し寄せた。『JJ製紙』に納入したフィルム製造装置でラップフィルムの生産を開始したが、フィルムの巻き姿が、客先の要望通りに平滑にならず、クレームとなった。昇平は、その解決の為に、『オリエント機械』の製造部の技術者、原田隆夫、青木俊輝や『МS製作所』の上野課長たちと頑張ったが、上手く行かず、『オリエント機械』の責任者を、現地に呼び寄せるよう客先に要請された。昇平はどうしたら良いか苦悩した。そこで『オリエント貿易』の太田部長や島崎主任に掛け合い、『オリエント機械』から派遣してもらう責任者を誰にするか、遠藤常務と相談してもらうことを依頼した。結果、技術的内容を含め、客先に対応するには営業部の伊藤部長では無理だろうということになり、製造部の多賀永助部長が選ばれ、『JJ製紙』の磐城工場にやって来た。多賀部長は客先からクレームを突き付けられているのに、堂々としていた。海軍出身の多賀部長は、客先が指摘する問題点を客先の前で上野課長に詳細確認した。そして、その原因が予想される改造部分が分かると、客先に車の手配を依頼し、その改造部分を車に乗せ、昇平と原田隆夫に、『МS製作所』まで運ばせた。昇平たちは夕方から改造部分を載せたトラックの荷台に乗って、夜中、猛スピードで東京の『МS製作所』へ向った。『МS製作所』に到着すると、当直の守衛は上野課長が裏工作してくれていたので、深夜近くなのに、車を工場内に入れて改造部分を車上から降ろし、受け取ってくれた。昇平と原田は『МS製作所』の工場内に荷物を預けてから、守衛に礼を言い、南千住の安宿を探して泊った。翌日曜日、昇平と原田は、それぞれの家に帰った。『МS製作所』の上野課長は次の月曜日から、工場内で『JJ製紙』の磐城工場から持ち込んだ機械の改造部分の改造を行った。ところが、その改良工事が完了したのに、『МS製作所』の労働組合がストに入り、その改良部分を運び出せなくなってしまった。そこで、また原田と昇平が活躍することになった。昇平たちは『オリエント機械』に出入りの運送業者の車を手配して、深夜に『МS製作所』に行き、再度、『МS製作所』の守衛を巻き込み、深夜に工場内にある改良部品を工場内で車に積み込み、東京から『JJ製紙』の磐城工場に運び込んだ。その改造部分を機械に組付け、装置を動かすと、見事、客先が希望するラップ製品を製造することが出来、客先も昇平たちも大喜びした。その夜、昇平たちは植田の旅館に移動し、多賀部長、上野課長、原田隆夫と祝杯を上げ、徹夜麻雀をして楽しんだ。こうして昇平たちが『JJ製紙』に納入した装置の検収を上げて、横浜の『オリエント機械』に戻った時には、もう11月も終わりに近かった。『JJ製紙』の出張報告書作成の仕事を済ませて一段落し、ホッとしている昇平に、珍しく同期入社の宮里敦司から、昼休みに遊びの声がかかった。
「吉岡。ご苦労さん。出張で疲れているだろうが、今度の休み、久しぶりにダンスに行かないか?」
「水木さんからの誘いか?」
「いや。彼女とは、一年前に別れたよ」
それを聞いて昇平は、ちょっと驚いたが、そういう自分も、小野京子と縁無しになっているので、宮里が水木皆世と別れたことは驚くべきことでは無かった。
「じゃあ、何処のダンスホールに行くつもりだ?」
「今度の土曜日、総務の女の子たちが企画したダンスパーティーが、小杉の市民会館であるんだ。設計の男たちに声がかかり、滝口さんや越水さんたちと参加することにしている。田中にも声をかけた。参加してくれないか」
それを聞いて、昇平は了解の返事をした。その後、営業部で昇平と机を並べる青柳加代子からも同じ誘いがあったので、昇平が、参加することを約束した。すると、彼女はとても喜んだ。そのダンスパーティの当日、昇平は林田絹子を連れて、武蔵小杉駅近くの市民会館のダンスパーティ会場に出かけた。絹子はダンスパーティと聞いて、白いフリル付きブラウスの上にオレンジ色のスーツ姿で参加した。オレンジ色といっても、少し赤味がかった鮮やかな黄色のスーツは人目を惹いた。『オリエント機械』の女子社員、小山君子、斎藤好美、青柳加代子、平松澄江、永山晴子たちは、そんな絹子を帯同した昇平を見て、目をパチクリさせた。定刻になると、パーティの主催者である岸本朋久と青柳加代子が挨拶した。2人は高校時代のクラスメイトで、旧友との再会と、新しい出会いを求めて、今回のダンスパーティを企画したと述べた。その後、直ぐにダンス曲が流れ、皆がパートナーと踊った。年上の滝口康夫は婚約者と踊り、宮里敦司はダンスの初心者、平松澄江と踊った。久しぶりに会う田中俊明は小山君子と踊った。越水正勝は、おデブちゃんだがダンスの上手な斎藤好美と踊った。青柳加代子はハンサムな岸本智久と踊った。岸本は昇平同様、小柄だったがダンスが上手だった。2人は昇平たちと競うように踊った。『北上夜曲』、『誰よりも君を愛す』、『ともしび』、『アザミの歌』などのブルース。『水色のワルツ』、『星影のワルツ』、『ムーンリバー』などのワルツ。『恋心』、『真珠とりのタンゴ』、『碧空』などのタンゴ。『星のフラメンコ』、『雨に唄えば』などのチャチャチャ。『コーヒールンバ』、『情熱の花』などのルンバ。その他、マンボ、ジルバなどを踊った。昇平は、『オリエント機械』の女性たちとも踊った。小山君子など、ジルバでグルグル目が回るほど回転させてやった。青柳加代子と踊ると、彼女に訊かれた。
「変な事、訊いても良い?」
「何?」
「あの人と結婚するの?」
「何で、そんなこと訊くの?」
「だって、貴男と親密みたいだし、ダンスが上手で美人だし、頭も良さそうだし・・」
「貧乏でだらしない生活をしている僕と結婚する相手などいないよ」
昇平は、苦笑して、そう答えた。加代子と踊りながら、そんな会話をしてから、昇平は加代子と離れて、再び絹子と踊った。『オリエント機械』の女性たちとのダンスは楽しかった。宮里や田中たちも、彼女たちとのダンスを満喫しているようだった。
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昇平は『オリエント機械』に入社以来、2足の草鞋を履き、ずっと忙しい日々を送り続けて来た。気づけば季節は枯れ葉舞う12月になっていた。同じ射手座生まれの昇平と絹子は、12月生まれだったので、互いの誕生日の中間の12月6日の土曜日に誕生祝をすることに決めた。まずは当日、午後3時半に銀座4丁目の百貨店『三越』の前で待ち合わせし、百貨店内に入り、互いのプレゼントを選んで買った。昇平は絹子に真珠の指輪を買った。絹子は昇平にネクタイピンとカフスのセットを買った。その買い物が終わると、2人は3丁目のレストラン『煉瓦亭』に移動し、誕生祝の食事をした。赤ワインで乾杯し、ビーフステーキ、白身魚のバター焼き、オニオンスープの食事を堪能した。その後、ネオンが輝き始める黄昏の銀座を眺めて、地下鉄の銀座駅への階段を降り、日比谷線ホームに行き、中目黒行き電車に乗った。師走とあって、電車の中は混雑していた。昇平と絹子は吊革につかまり、会話しながら電車に乗り、終点中目黒駅で下車した。中目黒駅から『春風荘』へ向かう途中、洋菓子店『バンセンヌ』を見つけ、そこでショートケーキを買って、『春風荘』に帰った。部屋に入ってホッとした。銀ブラした所為か、かったるかったので、部屋のコタツに入り、一休みした。それから、坂下の銭湯『松の湯』に行って、身体を清めた。銭湯から戻り、落ち着いたところで、コタツに入ってショートケーキを食べながら話した。絹子は、悩んでいるかのように、ぼやいた。
「私、また一つ、歳を取ってしまったわ。うかうかしていられないわ。そろそろ、いろんなことを考えないと・・」
「そうだね。来年からは、お金持ちの男を探し、熱烈な恋をして、結婚する相手を決めないとね」
「何、言っているの。他人事みたいに。貴男だってそうでしょう。結婚したいと思わないの?」
「僕は慌てて結婚する必要は無いと思っている。仕事に於ける知識や楽しみを得る為に、まだ頑張らなければならない。また文学の道も中途半端だ。僕の青春の夢は未達成のままだから」
「そんな悠長な考えでは駄目よ。青春は永遠に続くものでは無いわ。私たち時代に乗り遅れてしまうわよ」
昇平は絹子に、そう言われ、彼女が、自分と早く結婚したいと願っているのだと感じた。そこで訊いた。
「野良犬のような貧しい生活をしている僕のような者でも結婚出来るのだろうか」
「出来るわよ。貴男は貧しくても、お客や友達を味方にする技術や魅力があるわ。それに学歴もあるわ。お金なんか無くっても、頑張れば何とかなるわ。私、貴男の、夢を後押しして上げるから・・」
「何で僕の後押しするの?」
「だって昇平さん、鳥籠の中にいるような居候生活から逃げ出して、頑張っているからよ。私の今の生活は鳥籠の生活よ。だから私も貴男のように仕合せさがして、鳥籠から逃げ出したいの。そして貴男との愛の巣を築きたいの」
出会った頃は寡黙だった絹子は、『平山家」から早く出たいのか、結婚を焦っていて、昇平を熱心に口説いた。昇平は、自分の事を慕う絹子なら、見栄を張らずに、自分の弱さをさらけ出しても構わず、気楽に生活出来ると思った。また互いの過去を知る共通の知人がいない事も好都合に思えた。
「なら、結婚しようか」
昇平は、その時の昂ぶりに任せ、絹子を抱こうとした。すると絹子は昇平の要求を拒否した。
「ケーキをちゃんと食べ終えてから・・」
2人は、それから急いで、ケーキを食べ、歯磨きし、布団を敷いて一緒に寝た。布団に入ってから、絹子が両親の事を語った。
「私のお母さんは芯の強い女だったらしいわ。ハンサムなお父さんに惚れて、結婚を許してもらえないなら、巴波川に跳び込んで死ぬわと言うので、結婚を許してもらったらしいわ」
その寝物語を聞いて、昇平は、絹子を見詰め、高まる情欲を抑えられず、絹子に口づけした。すると彼女も昇平に接吻の仕返しをした。まるで結婚の承諾を自分の中に吸い込もうとするかのように。昇平は、両親に絹子の事を、既に手紙で知らせていたが、それについて両親から、何の反応が無いままなので、不安だった。昇平は、絹子を抱きながら、反対されることを予想した。その翌日、昇平と結婚を約束した絹子は晴れ晴れとした顔で昇平に言った。
「そういえば、私、10月に我孫子の姉夫婦に昇平さんの事、紹介したのだから、今度、私を貴男のお父さんやお母さんたちに紹介して」
「うん。年末年始の休みに群馬に連れて行くよ」
昇平は行きがかり上、そう答えるしか方法が無かった。それを聞いて絹子はルンルン気分になった。昇平はその絹子を、日曜日の午後、上野駅まで送って行った。その帰り、昇平は上野駅から山手線の電車に乗り、新宿で総武線の電車に乗り換え、中野へ向かった。夕方6時から、中野駅北口の大衆酒場『両国』の2階で、同人誌『山路』の忘年会があるからだった。会費は千五百円。会場に行くと、既に20名ほどが集まっていた。定刻になり、飯塚会長の挨拶の後、同人たちとの懇親会が始まった。昇平たちは大いに食べ、大いに飲み、大いに語った。昇平は営業マンなので広松や石橋、岡本らと喋っているだけでなく、飯塚会長や沢木駿介、西条麗子、鈴木秋絵たち先輩の所へ行って、酒を注いだ。また山本香澄や門倉久美とも喋った。また吉田久彦、藤山清貴、有村学、村上正夫たち新人とも親交を深めた。その懇親会が終わってから、昇平は酒好きの石橋、広松らに誘われ、新宿ゴールデン街のバー『ランラン』に行き、香織ママ、花田江里、玉木典子らを相手に、飲めない酒を飲み、財布の中を、すっからかんにして、『春風荘』に帰った。幸いなことに、翌月曜日、賞与が支給された。まさに綱渡りの生活だった。昇平が受け取った賞与金額は『オリエント機械』の仕事に頑張ったので、給与3ケ月分の金額だった。昇平は、その賞与の半分を結婚資金として、翌日の昼休み、綱島の『三和銀行』に行って貯蓄した。
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師走の名の通り、昇平は『オリエント機械』の営業マンという職業柄、重要な客先への年末の挨拶回りに,駆け回った。その忙しい合間に、大学時代の『モエテル』の仲間との忘年会にも参加した。『モエテル』の仲間のうちの手塚、細木、久保、岩野、菊島たちは、長野の『飯綱山荘』を利用し、年末の冬休みに、長野にスキーに行くという計画を立てていた。昇平はスキー道具を持っていないので田舎に帰ると仲間に話した。客先への挨拶回りが終わると、12月23日に『オリエント貿易』との忘年会があり、25日には、営業部の忘年会があった。そして最終26日、『オリエント機械』の仕事納めの忘年会兼納会と宴会が続いた。その納会の後、雀荘『竹藪』での麻雀大会があり、それに参加して、昇平は1年間の仕事を終え、ヘトヘトになって『春風荘』に帰った。その昇平を林田絹子が『春風荘』の部屋で待っていた。昇平は、絹子と結婚を約束した日から彼女との心を通わせる心地良い一体感に満たされ、互いに心を曝け出し、飾り気無く意見を交わすことが出来るようになっていた。絹子は、12月30日に東京を出発し、新年の1月2日に、東京に戻って来る計画について、昇平に再確認し、綿密な行動計画を手帳に書き記した。彼女は昇平の実家に訪問し、家族の人たちに嫌われてはならないと、実に慎重に、いろんなことを昇平に質問した。昇平は彼女に質問されると、絹子を連れての帰郷が現実的な影を帯び、両親が絹子を認めてくれるか否かの不安が増幅した。だが、結婚を約束したからには絹子を連れて行き、家族の承認を得ねばならなかった。その不安感は昇平を緊張させた。昇平は不安から逸脱する為、絹子を見詰め、絹子を抱いた。絹子を抱くことによって、絹子の必要性を強く感じ、その肉体的所有感を実感した。絹子は自分のものだ。かくて12月30日、昇平は上野駅で旅行バックを持った絹子と待ち合わせして、上野駅から混雑している信越線の電車に乗った。昇平は緊張した。果たして家族は絹子を連れて行く自分を歓迎してくれるだろうか。電車は上野駅から離れ、昇平の故郷に向かって走り出した。電車が埼玉の本庄を過ぎると、故郷の赤城、榛名、妙義の山々が近づいて来た。冬枯れの上州平野を風を切って突っ走る電車の中で、昇平は絹子の手を握り、これから立ち向かって来るであろう父親との対決を想像し、身震いした。前方に白雪の浅間山が煙を吐いて、昇平の帰りを待っているのが見えた。
〈 『迷走流転』 終わり 〉