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花が咲く頃に終われ  作者: 下山きよ
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早く終わりますように

 また今日も私は、針で皮膚を貫かれたかのような鋭く尖った痛みで目を覚ましました。それは身体のどのあたりから感ぜられたものなのか、先程まで夢の中をとても良い心地で漂っていた私にはもうその場所を探ることも出来ず、役目を終えたかのように雲散霧消してゆく痛みを、ただ呆然と見逃すしかないのでした。隣に敷かれた布団で眠る了子さんはとても安らかな寝息をたてていて、その様子を確認してやっと私は安堵の溜息をつくことが出来ました。そうです、私にとって了子さんは唯一の人。この世に残されたたった一人の身内。もし先程の痛みが誰か他人の手によるもので、私だけではなく了子さんにまで危害を加えていたとなれば、私はその犯人を惨い手段で痛めつけなければなりません。いくら私といえども赤の他人にそこまで自分の時間を割いて差し上げるのは、サービスが良すぎますが。



 お世辞にも肌触りの良いとはいえない布団を腰のあたりまで引き下げ、身を起こした私はすっかり目を覚ましてしまい、もういちど目を瞑って枕に深々と頭を沈めたとしても再びあの幸せの最中を漂うような夢を見ることは叶わないでしょう。夢見の悪い最近、あのような夢を見ることが出来るなんてめったにないというのに。惜しいことをしました。私は隣の了子さんの目を覚まさせないように細心の注意を払い、そろりそろりと布団を払い身体をよじり、最後にゆっくり足を抜き出しました。柔らかい布団を抜け出た素足は、冷たくささくれだった畳をためらいなく踏みしめます。もうとっくにこの冷たさには慣れっこになっていましたから、五感に触発され動かす感傷もないほど、私からは多くのものが磨り減らされているのだろう、とほんの少しの虚しさを感じるに留まりました。



 弛んだ紙が貼りつけられたままの障子をからりと横に開き、畳と床板の境に線を引く敷居を大股で乗り越え、私は夜の空気で更に冷やされた木の床を、裸の足で踏みました。


 濃厚な冬の気配を、むき出しの手の甲や足の裏から感じ取りながら、私は夜の整然とした静けさを足音で打ち破りつつ歩みます。あまり長くない廊下の突き当たりには立て付けの悪い、素人が仕事をしたかのような不格好な扉がありました。私は最近、眠れぬ夜にはここに入り浸っているのです。火を当て無理矢理捻じ曲げたようないびつなかたちの取っ手を軽く引くと、ちいさな軋みの悲鳴をあげて、扉は容易く私を迎え入れました。侵入者の身の上も調べずやすやすと中へ入れるなんて、なんと愚かな行いだろう、といつも私はこの部屋の住人に軽蔑の眼差しを送るのですが、彼は軽々とその刺々しい視線を避け、それどころか私に向かって軽口などを叩いてくる始末なのです。


「お邪魔します」


 相手に礼を尽くすこと、挨拶はきちんとすること、など、親から教え込まれた私は、粗野な人間に対しても丁寧に接することを怠りません。そんな口先だけの挨拶を済ませ室内に踏み入ると、チリチリとした無遠慮な視線を感じました。言うまでもなく、彼です。


「昨日ぶりだな。お前、今日も眠れないのか」


 相変わらずの腹に響く低い声に、情けないことですが私の肩は一瞬怯えるようにびくりと揺れてしまいました。彼に見られていなければいい、と内心願ったものの叶わず「なんだ、まだびくついているのか」と笑い含みの憎たらしい声が私の鼓膜を揺らします。かっと頬が熱くなるのを感じ、けれどここで激昂しては彼の思うつぼだと、深呼吸をして今日こそ彼と冷静に会話をしようと決意を固くするのでした。


「そうです、眠れません。なので、またあの話をしていただけませんか」


「お前も飽きないな」


「……非常に悔しいのですが、あなたのお話を聞いた後はよく眠れるのです」


 彼のする話というのは物語でした。主人公の女の子が自分の双子の姉を探しに旅に出るという内容です。私自身姉がいるものですから、聞き始めた当初はくだらないと馬鹿にしていたものの、今となっては毎夜毎夜夢中になって続きを求めてしまうのです。我ながら滑稽だとは思います。それでもどうしてか引き付けられ、気になって仕方がないのでした。いつのまにやら主人公の女性に肩入れしてしまい、もし私が行方の分からない了子さんを探しに旅に出るとするならどれほど辛く苦しいだろうと、自分の身に置き換えて考えてしまいます。


「まあいい。今日も気の済むまで聞いていけ」


 そうして、男は存外心地いい滑らかな声で昨日の物語の続きを語り始めるのです。「昨夜はどこまで話したかな」


「主人公の女性が姉の親友を名乗る人物に出会い、九州に行ってみてはどうかと提案を受けたところでした」


「そうかそうか、そこまでいっていたんだった。まだまだ序盤だな……。そう言えば、お前にこの話を始めたのはいつごろからだったかな」


「もうお忘れなのですか。私が初めてこの部屋にやってきた日、一週間前です」


「そうか。まあ一週間ならこんなものだろう。先は長いがついてこれるかな」


「勿論です。ここまで来たら最後まで聞いて差し上げます」


 声を張って言うと男はにたにたと嫌な笑みを浮かべて、では、と一言区切りの声を発すると、耳朶を柔らかくくすぐる声で、まるで音楽を紡ぐように語り始めました。私は異国の音楽を聴くかのように耳を澄まします。眠れない夜はそのまましんしんと更けていくのでした。すべての始まりの場所と呼ぶには些か埃っぽく湿った不衛生な部屋で、けれど澄んだ歌声のような音に包まれながら、私達姉妹の終わりは始まってたのですが、そのことを私は知る由もありませんでした。

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