ghost anchor
酷い光景だ。
やはり止めるべきだった、引っ張ってでもエフを諫めるべきだった、そう思わずにはいられない。
下葉や岩肌、虫に傷つけられた痛々しい脚を彼らは動かし続ける。汗とも涎とも涙とも判断のつかない水浸しの顔面で地面を睨め付けながら、彼らは行けども終わらない道程に没頭している。
頭も肩も左右にゆらゆら、ゆらゆら。
『死霊の行軍 (レギオン)』とは、はたして、この様な有り体をしているのではないのだろうか。
「エフ……」
睨め付けた背中は一人だけしゃんと伸びている。
エフが集落から持ち出した私物は、身体と毛布、それから『剣を装った鈍器 (キューショナー)』だけだった。しかし、旅程の彼女は誰よりも大きな荷物を負担している。
水や食料、発電機を始めとした持ち運べる共有資産を片っ端から積み上げた背負い梯子を苦も無く彼女は受け持っていた。また『ズル』を、いや、本来の領分を逸脱した『無理』をやっているのだ。
やめてくれと言いたい。
この行軍も、エフの身体のことも。
オルトが口を噤んでいるのは、資格を疑っているからだった。
あの夜から、自問自答を繰り返している。
エフを始めとする現実を生きる彼らと、オルトというベビールーム産の惰弱なメンタル。
はたして、両者は『同じ人間』と言えるだろうか?
その価値は同値にあるだろうか?
オルトはメンタルの劣等を感じずにはいられなかった。
明確な根拠は提示出来ない、むしろ、さまざまな観点から判断するならメンタルに軍配が上がるはず。オルトもずっとそう思って彼らの精神の無様な振り回されっぷりを見下していた。
だがそう、まるで知ったかぶりの気取り屋が誤魔化すみたいな、曖昧な言い方になるが、彼らの存在の仕方には『魂』が伴う、そんな気がするのだ。
メンタルらしいロジックで行動から枠に当て嵌めれば、彼らはただの死にたがり集団だ。
エフのやり方に従う彼らは近いうちに絶滅するだろう。
痩けた頬は黒ずんでいるし、こんなに運動量に対して発汗量が乏しい。すでに全員が軽度から中度の脱水症状に罹っている。子供達は歩幅も小さく、もともとの体力も大人達と差がある。このまま状況が続いたら最初に脱落するのはきっとこの子供達の内の誰かだ。そのとき、エフはやはり脱落者を置いていくのだろう。
集落に残してきた数人に対してもオルトは同情していた。彼らは仲間に見捨てられ、閑散とした村で身を寄せ合うことも無く朽ちていく。
お互いの時間を分け合い生活する彼らが印象的だったからこそ、その末路が孤独なのは侘しいと感じた。
これでエフ達は一体何を証明しようと言うのだ。
絆を切り捨て、自身を傷つける自己証明。
オルトのレンズには彼らのソレは歪に映る。
目蓋を閉ざして突き進んだ末、ねじ曲がって目的地さえ分からなくなっても進み続ける。
まさしくは破滅の途。
そこまでして例えなにかを証明できたとしても、何も残せやしないではないか。
だいたい、彼らはかつて仲間を殺されたことに怒り、オルトに憎悪と石をぶつけたのではなかったか。ではどうしてエフはその対象にはならないのだ。仲間を失う怒りを理解したからそのようは発散方法を提案したエフがどうして、このような無体を働くのだ。
あのときと、いまとで何が違う?
エフとオルトの違いはどこにある?
死とは個人の終了行程 (ターミネーション)だ、それ以上の意味を持たない現象だ。齎される過程がどのようなものであっても、死という結末が変質ことは無い。オルトが与えた死も、エフが導いた死も、『終了した』という記憶 (ログ)に違いはない。
だが、彼らはオルトの与えた死には大きなネガティブを返し、エフの理不尽には諾々と肯定をする。どちらも他者の選択に起因する死という共通項を踏んでいるにも関わらず、このように真逆な思考 (ルート)へ結実した要素はなんなのだろうか。
そのX値が、メンタルと彼らを隔てる決定的な要素なのだろうか。
ロジックの想定外から介入するその乱数を『魂』と呼ぶのかもしれない。
電脳では全ては緻密と精確な演算によって実行される。このように非常に不安定な乱数は排除されていて当然だ。メンタルが『魂』の要素を持たないのは当然だし、その知覚が困難な理由も然もありなんと言ったところだろう。
オルトは自身が頭で考えた以上のことを実行するビジョンを描けない。彼らのように『死』を忌避しながら、それを引き寄せるような自体の消耗を厭わない行動を実行できるとは思えない。この致命的なロジックのエラーをどう修正すれば良いのか分からないから。
メンタルの視点なら、そのような矛盾 (パラドクス)は許容しない。だが、このように限界値さえ踏み越えることを可能とする『魂』は尊敬するべきだ。
『魂』は人間が不要として切り捨てる要素であって良いとは思えない。
この『魂』を欠いたメンタルは、はたして本当に人間としての『完成』に相応しいだろうか。
オルトのようなメンタルで彼らを計るのは『魂』を軽んじることになる、そんな気がして、オルトは口を噤んでいた。
オルトでは、彼らの肉体の限界を見て取ることは出来ても、彼らの本当の限界は計測不可能だ。彼らが肉と骨の器に宿らせる精神の衝動を理解することが出来ないから。
▼
一人、また一人と、脱落者は増え続けた。
オルトの予想を裏切り、子供の脱落者は出ていない。
大人達が本当に限界だと判断した子供達を、自分の荷物を諦めてでも背負って運ぶからだ。やはり、彼らは心代わりしたわけではない。依然、クエリの実行の高い優先度には『仲間』がある。
エフは太陽の角度を観ながら定期的に休憩を挟むとは言え、満身創痍の身体を休めるには環境も時間も不十分だった。
休憩したまま立ち上がれない者がいた。彼は大腿を殴って立ち上がろうとしていたが、動かない脚を悔しそうに見下ろしたあと、首を振って周囲を促した。彼に助けられた子供が縋り付こうとすると頭を撫でて背中を押してやっていた。
ふと頷いてから立ち尽くす者がいた。彼は空を仰いで、からからの喉で笑っていた。
森林と遙か峰の稜線を一望できる丘にさしかかったときに、脚を止めて、そのまま離脱した二人組がいた。彼らは手を絡めたまま、景色を眺め続けていた。
エフは離脱した彼ら一人一人と右手でシェイクハンドをしていた。お互いに掛ける言葉は無い。繋いで二回振って離す、たったそれだけのイニシエーション。
オルトが意図を尋ねると、エフは『返してるの。そういうことにしてるから』と答えた。集落に残してきた数人とも交わしてきたらしい。
餞別とも言えない粗末な挨拶だが、彼らには重要な儀式なのだろう。エフと繋がった彼らはみんな、何かを呑み下すような、渇いた喉に水を流し込むよりも満たされた顔をしていたから。
ああ、辿り着けたと、そう言わんばかりに。
残された者達は歯を食いしばって歩き続けている、まるで見えない力で引っ張られているみたいだ。先にいるのは誰よりも大きな荷物を持った一人。比喩では無く、エフはたったの一人でコミュニティを牽引しているかのようにオルトには見えた。
『預かっている』
その言葉は比喩ではないのかもしれない。
現実世界では物理接触が原則だ、質量を持たない物をやりとりしてもそれは当人同士の自己満足でしかない。だからオルトはエフのシェイクハンドを儀式と称した。形式的なもので、実質の価値は無い、そう判断した。
その判断を覆したくなるほどに、彼女はひたむきだ。
彼女はずっと動き続けている。休憩の時も彼女は周囲と先の偵察に出掛け、疲労困憊のコミュニティのために水と食料を手に入れてくる。
見てくれは立派な機械戦士のオルトよりも、よっぽど設計思想に忠実なロボットのようだ。
彼女には唯一性を感じずにはいられない。
エフならばこの現実世界で形の無い物のトレードを可能にする術を持っているのかもしれない。その技能によって本当に他者を預かっている、だなんて想像してしまう。
もっと言えば、彼女だけはこの世界のルールすら超越してしまいそうだ、などという想像はいくら何でも突飛だろう。
彼女は強すぎて、特別だ。背負えてしまうから、先頭を往く。
波風も、重責も正面で引き受けて屹立する。
少しだけ、彼女のカリスマを理解出来た気がする。
誰よりも苦労を引き受けているから付き従うのではない。
コミュニティの人間が彼女に従うのは、『安心』だからだ。彼女が揺るがず、強固な、我が身を預けてしまっても耐える器だと確信出来るからこそ皆は彼女を信頼する。
最も重要な物さえ預けてしまえる。
エフが皆から預かる物の正体は、『魂』だ。
現実のルールや必然、ロジックを裏切る、現実世界の人間が持つ超能力の根源。
それほどに大切な物を渡してしまったら、どれだけ肉体が限界だろうとも歩くしかない。自らの本質に追いすがる以外の選択肢など、ありえない。もちろん、本当にエフに『魂』をどうにか出来る能力があるのならという注釈が付随するわけだが。
だとしたら、ぞっとしない。
あのシェイクハンド。
『魂』の返却の儀式。
あれは、『赦し』だ。
『魂』を担保にしているから、彼らは貧困に挫けず、どんな時でも、どんな状況でもエフの後に続いて歩むことが出来る。つまり、それを返却するということは『もう死んでもいいよ』と、そう言っているようなものなのだ。
集落に残し、道程で離脱した彼らは、みんなみんな、みんな、もう……。
[あっ……]
かつん
鋼鉄の指先が、鉄板の胸部に触れていた。
なぜ?
メンタルが、震えている。
この感情は、何を対象としているんだ?
どんな条件の獲得がこの挙動を生み出した?
これも電脳では経験したことの無い、現実世界だからこそ獲得できた強烈な感情だ。
解析して学習、吸収すれば、オルトのメンタルのクオリティを高めるのに役立てることが出来るだろう。
[……]
やるべきことを理解していながら、躊躇するのは、『恐い』からだった。
この感情は混濁していて、複雑怪奇だ。
内側から徐々に広がる、薄氷に踏み込んだかのような、ひび割れたビードロのような危うさを錯覚する。この感情を取り入れたが最期、メンタルが致命的な破綻をするのではないかという危惧があった。だからオルト何も出来ずに、このメンタルの揺らぎが収まるのをじっと耐えた。早く鎮まってくれと祈りさえした。
徐々にフラットになる。
恐怖が朧になっていく。
やっと残滓さえ流れていった頃だった。
[どうして、こんな――]
筆舌には尽くし難い。
いまの経験は革命だったことだけを思い知っていた。
オルトのメンタルは決定的に何かを変質させた、その確信だけがあった。
思考を巡らせ、その変化が如実になった一つをあげるならば、『死』についての価値観だろう。
エフや彼らの『死』を想像すると、先ほどの名状もしがたい感情が引き潮のように、オルトのメンタルに気配を漂わせる。
少なくとも現実世界の彼らの『死』を、オルトは以前のような只のパターンの一つで処理することが出来なくなっていた。彼らの終了にオルトは感化している。特別なこだわりを抱いている。その変化は紛れもない事実だった。
ああ、どうして、どうしてこんなにも唐突に。
このタイミングで、こんなにもやっかいな代物を手に入れてしまうなんて。
だって、そうだろう。
行軍はまだ続く、あと何人がエフとシェイクハンドすることになるだろう。その度にオルトは先ほどの恐怖を耐え忍ばなければならない。
ぞっとしない、ぞっとしないとも。
いまいちど、オルトは移動を続ける軍勢の最後尾からレンズを向ける。
たった一人に魂を引っ張られて歩み続ける彼らは、例外なく死の気配を漂わせている。既に全員の末路が見える場所まで迫っている。彼らの数だけ、オルトはメンタルを振り回され、かき乱されることになる、それはあんまりな仕打ちではないのか。
螺旋がぎこちなくなる。
機械仕掛けが物質の本能を増大させて永遠の停止を目論んだかのようだった。
ふと、先頭を歩む彼女が大きな荷物越しに、碧眼の一瞥をくれた。たったそれだけでオルトは自然と歩みを進めていた。
なんてことは無い。
とっくにオルトも彼女に預けてしまっていたのだったか。
すでに、踏み込んでしまった以上は、彼女の赦しを得るまで立ち止まることは許されない。
どれほどの屍をレンズに映し、後ろへ残していくことになっても、目的を、証明を手に入れるまでは、進むしかない。
この現実世界で、ガラクタの器に収まったオルトもまた、行軍の末席で機械仕掛けの脚を動かし続けるしかないのだ。