第七章:神様の僕
-1-
そこには入間が立っていたのだ。
服装はギリシャ神話に出てくる登場人物が着ているような布を体に巻いているし
身長も僕が知っているより気持ち高いような気もしたが、間違いない。
顔も声も、入間そのものではないか。
すると入間は目を見開き僕のそばへと駆け寄って叫んだ。
「これは一体どういうことだ!?通達は届いていたはず。なぜこのような事態になっている?!」
「も…もうしわけありません!」
中年兵士が土下座をして謝る。
事態が飲み込めない。
「ああ…なんて酷い…。おい、この手の鎖を早くはずさぬか!」
慌てて兵士の一人が飛んでくると僕の両手首にきつくまかれた鎖をはずしてくれた。
「お怪我はございませんか?」
入間が心配そうな表情を見せる。
なんか…こんな表情の入間って気持が悪いなぁ…と
思わず笑い出しそうになるのをこらえて言った。
「大丈夫だよ…」
入間は僕を抱き起こすと鎖によってついた手首の傷をそっとさすってくれた。
そしてまた兵士のほうへ向き直る。
「お前らただでは済まされんぞ。なぜ通達を無視したかと聞いている」
中年隊長は、ははーと時代劇に出てくる侍のような声を上げながら話し出す。
「この者を捕らえ…いや、確保したときには指輪はなかったことを確かに確認したはずなのですが…」
「何を言っている。しっかりあるではないか!」
そういいながら僕の左手を持つと小指についている指輪を兵隊たちに見えるように掲げてみせた。
「いや…しかし、間違いなく確認したはずなのです」
たじたじな中年兵は一体何を恐れているのだろう。
この指輪が一体何だって言うのだろう。
てか、指輪を確認された覚えなんて一度もなかったはずだが…?
とうとう我慢できなくなり僕は口を開いた。
「あの…一体どういう事なんですか?」
「いえ…もう心配しなくともよいのですよ。
さぁ、帰りましょう」
そういいながら僕に肩を貸しながら立ち上がった。
え?
帰る?
帰るって言った?!
間違いなくそう言った!
やっとこの変な世界から出られるのだろうか?!
悪夢が終わる?!
……
いや…待てよ…
恐る恐る問う。
「帰るって…どこへ?」
すると入間はにっこり笑みを作って言った。
「もちろん、あなたの宮殿にですよ」
疲労と空腹がMAXだったからかもしれない、
「まだまだ、始まったばかりですよ。こんなものじゃない」
そういわれたような気がしたんだ。
視界が真っ白になった。
薄れ行く意識の中、
そういえば石像の前で意識を失ったときもこんな感じだったな。
もう十分この世界は堪能したつもりだ。
だから、
帰してくれないだろうか、もといた世界へ。
そう願わずにはられなかった。
目が覚めたらあの石像の前で
慌ててバイオリンのレッスン目指して駆け出す僕を
想像しながら深い意識の淵へと沈み込んでいった。
-2-
洗い立ての洗濯物のような、すごく安心できる優しい香りがした。
寒気はもうなく、体がぽかぽかと暖かく心地よい。
もう悪夢は終わったのだろうか?
まだもう少しこのまま眠っていたいくらいだった。
ああ…今何時だろう。
学校行かなくちゃ。
遅刻しちゃう!
はっ!と我に返り目を見開いた。
そこは大きな、布でできた箱のようだった。
天井にはえんじ色の布地に金色の刺繍が入っている。
小学校のときに天体観測で使った星図版のような模様だ。
横たわった位置から見える三方の側面には綺麗な刺繍の施された
明るいベージュ色のカーテンが掛かっていた。
…ここは…どこだ?
ゆっくりと体を起こし、
そこが一つのベッドの上だと知る。
なんて大きな…。
キングサイズなんてもんじゃない。
純白のようなまぶしい白で統一された寝具、
それに麻のような淡い色をした、だが絹のような肌触りの
ワンピース型のパジャマとズボンを着せられている。
さっきの石牢とは天国と地獄ほどの差があるほど美しい世界だった。
だが、なぜ僕はこんなところに眠っていたのだろうか。
そうだ…入間は?
やっとのことでベットの端までたどり着くと
カーテンをめくってみせた。
そこでまたため息が出る。
一体何畳、いやここはどこかのホールなのか?というくらいに
あまりにも広い部屋がそこには広がっていた。
ベルサイユ宮殿のガラスの間のように、とにかく広く
壁や天井の装飾も半端ではない。
ガラスの代わりにたくさんの半円形の窓が壁にびっしりと並んでいた。
床にはえんじ色のふかふかのカーペットが敷かれている。
少し離れたところに本棚や書斎机などの
家具が置いてテーブルセットもあった。
どれも装飾がどこの貴族のものだと思わせるほど
細やかな美しい装飾が施されている。
一体ここはどこなのだろう…。
ふと、少し離れたところにあったクリスタルガラスのようなテーブルに目が留まる。
僕の荷物!!
思わず駆け寄った。
クリーニングしてくれたのだろうか?かつての白さを取り戻した制服、
かばん、それにバイオリンケース!!
良かった!!
一応中身を確認してみるが
間違いなくそこには僕のバイオリンが納められていた。
もう一度、ほっとため息をついた。
ここはどこなんだろう?
窓の外に目をやる。
外は明るい。
今は朝だろうか?日差しが柔らかく白い。
外に半円形のバルコニーがある、他の窓よりも少し大きい窓を見つけた。
そこから出て外の様子を伺おうかとしたとき、
ちょうどその窓に青白い光が差し込んだのだ。
その光はだんだんと強さを増してくる。
何かが来る!
そう直感した。
もう面倒に巻き込まれるのは本当にごめんだった。
慌ててすぐ近くにあった本棚の後ろに隠れると、
しゃがんでその様子を静かに見守った。
光は依然と強くなるばかりだ。
とうとう部屋一面をまばゆさで包み込んだ後
暫くして
窓の扉がそっと開いた。
思わず息を飲む。
ふわりと何かが飛んできたのだ。
とても大きなものだ。
自分の体の倍以上はあるのではないだろうか?
空から舞い降りてきたように見えた。
それが床に足をつける。
自ら光っていたそれは次の瞬間から弱まり
窓のそとから差し込む太陽の光を背にして立った。
その物体が光っていたのと、夕日の逆光で目がまだくらんでいて
一体何が部屋に入ってきたのかはわからない。
その物体は僕の荷物が置かれたテーブルの前まできて止まった。
荷物を眺めているようだ。
やがてクスリと笑い声が漏れたのが聞こえた。
何故笑うのだろう。
正体不明のその物体が不気味で仕方が無かった。
と、
足音がこちらへと近づいてくる。
やばい!
見つかったか?!
しかし逃げ場がない。
どうする?!
身をかがめたまま頭の中ではパニックを起こしている。
と、
「やぁ」
頭の上から声が降ってきて、
思わず驚く。
恐る恐るぎゅっと閉じていた瞳を開き、顔を上げた。
が、次の瞬間
僕は悲鳴を上げていた。
「わぁっっっ!!!!」
ほかに言葉が見つからなかった。
だってそうだろ?
目の前に半馬人がいたのだ。
しかも、
しかもだ
顔をみて一体だれが冷静でいられよう。
僕だ。
僕がいたのだ。
下半身は馬。だが上半身は人間で
その顔が僕そっくりときている。
これが悲鳴をあげずにいられるだろうか?
「フフ…ごめんね。驚いた?」
僕にそっくりな半馬人はにこりと微笑んで見せた。
「そんなところにしゃがんでないでこちらへ出ておいで。
大丈夫。君に危害を加えるつもりはないよ」
穏やかな表情で微笑みながら僕を本棚の裏から出るように促した。
なんだろ、自分の顔した人間、いや半馬人に言われると
妙な気分になってしまう。
しかし、見たところ草原でみた半馬人や兵士たちのような
凶暴さや敵意などはまったく感じられなかった。
おそるおそる本棚の後ろから出ると
促されたソファへそっと腰を下ろした。
「こんな姿じゃ驚くのも無理ないね」
またふわりと彼の体全体に光が生まれたかと思うと
次の瞬間、彼は人の姿に変わっていた。
上半身も下半身も、全てが人間そのものの姿をしている。
はぁ…
思わずため息をつく。
本当に一体なんなんだ?
テーブルを挟んだ反対側の席に彼も座った。
そしてにこりと微笑む。
「お茶でよかったかな?」
「え?…あ…はい…その…」
お構いなくという言葉をこの後つけるべきかと悩んでいると
それよりも早く顔を上げて少し大きな声で言った。
「アキレス、お茶を」
すると僕の背中のほうから扉が開く音がして誰かが
カチャカチャと食器の音をさせながら近づいてきた。
やがてテーブルの前にお茶と果物が並べられた。
給仕の顔をそっと見上げ思わず声を上げた。
「入間!!」
先ほど僕を牢屋から助けてくれたその人物、
入間が立っていたのだ。
僕の顔をみて入間はまたにこりと微笑んで見せると
仕事を終え、また部屋の外へと出て行った。
呼び止めようとしたのだがそれを僕のそっくりさんが手で制してとめた。
「どうやら彼のことが気に入ったみたいだね?」
お茶をどうぞと進められたので
仕方が無くいただきますといって一口カップに口をつけて飲んだ。
!!
「おいしい!!」
「お口にあったようで何よりだよ」
いや…しかし…これは…
この味は…!!
「カモミールティーだよ」
にこりと微笑んで僕の疑問への答えが述べられた。
驚いて顔を上げる。
「君が持ってきたのとほぼ同じもののはずだよ」
なぜ僕がカモミールティーを持ってきた事をしっているのだろうか?
味はあの少女しか知らないはずなのだが…。
「私の名前はイネ=ノ」
やっとのことで僕のそっくりさんは名前を述べる。
イネ=ノ?
そういえば兵士たちが僕の事を最初そう呼んでいた。
そこで気がつく。
そうか…顔が似てるからこのイネ=ノって人と僕を間違えたんだ…
「君が射川竹人君だね。話は聞いたよ。いろいろと大変だったみたいだね。」
思わず大きくため息をついてしまった。
やっとこの世界で僕の見方が現われたような気がしたからだ。
「もう君に危害を加えるやつはいないよ。ゆっくり肩の力をぬいて大丈夫さ」
イネ=ノはにこりと穏やかな笑みを強めて見せた。
しかし…本当に僕に似ている。
いや、僕そのもののような気がした。
声は僕より気持ち低いような気がしたがそれでも
やはり姿かたちは僕そのもののような気がした。
あまりにもじろじろと見すぎたせいかイネ=ノはティーカップを口に運ぶのを止めて
僕を優しく見つめた。
「君が戸惑うのも無理ないだろう。だがどこから話すべきか少々悩んでいてね。
君をなるべく動揺させたくはないのだが…」
カップをソーサーへと置く。
「なにか君から聞きたい事はあるかい?」
僕もイネ=ノについでカップをソーサーに置いた。
「あの…ここはどこなんですか?」
「ここは…君の世界で言うと、射手座ってわかるかい?」
「はい?…射手座…って星座のですか?」
ちなみに僕も射手座生まれだ。
「そう。この世界は君らの世界で言う星座の世界そのもの、なんだ。
それぞれの星座には守護神がいて星を守っている。
そして今いるここが射手座になるわけだ。」
「え…」
言葉を失う。
ファンタジーの世界はまだまだ続いているようだ。
「ちょっと信じがたいかもしれないが残念ながらこの世界では
これが現実なんだ。
僕から言うと君たちの世界の方が信じられないくらいだよ。
これでおあいこって事にしておこう。」
「僕のいる世界を知っているんですか?」
「ああ…違う次元に存在する世界。
その世界にはいくつもの神がいてそれぞれの信仰対象者の拠り所になっている。
だが実際に姿を現す事はなくこの世界から比べるとかなりあいまいな存在だね。
君の世界は人類が惑星の中心的存在となりさまざまな発展を遂げている。
かなり興味深いね。」
「この世界では神様は実在しているんですか?」
するとイネ=ノはまたにこりと微笑んで見せた。
「そうさ。それは現に今、君の目の前にもいる」
「え?……まさか…あなたも神様なんですか?」
「“イネ=ノでいいよ。そう。僕は射手座を守護する神として存在している。」
思わず言葉を失う。
正直その話を完全に飲み込むには少し時間がいりそうだ。
それに、神様ってそんな簡単に人の前に姿を現していいものなんだろうか?
なんとなく神々しさがなくなってしまうような気がした。
だが先ほど半馬人から人の姿に変わったり…
そういうのは神だからこそ成せる業なのかもしれない。
「あの…僕はもとの世界に戻る事はできるのでしょうか?」
この世界にきて一番知りたかった質問だ。
「そうだね。君は帰るべきだ。
だが私一人の力ではどうにもできない。
君に会わせたい人物がいてね、その人物が君の事をいろいろと教えてくれたのも事実なんだ」
「え?」
「君がくるのを僕は前もって知っていた。
これに見覚えがないかい?」
イネ=ノの手のひらに光が生まれたと思うと次の瞬間、
中からふわりと一羽の蝶が現われた。
「あ!」
この蝶は!!
一番最初、この世界へ来たときに会った蝶だ!
ガラスのように透き通った桜色の羽。
間違いない。
「君がこの世界に来る事を知ってね、この子に探させたんだ。
うまく君を見つけることができたんでね、周辺の町に
記憶喪失になった僕がいるから保護して宮殿につれてくるように伝えたんだ。
途中うまく話しが伝わってなかったみたいで君をひどい目に合わせてしまったね。
そこは申し訳なく思うよ」
「いえ……そうだったんですか…」
神様が記憶喪失でその辺を歩いている…なんて突拍子も無い…。
「たしかにちょっと無理のある筋書きではあったけれどね、
残念ながら小さな村で僕の顔を知っているのは兵士ぐらいだからね。
神宮の者がいればよかったのだが土地が広すぎて全てを
管理しきれないのが現状でね、少々情けなくもあるがなんとか君を見つけることができて
ほっとしているところでもあるよ。」
「あ…そういえば」
そういいながら僕は左手の小指にはめてある指輪を見せた。
「この世界に来たらいつのまにかこれが指にはまっていたんです。
兵士や村人たちがこれをみて何か言っていました。
これは一体なんなんでしょう?」
「ああ、これね」
そういいながらイネ=ノも左手を差し出した。
小指には僕とまったく同じ指輪がある。
「左手小指に指輪をはめるのは神、もしくは神宮、つまり神の使いである事を指している。
石の付いている指輪が神、石の付いてないものが神宮、つまり神の使いである事を示しているんだが、
村人はそこまで詳しく知らなかったんだろう。君を神宮と勘違いしたみたいだね。
さすがに兵士は知っているはずだから君を拷問にかけたときそれに気づいて
かなり焦ったみたいだよ。
まさか自分が神様を拷問にかけてるなんて夢にも思わないからね。」
それで指輪にあんなに反応してたんだ。
「あ、でもちょっと待ってください。僕は神様でも神様の使いでもなんでもないのに、
なんで指輪をしているんですか?」
「そこなんだよ。射手座守護神は僕一人しか存在しないはずなのに
もう一人、異世界から同じ指輪をしたものが現われた。
何故だろうか。それを僕も知りたくてね、君をこうしてここへお連れした訳なんだ。」
そうだったのか…
イネ=ノも全てがわかっていたわけではなかったんだ…。
少し愕然としたがとりあえず身の安全が確保されただけでも
この場はよしとしておいたほうがよさそうだ。
「明日、君の事を話してくれた人に会いに行くから君にも一緒に来てほしいんだ。」
「え?あ…はい…」
「その人は蠍座守護神でね、予知能力がある。
君が来ると予知して僕に教えてくれたんだよ。」
「予知能力…」
少し神様めいて来たような気がした。
「あ…じゃあ…あなたにはどんな力があるのですか?」
手のひらで蝶を遊ばせていたイネ=ノは僕の質問ににやりと口の端で笑って見せた。
「医術だよ。
人や神の病を癒す力を持っている。
だが君にもどうやらその力があるようだ。
その楽器でね」
イネ=ノの手のひらの中で遊んでいた蝶はふわりと舞い
僕のバイオリンケースの前まできてその周辺をひらりひらりと
飛び回った。
「どういうことですか?」
「最近君が現われた村周辺で奇病が発生していてね、
強い精神的ショックで心が壊れ失明する病気さ。
君も患者に会っているはずだよ。
瞳の色が黒く変化しいずれは失明し心も壊れてしまう。」
“心が壊れる”…。
メグサや女の子も同じ事を言っていた。
「あの…心が壊れるって…精神崩壊みたいなものですか?
村でその病気の話を聞いたとき“心に強い痛みが生じる”って聞きました。
それはどういうことなんでしょう」
蝶が舞った。
ひらりひらりと舞いながらやがて僕の飲んでいたティーカップのソーサーまで来てとまった。
「君の世界とはいろいろと勝手が違うみたいだ。
君の世界では“心が壊れる”という表現はまた違う意味みたいだね。
こちらでは、肉体が滅びるのと同一なんだよ。
心が壊れる、つまり肉体が滅びてゆく恐ろしい病気なんだ。
体の感覚が徐々に麻痺しまず第一症状として笑顔を失う。
次に全ての表情を失い寝たきりになる。
やがて末期になると瞳から脳内にあった全ての記憶がこぼれだし
失明し心、つまり体が腐り、最後死に至る。」
そんな…
そんな恐ろしい病気だったのか。
じゃあ…メグサのお母さんはかなりひどいところまで病状が進んでいたことになる。
「新宮の者たちに調べさせていたんだけどね、なかなか難しい病気で
簡単には治せない。
それを君は楽器一つで糸も簡単に治してしまった。
やはり僕らが瓜二つなのと言いその指輪といい何か関係していると思わざるを得ない。」
「あの…僕の世界でこのバイオリンを弾いても病人は完治しません。
音楽療法のような事はやっていましたが気休めにすぎません。
なのに、なぜこちらの世界だとそんな力が出るのか、僕にもよくわかりません」
「だろうね。君がこの世界にいるというだけでも信じがたいというのに。
いや…はじめてなんだよ。
異世界から誰かが渡って来ただなんて僕は生まれてこの方一度も耳にしたことが無い。」
「そういえば…あの……、金髪で緑色の瞳をした白人男性に心当たりはありませんか?」
「え?」
「この世界に来る直前、その人に出会って道案内されたんです。
その道をたどったら、気がついたらこちらの世界に来ていました。
もしかしたら何か関係があるのかもと思ったのですが」
「うーん…金髪緑眼の白人男性といわれても…この世界にはそのような者が大勢いるからね…
特定は難しいかな」
「そうですか…」
確かに情報が少なすぎたかもしれない。
「その話も後でキク=カの前、おっと失礼、蠍座守護神の名前がキク=カというのだが
彼の前でも話してもらえるかい?」
「はい。わかりました」
僕は素直に返事をするともう一度カップに口をつけた。
一口飲む。
「あ、そういえば、どうして僕がカモミールティーを持ってきた事を知っていたんですか?
村であった女の子以外誰にも話していないのに。」
「キク=カから一通り聞いたんだよ。
変わった名前の飲み物だなとは思ったんだが、花の種で作るお茶のことだったんだね。
キク=カのところにたくさん植物があってたまたま似たような品種の花があったんだ。
それでお茶を淹れさせてみたんだよ」
「そうだったんですか…とてもおいしいです。」
にこりと微笑んで見せた。
そのキク=カと言う人物、かなり強い力を持っているようだ。
これならもしかすると本当に元の世界に戻れるかもしれない。
「そうだ…」
そう言ってイネ=ノは席を立ち上がりクリスタルガラスのテーブルの前まで
歩いてとまった。
バイオリンケースに手を置いて言う。
「僕も一度この音色を聞いてみたいんだけど、
演奏してくれないかい?」
「え?ああ…はい。」
そう言って立ち上がると
バイオリンケースのところまで行く。
あれ?
そこで気がつく。
僕よりもイネ=ノのほうが頭1つ分以上背が高かったのだ。
にこりと微笑むイネ=ノ。
思わず僕もつられて微笑んで見せた。
ケースを開ける。
「おお…なんと美しい」
渋い琥珀色のバイオリンを見てイネ=ノが声を上げて喜ぶ。
「これはバイオリンという楽器です。」
ケースから取り出し持ち上げて見せた。
肩当てを本体に取り付け弓を出し構える。
「どういった曲がお好みですか?」
すると少しだけイネ=ノは首をひねって考え込むポーズをしてみせた。
「そうだなぁ…じゃあ病人の前で弾いたという曲を聴いてみたい」
そこで僕はメグサの母親の前で弾いたタイスの瞑想曲を演奏し始めた。
穏やかに、緩やかに
旋律は弦の上を流れるように走る。
窓からこぼれる日の光が音色にかき混ぜられるようにきらきらと反射しているように見えた。
その中を音色にあわせて蝶が舞った。
なんと水彩画のような幻想的な景色なのだろう。
僕は思わず演奏しながらその淡い景色に見とれていた。
やがて4分ほどの曲が静かに終わる。
弾き終わり弓を下ろす。
イネ=ノはいつの間にソファの肘掛に腰を下ろして
とてもうれしそうに目をキラキラさせながら座っていた。
「すばらしい…!!
なんて優雅な音色なんだ!
そのような音色は初めて聴いたよ!!神玉の指輪をしているだけはある。
やはり君は選ばれし者だったんだ!」
「あ…有難うございます。」
そこまでほめられるとさすがに恥ずかしくて照れてしまう。
「良かったら弾いて見ますか?」
そう言ってバイオリンをイネ=ノの前に差し出して見せた。
「いいのかい?」
「はい」
返事をしながらイネ=ノに簡単なバイオリンの構え方を教えた。
「そうです、はい、弓はこう…手首をもうちょっと内側に向けて…
はい、そんな感じです」
「ほほう…これでここをこすればいいんだね」
「はい。」
イネ=ノがバイオリンを構え
弓を弦に引っ掛けてみせた、
と次の瞬間、
いきなりタイスの瞑想曲を弾きだしたではないか。
たった今、生まれて初めてバイオリンを構えたばかりなのに
いきなり曲を弾けるなんて?!
途中まで弾いてイネ=ノは手を止めた。
「なるほど…非常に面白いね」
「……すごい…なんで…」
僕が驚いているとイネ=ノは目を細めて笑って見せた。
「言い忘れてたね。僕は医術をつかさどっているが音楽もそれなりにね」
とウィンクしてみせた。
イネ=ノはその後、暫くバイオリンを手に取り斜めにしたり
裏側を向けたりしながら眺めていた。
「なるほど…この楽器は多くの人の心を癒してきたんだね。
だからあのような業に力を貸すことができたのかもしれない」
「え?」
「今このバイオリンが教えてくれたよ。君のお父様やお爺様の事、
君がどれだけ一生懸命練習したかもね。」
「そ…そうなんですか…」
すごい…楽器と会話ができてしまうのか…。さすがは神様である。
「ああ…そう言う事か…。」
またイネ=ノはニコニコと笑って見せた。
「イルマ君というんだね?君の友達は」
「え?!そんな事までわかっちゃうんですか!!」
「だからアキレスにあんなに反応していたのか。
アキレス!」
そう言って扉のほうに声を掛けた。
すぐに扉が開きアキレスがやってくる。
やっぱり入間と瓜二つだ。
ただ服装がヨーロッパの貴族みたいな立派過ぎるものなのでなんだか入間にしては
かっこよすぎる。
僕の知っている入間よりも少し凛々しい顔付きをしていた。
「お呼びでしょうか、イネ=ノ様」
「ああ、紹介するよ。
彼は僕の弟子のアキレス。
アキレス、こちらは先日話した異世界からのお客様だよ。
射川竹人君。やはりキク=カが言っていた事は本当のようだ。
アキレス、君のおかげで彼を救うことができた。
改めて感謝するよ。」
イネ=ノの言葉にアキレスは一度軽くお辞儀して見せた。
「はじめまして、タケト様。私はアキレスと申します。
何か必要なものや困ったことなどございましたら遠慮なく私にお申し付けくださいませ。」
そういって軽く頭を下げて見せた。
「あの…先ほどは有難うございました。おかげで命拾いしました。」
「いえ…通達を無視した兵士たちが悪いのです。
罰を与えたいと思います」
「え?いや…それは…」
思わず困惑する。
確かに酷い目には合わされたけど罰を与えるほどではないような気がした。
するとイネ=ノがにこりと微笑んでみせた。
「君は優しいんだね。君に権限をあげよう。どのような罰がいいかな?」
「いえ…あの……。
ああ…じゃあ今後から通達はちゃんと確認するようにって事でお願いします。」
イネ=ノとアキレスは顔を見合わせて笑いだした。
「さすがは…!わかったよ。そうしよう。
いやぁ、彼も泣いて喜ぶと思うよ。
話によると君に極刑を言い渡されると思い込んで体重が激減したって
聞いたものだからね。」
思わず苦笑いをして見せた。
確かに首をつられそうになったり頭を踏みつけられたりはしたが
一度は通達を受けて僕を宮殿近くへと連れてきてくれたのだ。
それに最後には分かってくれたみたいだし…。
別に何かの刑を与える必要は無いだろうし僕は人を裁けるほど偉くはない。
「そうそう、竹人。明日キク=カに会ってもらおうとは思うのだがそれまで
時間がある。君の世界とは時間の流れ方も違うようだ。
君の世界での一日はこちらでは三分の一、つまりこちらでの一日は
君の世界で三日間たつのと同じ長さだ。
だから時がたつのを長く感じるだろう。
どうだろう、明日まで時間があるから君の世界の事をゆっくり聞かせてはもらえないかい?」
再びソファに戻り腰を下ろすとイネ=ノは僕を見据えながら微笑んで見せた。
どうりでなかなか日が落ちなかったわけだ。
そうか…時間の流れが違っていたのか…。
「わかりました。ぼくの中でお話できる範囲は限られていますがそれでもよければ」
僕もソファに腰を下ろす。
アキレスは一礼すると
僕の肩の上に止まっていた蝶と一緒に部屋を出て行った。
-3-
気がつくと部屋はオレンジ色の光に包まれていた。
体には柔らかで暖かい布がかけられている。
どうやらいつの間に眠ってしまったようだ。
イネ=ノの姿はない。
あれからずいぶんと話した。
僕の生まれた町、国、世界、文化、文明、友達や家族のこと、学園生活や今勉強している内容など…。
自分が生まれ育った世界を語るなんて慣れなくて最初はぎこちなかったが
だんだんとそれに慣れ、最後のほうはまるでプレゼンでもしているかのように
順序だてて気持ちよく話せていたと思う。
だがやはり体がこの世界の時の流れとは違うせいか、時間がたつにつれ
疲労感を覚えていった。
不思議とおなかは空かなかったが
眠気には勝てなかった。
イネ=ノの世界の話を聴こうとしたところで記憶は途切れている。
さすがに失礼だよな…
気を悪くさせたのではないだろうかと思ったが
そのイネ=ノの姿はない。
「タケト様、お目覚めですか?」
タイミングよくアキレスが部屋に入ってきた。
「ああ…ごめんなさい。どうやら僕眠ってしまったようで」
「良いのですよ。慣れぬ場所でお疲れでしょう。
どうぞゆっくりと体を休めてください。」
最初はあまりにも入間にそっくりで驚いたが立ち振る舞いがぜんぜん違う。
気がつくとアキレスが入間とは別人格の持ち主である事を認識できていた。
「食事はどういたしましょう?」
「ああ…なんだろう…この世界に来てから一度も食事してないんだけど
なぜか、おなかが空かないんだよね…」
「お茶を召し上がったからでしょう。イネ=ノ様が体を気遣ってお茶の中に
体力が回復する魔法をかけておられましたから」
「魔法?」
思わず小首をかしげる。
「はい。回復魔法でございます。
イネ=ノ様の得意技の一つですよ」
そういって大人びた笑顔を見せた。
やっぱり入間はとは別人だ。
改めてそう思った。
「そういえば…イネ=ノは?話している途中で僕、眠ってしまったみたいで…
怒ってなかったかな」
「大丈夫ですよ」
フフフと笑いながらアキレスは両手をオーバーに広げて見せた。
「あのお方が怒るなどよほどのことが無い限りありえないでしょう。
大丈夫です。ご心配は無用ですよ。
イネ=ノ様は仕事のため少々席をはずされていますがもうじき戻られます」
「そう…良かった…じゃあ…イネ=ノが戻ってきたら一緒に食事したいな」
「かしこまりました」
にこりと微笑み一度頭を軽く下げた。
「そう…竹人様に一つお話しておかなければならないことがあります」
突然声のトーンが下がる。
「…何?」
「実は、竹人様の存在はイネ=ノ様と私しか知りません。
もし異世界からイネ=ノ様そっくりの異邦者がやってきたと他の者にわかったら
大騒ぎになります。
ですのでどうかこの部屋からお出にならないようにしていただきたいのです。
もちろん、何か不自由なことがありましたら遠慮なく私めにお申し付けください。」
「え…ああ…そうなんだ。分かったよ」
僕がにこりと微笑むとアキレスは安心したように小さなため息をついて
では、と挨拶して部屋から出て行った。
そうか…だから…
村で僕を探すとき、記憶喪失のイネ=ノって事にしなければいけなかったんだ。
言動が怪しくても記憶喪失だからって事で済むし…。
両手を天井に向けて思い切り伸びをしてみせる。
これだけ広い部屋に窮屈さなんて感じないし
一通りのものは全て揃っている。
不自由なんてない。
両手を後ろ手で組んでゆっくりと部屋を見回しながら歩いた。
本棚の前まで来て止まるとその背表紙を眺める。
ぜんぜん見たことの無い言語だ。
なんて書いてあるのだろう。
一冊手に取った。
意外と重い。
テーブルによっこいせと置いてみせると
ハードカバーの表紙をめくって見せた。
と、突如本の中から柔らかな光が生まれた。
甘い香りがする。
一体なんなんだ?
目を細め光の正体を探すと、
本の中でふわりと花が咲いていた。
え?!
さらりと優しく風になびきながら花が美しく咲いている。
なんだこれ?!
そっと手に触れてみると
紛れもない、本物の花の感触を受けた。
花の下に呪文のような文章がびっしりと現われる。
これは…
本物の花に触れられる百科事典?!
なんて不思議な…。
ページをめくるたびに新しい花に触れることができた。
どれも真新しいものばかりかと思いきや
意外と道端にさいているのと同じような素朴な花もあったりで
かなり楽しい。
じゃあ…他の本もこんな感じなのかな?
楽しくなって花の百科事典を閉じて本棚に戻すと
いかにも重そうな大きな本を引っ張り出す。
これは何の本だろう。
ページをめくる。
突然本の中から突風が吹き荒れた。
嵐が生まれ豪雨が飛び出し雷の稲妻が光った。
「うわぁっ!!」
慌てて本を閉じた。
しかしときすでに遅く服も髪も、テーブルの周りもびしょぬれである。
あーあ…。
何の本だったのかは分からないがこれは外れだな…。
そうか…こんな危険な物もあるんだ。
気をつけなくちゃいけないな…。
ソファに置いてあったひざ掛けのような布を持ってくると
テーブルと体、そしてその本を拭いて本棚に戻した。
と…一瞬にして水が蒸発するように輝いたかと思うとあっという間に
消えてしまった。
なんて凄い…。
思わず息を飲む。
面白いなぁ…いつかみた魔法学校映画の小道具に出てきそうだ。
そうだ…外はどうなっているんだろう。
小走りで窓のほうへ走り寄った。
茜色のガラスの向こう側を覗く。
ん?
巨大な半円形の窓の外にはテラスがあり、その先には美しい花が咲き誇る広大な庭があった。
とにかく広い。
ちょっとした森林公園くらいの広さはあるんじゃないかと思わせるほどだ。
どちらかというより木よりも花がメインで
あちこちに道がありベンチがあり噴水のようなものがあり…。
昼間明るくなったら散歩してみたいほどに美しかった。
全てが夕日の美しい橙色に染まっている。
少しまぶしい。
と、そこまでは理解できるのだが、
その庭の先に目線を移動していくと
違和感を覚えずにはいられなかった。
庭が船のデッキのように先端がとがった形になっていて
その先は夕焼け空が続いていた。
よほど高い場所にこの建物があるのだろうか?
それにしても地上が見えない。
ここからでは遠すぎてよく見えないが、
まるでこの建物が宙に浮かんでいるようなそんな感覚を覚えた。
いや…もしかして…。
窓をあけベランダに出てみる。
11月の冬のような冷たい風が吹いていた。
それほど強くは無いがやはり寒い。
この地はもともと気温が低いところなのだろうか…。
ベランダから乗り出してみるがやはり庭の外側を確認する事は出来なかった。
ただ、この寒さだというのに花たちは健気に夕日の光を浴びながら咲き誇るその姿が
なんともいとおしく切なかった。
「庭の景色はどうだい?」
後ろで声がしたので振り返った。
トレンチコートのようなものを羽織ったイネ=ノが立っていた。
「おかえりなさい」
そういいながら部屋の中に入り窓を閉めた。
「見ていてもいいんだよ?」
言いながらコートを脱いだ。
「ありがとう…あの…さっきはごめんなさい、話の途中で…」
僕の言葉が終わらないうちにイネ=ノはにこりと微笑みながら言った。
「いいんだよ。相当疲れていたみたいだしね。
今夜もゆっくり眠るといい。」
その言葉にほっと安心する。
「綺麗な庭だね。花がすごいなぁ…」
「ありがとう。キク=カからもらった種をまいたらたくさん咲いてくれてね。
僕としても嬉しいよ。
あ、そうそうキク=カがぜひ君に会いたいって。これおみやげ」
そういいながら小さなえんじ色の巾着を僕に手渡した。
どうやらキク=カのところへ行っていたらしい。
「開けてもいい?」
上目遣いでイネ=ノの表情をみた。
にこりと微笑みながらイネ=ノは頷いてみせる。
なんだろう…
そっと巾着の紐を解く。
手のひらにそれを出してみると
キラキラと雪の結晶のように光の粒がこぼれ出た。
「わぁ…」
思わず声を漏らす。
なんて綺麗なんだ…。
クリスタルガラスでできた金平糖のようなものがたくさん入っていた。
「これは何?」
「光花の種だよ。植えればすぐに花をつけるんだ。
君が元の世界に戻るまで少しだけ時間がいるようだから
その間に退屈しのぎにって。」
「光花…。どんな花が咲くんだろう。楽しみだなぁ」
聞いたことのない名前だが
こんな綺麗な種だ。
きっと見たこともない美しい花を咲かせるのだろう。
「明日庭に撒いてみよう。二日か三日くらいで開花するらしいよ」
「え?!そんなに早いの?」
ニコリと微笑むイネ=ノ。
何から何まで…本当にこちらの世界と僕のいた世界とでは勝手が違うようだ。
「そうだ…庭をみていたんだけど…庭の先はどうなってるの?」
ベランダで感じた疑問をイネ=ノに問うた。
「ああ…ここね、浮いてるんだよ」
「へ?」
イネ=ノがあまりにもさらりというので一瞬理解できなかった。
「浮いてるって?」
「この宮殿は空に浮いてるんだ。
だから一般人は中には入れない。
兵士たちも宮殿入り口の門のところまでしか来れないんだよ。」
え?
兵士たちに連れて行かれてみたあの立派な建物が宮殿かと思っていたのだが
あれは、ただの門にすぎなかったのか。
「さぁ、食事にしよう。私の部屋においで」
「え?!ここ、イネ=ノの部屋じゃなかったの?」
「違うよ。君の部屋さ」
「…僕の?」
「好きに使って良いから。何か足りないものとかあったらアキレスに言えばいい。
この部屋の向こうに待機するように言ってある」
「え…あ…。いいの?こんな広い部屋」
「ははは…気を使わなくて良いんだよ。せっかくなんだからゆっくりするといい。
庭も君専用だよ。好きに散歩してくれてかまわない」
「はぁ…」
驚きのあまり言葉を失う。
さすが宮殿クラスになるとこんな広い部屋を用意するのも簡単なことなんだろうか。
「さぁ、こちらへ」
そういいながらイネ=ノは僕に手を差し出した。
僕はその手をそっと受取る。
イネ=ノの手は僕よりも少し温かい。
と、次の瞬間
気がつくと僕は別の場所にいた。
今までいた部屋じゃない。
広い温室のような部屋…。
巨大な円形型の部屋の中にたくさんの植物があって噴水からは綺麗な水が溢れ出していた。
壁はガラス張りで夕日の光がきらきらと差し込んでいる。
照明は光るガラスの玉のようなものがあちこちに浮いていた。
村で見た道化師の光る玉を思い出したがそれよりも
光り方が自然で優しい。
「ここ…」
「ようこそ、私の部屋へ」
「え?ちょ…ええ?!だって…どうやって?」
すると何も言わずイネ=ノはにこりと微笑むだけだった。
思わずため息をつく。
何が何だか…。
分からないことだらけの世界。
何もかも慣れない。
ただただ驚きの連続でしかなかった。
そして、このイネ=ノの部屋も例外ではなかった。
たくさんの見たことも無い美しい花がある。
花壇のようなものに植えられているのもあれば
ガラスの球体の花瓶に植えられていて、宙をふわりと浮いていた。
何かで天井から吊っているのではなく本当に浮いてる。
部屋の奥はちょっとした理科室のようになっていて
実験道具のようなものが並んでいた。
本棚もある。
きっと開くと何か不思議なことが起こるに違いない。
「…すごい」
部屋は花の甘い香りでいっぱいだった。
「イネ=ノは花が好きなの?」
「いや…これは薬に使うんだよ。
君の世界でもそうだろ?」
「え?ああ…そうか…」
「ここは僕の仕事部屋なんだけど、憩いの場でもあるかな。
綺麗な花に囲まれていると本当に心が和む」
そういいながらイネ=ノは部屋の中央にあるテーブルにより掛かってみた。
「どう?」
「いや…どうって…すごいとしか…
なんていうか、本当に不思議だよ。花が宙を浮いてるし
水の色は宝石みたいに七色に光ってるし…
僕の世界じゃありえない…
綺麗だ…」
有難うと礼をいうとイネ=ノは椅子に座りながら
僕にも座るように促した。
「失礼します」
アキレスが食事をもって現われた。
テーブルにそれらが並べられる。
すごい…どれも見たことの無いものばかり…いや
村のテントに並んでいた野菜もあった。
何から何までこの世界では信じられない事や不思議な出来事が次々と起こる。
神々しくも美しい、そんな不思議な世界に僕は迷い込んでしまったのだろうか?
色々と考えたかったが
ここはとりあえず
いただきますと手を合わせてフォークを手に取った。
-4-
夕食はどれも大変おいしいものだった。
採れ立て野菜をソテーしたものや煮込んだものなど
野菜が多く使われている。
元の世界ではあまり好んで野菜を食べなかったが
こちらの世界の野菜は自然な甘みや新鮮な食感があって本当においしい。
味付けはシンプルだが素材そのものがおいしいので箸、いやフォークが進む手が止まらなかった。
食後に、花びらから抽出した花のエキスと蜜を合わせた、
いわば花のジュースのような甘い飲み物を飲んだ。
「そうか…僕が君の世界に行ったら弟さんの病気を治してあげられるのに…」
「いや、イネ=ノだったら世界中の人の病気を治せちゃうと思うよ。
イネ=ノは神様なんだから病気を治すだけじゃなくてもっと色々できるんでしょ?」
「それは…まぁ…でもそれはタブーなんだけど」
とイネ=ノは少し残念そうな顔をしていった。
タブー?
「イネ=ノはこの世界での病人たちを治療して治しているんでしょ?
同じことだとは思うけど。」
「いや…神と言えども行動は制限されているんだよ。
僕の上にさらなる権力をもつ、大神というのが存在していてね、
大神の怒りに触れると神ですら命を落とす。」
「……タブーってなに?」
イネ=ノはグラスをテーブルに置いて僕の顔を真っ直ぐに見つめて見せた。
「死人を生き返らせることだよ。」
「…え?…」
そんな事が出来るのか?
まずそのことに驚いた。
「どんなに優れた力を持っていてもそれが道から外れてはいけないってことなのさ」
イネ=ノはなにかしら残念そうにグラスに入ったジュースをうつむき加減で見つめた。
長いまつ毛が妙に色っぽく見える。
「そうだ…キク=カってどんな人なの?」
なんとなく話を逸らしたほうが良いような気がして気を使って見せた。
「キク=カ?ああ…キク=カね。」
にこりと笑顔が戻るイネ=ノ。
だかどこかしら陰りがあるようにも見えた。
「そう。会う前に話をいろいろと聞いておきたいな。」
僕も笑顔を作って見せた。
いいよ、と頷くとイネ=ノはジュースを一口飲んだ。
「キク=カ。蠍座守護神という名の通り蠍座を守護する神さ。
僕とは違って純粋に花や植物が好きでね、明日案内するけれどそれこそ
キク=カのところは花でいっぱいさ」
これ以上?
このイネ=ノの植物園よりも花がたくさんあるというのか?
思わず驚いてみせる。
「ただ体が弱くてね、僕が主治医みたいな事をしていて…
実は先ほどもキク=カの様子をみてきたところなんだ」
「神様でも病気になることがあるんだ…」
「ああ…それは…」
イネ=ノが微笑んで見せたが辛そうに見えたのは…たぶん気のせいじゃない。
「で、そのキク=カは予知能力があるって…僕がここに来るのも予知したんだよね」
「そう。自分が希望することなら彼は何でも予知することが出来るらしい。
ただ…」
そこでイネ=ノは言葉を切った。
どうしたんだろう。
さっきからなんだか辛そうだ…。
そこでふと思う。
神のタブー、キク=カの病気、予知能力…
もしかして…
「あの…僕が帰る方法も知っているんだよね?」
「え?…ああ、そうだよ。」
「どうやって帰るの?僕は正直どうやってこの世界に来たのか分からないんだ。」
「中心宮へ行くって話しだったよ。」
「中心宮?」
「星々の中心にある宮殿、って言ったらいいのかな?
光を吸い込み、また光を生み出すところがあって場所で
たまに次元にひずみが生じることもある。
それをうまく利用すれば帰れるとキク=カは言っていたが…」
何だろう…
光を吸い込むと聞いて真っ先にブラックホールを思い描いた。
だが、光を生み出すというのはどういうことだろう。
呼吸するみたいに光を吸ったり吐いたりしているのだろうか?
「すまない。少し疲れてしまったみたいだ。
竹人も今夜はゆっくり休んでくれ。
明日は少し遠出をするから…」
そう言ってイネ=ノはすっと席から立ち上がると背を向けたと思った瞬間
ふわりと姿が消えたではないか。
え?!
次いでお休みの言葉が降ってきた。
気がつくと僕はイネ=ノの返事をする前に
自分の部屋に立っていた。
どうしたんだろう…仕事で疲れたのかな?
キク=カのところまで行くのに少し遠いと言っていた。
その少し遠いところに先ほど往復したということだから…
神様が少し遠いという表現を使うんだ。
きっとかなり遠いんだろう。
それにしても不思議な世界である。
神様も病気になったり疲れたり…大変だな…。
-5-
そのあと巨大な温泉のようなところへアキレスに案内された。
場所は僕が割り当てられた部屋の庭にあった。
最初は大きな噴水かと思っていたのだが水を触ってみると温かかった。
日は当に暮れ空には満点の星々が輝いている。
庭のあちこちには小さなランプのようなものが光っていた。
「いや~…やっぱりお風呂は気持いいなぁ~」
思い切り手足を伸ばして見せた。
お湯はイネ=ノの部屋にあった噴水の水のように、
揺れるたびにきらきらと7色に輝く宝石のようだ。
アキレスはごゆっくりと言って着替えとタオルを置くと
気を使ったのか部屋の外へ出て行った。
ひらりと花びらが舞った。
それが湯船に一枚おち、水面に弧を描いた。
綺麗だなぁ…。
ここは何を一つとっても芸術的というか、
日の光といい花といい風といい水といい、星空といい、
どれもこれもが美しい。
はぁ…。
ため息をついて顔を洗った。
なんだかんだでこの世界と現代の時間の違いも含めて
少なくとも3日以上はお風呂に入ってないことなっている。
やっぱりお風呂は癒しになるなぁ。
そしてイネ=ノの事を考えた。
夕食後急にテンションが低くなったこと…。
タブーの話をしてからだ…。
キク=カの病状が思わしくないのだろうか?
だからもしものときは…
でもそれはタブーだから出来ない…
そういうことなのだろうか?
あくまでこれは僕の勝手な憶測に過ぎないのだが。
とにかく、明日本人に会えば分かるかも知れない。
予知能力のある神様…か…。
考えてみるとそれも不思議なものである。
たとえば僕の世界のキリスト教やユダヤ教でいう創造主は
世界や動物や人類を作り上げた。
予言よりも実行型の神様だ。
それに比べて予知能力…。
そういえば神様の上にさらなる大神というのがいると言っていた。
ここが星座に基づく世界ということはギリシャ神話?に沿っている?
だとしたら大神とはゼウスのことだろうか?
あまり詳しくは無いがたぶんそうなんじゃないだろうか…。
ああ…
携帯が使えたらネットで調べられるのに…。
空を仰ぐ。
今まで見たことの無いような
たくさんの星がまるで光の花園のように瞬きながら輝いている。
「綺麗だな…」
よくわからないことだらけの世界だが
もうじき帰ることができるようだ。
短い間だけどたくさんあったなぁ…。
この世界に来てからの事を思い出す。
広大な草原、半馬人、ガラスの蝶、不思議なものをたくさん売っている市場、
病に冒された女の子、メグサやお母さん、兵士…、
そしてイネ=ノ。
元の世界に戻ったら
この指輪も消えてなくなってしまうんだろうか。
左手でひかる小指の指輪を見つめた。
いつの間にか僕の指にはまっていたこの指輪のおかげで
大冒険できたよ。
皮肉っぽく笑って見せた。