第三章:異なる世界
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あれから一体どれくらいの時が流れたのだろうか…
木々のざわめきが心地よすぎてずいぶんと眠ってしまっていたのではないだろうか。
気がつくと僕は林の中で仰向けになって倒れていた。
風に揺れる木々の枝葉の向こう側には透き通った青空が見えていた。
地べたに直接横になっていたからだろうか、体に寒気を覚えた。
ゆっくりと体を起こす。
少し頭がくらくらする。
一体どうしたと言うのだろう。
ちゃんと朝食と昼食を摂らなかったから貧血でも起こしたのだろうか?
だとしたら人生で初の体験をした事になる。
貧血で意識を失うなんて…。
自分の体はそこまで柔だっただろうか。
ゆっくりと辺りを見回すと自分の周りを雑木林が取り囲んでいた。
日はまだ高くどうやらあれから大した時間は流れていないようだ。
携帯を開いて時刻を確認すると17時半を回ったところだった。
今からダッシュで行けばぎりぎりレッスンに間に合うかもしれない。
もう一度辺りを見回したところでその異変に気がつく。
あれ?
石像がない。
すぐ目の前にあったあの巨大な半馬人の石像がなくなっていたのだ。
おかしいな…
ここら辺にあったはずなのに…。
それともあの石像を見ていた時点ですでに意識が飛んでいたのだろうか?
夢だった?
まぁ…どうでもいい。
とにかく駅に向かわなくちゃ!
よっこいせと立ち上がると制服についた土を払ったが
真っ白なスーツについた土はなかなか汚れが落ちたない。
良く見えないがきっと体の後ろは悲惨なことになっているのではないか。
さすがにこれで電車には乗れないよな…。
なんとなく寒気を覚えながらもズボンのおしりを念入りにはたき
スーツの上着をぬいだ。
よし!
かばんの中にスーツを畳んで詰め込むとバイオリンケースも一緒に持ったところで
歩き出そうとした足がぴたりと止まった。
ないのだ。
先ほどまで歩いてきた石畳の道が。
な…なんだよ…一体どういうことなんだ?
石像といい道といい、どこへ消えてしまったんだ?
必死であたりをみまわすがそれらしきものを見つけることができなかった。
それに…5月だというのに…こんなに寒かっただろうか…。
風はそんなにないが空気自体が冷たい。
天気はこんなに良いのに…。
なんだか妙だ。
何かしらの違和感を覚えていた。
少し背中に寒気を覚える。
最悪バイオリンのレッスンは諦めてでもいいから
まずはこの林から出よう。
一度深呼吸すると荷物を持ち直し
木々が深そうなところはさけなるべく明るい道を選んで進むことにした。
正直石畳の道がないと本当に雑木林のワイルドな世界を制服で歩くのはきつい。
もう汚れなんて気にしていられなかった。
ただただひたすら林の出口を探して歩き続ける。
学園の敷地内の雑木林で迷子だなんてなんだか情けない。
だが歩き続けていればいつか何かしらの建物が見えてくるに違いないはずだ。
学園の敷地としては幼稚舎と大学棟、初等部、中等部、高等部を
ざっくりと四等分して、敷地のど真ん中には大きな時計塔がある。
いずれどれかしらの建物に遭遇するだろう。
でなければ学園の敷地をぐるりと囲む高い壁にぶち当たるはずだ。
壁を見つけたらそれを伝っていけば必ず出口が見えるに違いない。
やがて視界の先に林が途切れて開けた世界が広がっているのを見つけた。
やった!出口だ!!
走り出したい気持を抑え足場の悪い林の中を何とか進むと
林の出口の手前まで来て足を止めた。
林の出口に広がっていたのは
今竹人が立っている場所から緩やかに下るように広い、広大な草原が広がっていた。
思わず体が硬直し息を飲む。
……え?
こんなところ、学園内にあったっけ?
その草原は地平線の向こうまで続いているようだった。
草原のところどころにいくつか小さな小道が東西、南北に伸びているのがわかる。
大学にこんなでかい施設があっただろうか?
農学部とか何か?
いやいやいやいやいや、聞いたことないぞ、うちの学園にこんなのがあるなんて…。
いつだったか家族で北海道に旅行したときにみた景色にどことなく似ていた。
ただ富良野で見たパッチワーク畑の模様とは違い
一面が稲のような青々とした緑色をしていて風が吹くとその通り道が目で見てわかるほどの
美しい景色でもあった。
が草原の土に水は張っておらず稲ではないらしい。
草の高さは竹人の身長ほどある。
僕は頭でも打って夢を見ているのだろうか。
ためしに思い切り頬をつねってみた
「いた!!」
痛すぎる。やっぱり夢じゃないのか…。
草原に建物らしきものは見当たらない。
だが、道があるのだから人がいるのは間違いなさそうだ。
困ったなぁ。
ズボンポケットから携帯を取り出し開く。
あれ…、圏外?!
それに…時間がさっき見たときから変わってないような…。
もしや携帯がフリーズした?
慌てて操作してみるがメニューなどは正常に開けるようだ。
壊れちゃったのかなぁ…。
ためしに自宅にコールしてみるが接続音さえつながらない。
本当に圏外のようだ。
と、目の前を蝶がふわりと舞った。
?!
思わず息が止まる。
桜の花びらのような淡いピンク色の翼を持つ美しい蝶だ。
大きさは揚羽くらいあるのではないだろうか。結構大きい。
こんな蝶、見たことがない。
羽を羽ばたかせるとまるでガラスでできているのではないかとさえ
異常な程の透明度があった。
やがて蝶は林の中へと消えていった。
なんだったんだ…今の。
新種を発見してしまった?
それともここは、実は大学の研究施設の敷地で何か新種のものを開発中?
……にしては無理があるか…。
敷地が異常に広すぎる。
金倉市一個分以上はあるよな…どうみても…。
何が起こったのかわからない。
とりあえず大きくわざとらしいため息を一つついた。
とにかく誰かに会って出口を教えてもらわなくっちゃ!
背の高い草を掻き分けてすすむとやっと細い道にでた。
石畳も舗装もされていない、ただの道だ。
やっと人一人が歩けるぐらいの細さだが道があるだけ有難い。
これ以上制服が汚れたらもはや白ではなく真っ黒でぼろぼろになってしまいそうだ。
道は正確なまでに真っ直ぐに続き地平線のかなた向こうで消えている。
一体どれだけ歩くけばいいんだろう…。
夢なら早く覚めてほしい。
そう願いながらなんとか一歩一歩歩き出した。
-2-
どれくらい歩いただろうか。
少なくとも1時間以上は歩いていると思うが。
途中道の横で座って休憩しては歩き出しの繰り返しを続けるも
一向に景色がかわることはない。
ただ、振り返ると最初に出てきた林…いや、実は小高い山だったことが判明し
それが追いかけてくるようにぜんぜん距離が縮んでいないように思え
嫌気が差し途中から振り返るのをやめてしまった。
にしても…これだけ歩いてるのになんで日が暮れないんだろう…。
5月とはいえもう夕方の6時はさすがに過ぎているはずだ。
太陽は見えるが位置も変わっていないように見えた。
「はぁー!疲れた!!」
誰もいないのを知ってか知らずか自分でも少しびっくりするぐらい
大きな声を出すと道の脇にどっかりと乱暴に座った。
困ったなぁ…。
本当、ここはどこなんだよ…。
それにおなかも空いてきた。
本当なら今頃はレッスンが終わってコンビニで何か買って
つまんいでる頃なのかも知れない。
本当に一体どうしてしまったんだろう。
しかし誰もその問いに答えてくれるものはいない。
歩けど歩けどどこをどう向かっているのかもわからない。
だんだんといらいらしている自分に気がついた。
ここはどこなんだ!
何県何市何区何町何番地なんだ!!!
心の中で叫ばずにはいられなかった。
再びゆっくりと立ち上がり進もうとした方向を目を細めながら眺めた。
本当にこっちでいいのか?と。
確かにあの森の中に戻るつもりはない。
けれど、
本当にこっちでいいのだろうか?
この先には一体なにがあるのだろう。
漠然としすぎたこの広大な草原の先には何がある?
しばらくそこに佇んでいると…
何か地響きのような音が遠くのほうで聞こえた。
振り返ってみると森の麓のほうに大きな土ぼこりが立っているのが見える。
何かが来る!
目を凝らしてみて僕はまた言葉を失った。
こちらへ向かってくるのは、
馬の大群…。
2,30頭ばかりだろうか。
何か叫んでいるようにも聞こえる。
何かがおかしい。
そう。
何かがおかしい。
一瞬その光景を正常に認識できず
軽くめまいを覚えた。
下半身は馬なのだが
よくみると
上半身が人間で手にはなにか剣か棒のようなものをもって振り回しながら
こちらへと駆けてくるではないか!
大群の一頭が僕を見つけると
何かを大声で叫び一層速度を上げてやってくるように見えた
う…
「うわぁっっっっっっっ!!」
そう叫びながら僕は全速力で半馬人がやって来るほうとは反対の道を走り出した。
背後から何かが飛んでくる気配が感じた、次の瞬間
僕の行く手数メートル先に石の塊が飛んできた。
あんなの頭に当たったら死んじゃうじゃないか!!
「まてー!!」
「逃がすな!捕まえろ!!」
背後から半馬人たちの怒鳴り声が聞こえる。
ひーっ!!やっぱり追っかけてくる!!
つかまったらどうなるんだ!!
周りには草原と道以外何もないし
逃げ道も戦う術も何もない。
ただ出来る事は
ひたすら走って逃げることくらいだ。
しかしとうとう半馬人たちは手を伸ばせば僕を捕まえられるんじゃないかという
近距離まで迫ってきた。
どうすることもできない!
万事休す!
こうなったら!!
半馬人の一頭が手を伸ばそうとしたところで
僕は進んでいた道の真横の草地の中に身を投げ込んだ。
あとは無我夢中で背を低くして草むらの中を掻き分けて逃げる。
数十メートルぐらい進んだところでぴたりととまるとそのまま身を丸くかがめた姿勢で静止し
必死で息を殺した。
呼吸が乱れ心臓がバクバク言っているがなるべく見つからないようにしなければならない。
地面の土をただじっと見つめたまま耳に神経を集中させた。
どのくらい時間がたっただろうか。
いくら待っても半馬人が近づいてくる音や気配がない。
虫一匹の鳴き声すら聞こえず、
ただ、たまに吹く風が葉をザワザワと静かに揺らす音だけが聞こえていた。
……。
…………。
あ……れ?
追ってこない?
呼吸が正常に整ったところで、
ゆっくりと、恐る恐る顔を上げてみせる。
そこには森を出た時とさほど変わらぬ広大な草原がただただ風に揺れながら
広がるばかりの光景だった。
え?
さっきのやつら、一体どこに消えたんだ?
まさか隠れて僕が姿を見せたところをまた襲うきじゃ?!
慌てて左右前後を見回すがなんの気配も感じなかった。
静かに立ち上がる。
一体なんだったんだ?
暫くの間そこに黙って立ち尽くしたが
何の変化も起きない。
本当に、一体なんだったんだろう…。
とりあえず、どうにか助かったらしい。
もう汚れを気にする事も諦め、かつては真っ白だったスーツについた
土を軽く手で払い荷物を持つと、今度は前方に見えた別の道まで出て、
ただひたすら、森とは逆の方向へと歩き続けた。
この先に何が待ち受けているかなんて事も当然予想できずに。