第一章:いつもと変わらぬ朝
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暗闇の中、人が立っていた。
暗くて顔がはっきり見えない。
男なのか女なのかもよくわからない。
僕に背を向け、何かをつぶやいている。
なんと言っているのかは聞き取れない。
と、次の瞬間いきなりこちらに向き返る。
心臓が止まりそうになる。
そこには僕が立っていたからだ。
表情は冷たく、いたずらっぽく笑っているがその目は憎しみと悪意に満ちているような
血走った瞳であった。
手に何か持っている。
それが鎌だと気づいた時にはすでに遅く
僕に向かって振り下ろされた後だった。
真っ暗な世界が突如、鮮血で真っ赤に染まり
僕は悲鳴を上げていた。
「わぁーっっっっ!!!!」
思わず飛び起きる。
気がつくといつもの天井がそこにはあった。
僕の部屋だ。
それを認識するのに数秒の時間が必要だった。
カーテンの隙間からもれる淡い光に包まれた薄みどり色の光の点描がきらきらと揺れている。
ああ…また同じ夢を見ていたのか。
まだ心臓がどきどき早い速度で脈打ち息も少し荒い。
射川竹人はゆっくりとベットから上半身を起こすと、まだ鳴らぬ目覚まし時計に目をやった。
時刻は午前6時を回ろうとしている。
目覚まし時計のセットを解除すると両手を天井に向けてひっぱり思い切り伸びをした。
軽く汗をかいていることに気がつく。
「またか…」
わざとらしく声を上げてみる。
カーテンを乱暴に開けると
まぶしい光が一気に部屋を白く包み込み、思わず目を細める。
窓に切り取られた5月の新緑の木々の景色は新しい朝の訪れを知らせていた。
時折かすかにそよぐ風に太陽の光を受けた木々の葉がキラキラと舞い
淡い水彩画のような優しさを描いていた。
そんな清清しい光景とは裏腹に、
心は妙にどんよりと灰色に曇っていた。
ため息を一つつく。
最近妙な夢ばかりみている。
意識的に疲れを感じているつもりはないが、それでも無意識に疲れているのだろうか。
パジャマを脱ぎ捨てると
まだ真新しさが残る黄緑と白のストライプ柄のワイシャツに袖を通す。
やっと慣れ始めた中学校生活。
友達もできたし勉強や部活なども充実している、はずだ。
姿見を見ながら真っ白いスーツの第一ボタンを留めると、
なんとなく鏡の自分に、すこしだけ強く微笑みながらグリーンのネクタイを締めた。
僕が通う私立、満点星学園は幼稚舎から大学院までで成る巨大な学園だ。
中等部と高等部の真っ白いブレザーの制服は地元では白鷺と呼ばれている。
とにかく敷地が広い。
その敷地内のあちこちに雑木林が点在し森の中に学校があるといっても過言ではないかもしれない。
そんな学園に通い始めて早2ヶ月が過ぎようとしていた。
かばんとバイオリンケースを持つと部屋のドアノブに手を掛けた、と
廊下に出た瞬間ほぼ同時に部屋から弟の明人がひょっこりと姿を現した。
僕に気がつくと無邪気な笑みを作ってみせる。
「あ、お兄ちゃんおはよう」
僕の前まで来るとさらに笑顔を光らせながら挨拶してきた。
「おはよう」
それに答えながら明人の髪をぼさぼさと撫で回す。
さらに嬉しそうな表情をつくる明人。
「今日は顔色いいなぁ。ちゃんと眠れた?」
いつも弟の頭をなでながら体調を聞くのが僕の日課になっていた。
「うん。最近調子いいんだ。お兄ちゃんは今日はバイオリンのレッスン?」
僕の肩に掛かったバイオリンケースを見る。
階段の踊場にある薔薇模様のステンドグラスの光が弟を包み込み、
一瞬弟がアンティーク人形のように美しく見えた。
明人は僕の3つ下の弟。
体が弱く学校を休みがちで友達もあまりおらず仕事をしている両親に代わって僕が
兄、兼友達、兼親のような、そんな存在になっている。
小さいころ僕に続いてバイオリンを習おうとしたのだが体への負担が
思いのほか大きく、なるべく息が切れず座ってできるピアノにチェンジしたのだ。
ちなみにピアノ講師はうちの母親である。
自宅で教室を開く傍ら明人に他の生徒と同じように基礎からしっかりと教えてくれている。
そんなこんなで最近の明人の夢は僕のバイオリンの伴奏をすることらしい。
「そ。お兄ちゃん頑張ってるからアキもピアノ頑張れよ?」
“アキ”というのが弟の愛称である。
もう一度弟の頭をくしゃくしゃとなでると先にしたに降りてるよと言いながら
階段を降りた。
-2-
「おはよう。良く眠れた?」
焼きたての目玉焼きをフライパンからお皿に移し変えながら母、かすみがにこりと微笑んだ。
「おはよ。」
横目でちらりと母の存在を確認すると暖かい食事が用意されたテーブルについた。
テーブルには今できたばかりの目玉焼きとサラダのプレート、ロールパンに牛乳、果物のびわが並んだ。
入れてもらったばかりの冷たい牛乳を一気に飲み干す。
牛乳は正直あまり好きではない。
独特の臭さみ甘さが苦手なのだ。
冷たいうちに飲んでしまえばそう感じるのも少なくて済む。
だから牛乳は冷たいものをなるべく一気に飲むようにしているのだ。
で、
「また牛乳一気飲みして…。お行儀悪いわよ。」
と母に小言を言われるのだった。
「あ、今日レッスンだから少し遅くなる。」
目玉焼きの黄身の部分だけをフォークで器用に取り出して食べる。
ティーポットからカップに紅茶を注ぐとそれを僕に差し出しながら母が言った。
「わかったわ。でもこの前みたいに寄り道しないで早く帰ってきなさい?
何かあったらすぐ電話すること。いいわね?」
「大丈夫だって。」
先週、レッスンの後に少しだけ本屋に寄り道しただけのことを言っているのだ。
まったく。数十分遅れただけで大げさなんだから。
「そういえば…愛理ちゃんピアノ始めたんだよね。あれからどうなったの?」
愛理というのは僕が通っているバイオリン教室の生徒さんでひとつ年下の明るくて元気な女の子。
最近になって母が開くピアノ教室にも通いだしたのだ。
「そうね、なかなか頑張ってるわよ。
今はバイエルだけどいつかショパン弾きたいって張り切ってるし。」
「急にどうしたんだろうなぁ…。今まではバイオリン一本って感じだったのにさぁ」
「あら、竹人のほうが詳しいんじゃないの?小さいときからずっと一緒だったでしょ。」
「うーん…といっても個人レッスンだし二人で会話ってあまりないんだよね。
話しても挨拶程度かな。」
「そう?意外ね。愛理ちゃんは竹人のバイオリン教室での話しをたくさんしてくれてるわよ?」
「え?そう?」
僕の方が彼女のレッスンの後なのに…。
帰らないでわざわざ僕のレッスンを聴いてた?
バイオリンのレベルは2年先に始めた僕のほうが上だから
今後のレッスンの参考にでもしているのだろうか。
「あー…、ピアノといえば…」
思わず一度咳払いをする。
「秋桜ちゃんは最近どう?元気?」
「え?秋桜ちゃん?ええ元気よ。この前はパウンドケーキを焼いてきてくれたし」
「は?なにそれ!聞いてないよ!!」
「あら、ごめんなさい。レッスンの後に皆で頂いてしまったものだから…」
くすくすと笑う母。
なんだよ!一切れくらいとっておいてくれたっていいのに!
「ほーら、急がないと遅刻するわよ。今日も朝練あるんでしょ?」
そういって目で時計をみるように促す。
わ!もうこんな時間。
ロールパンの塊を一気に口の中に放り込むとそれをまだ少し熱い紅茶で流し込んだ。
僕が席を立とうとすると母が思わず怒鳴る
「竹人!またトマト食べてない!!せっかくおばあちゃんが作って送ってくれたのよ?」
「えー、いいよ。なんかすっぱいの苦手だから」
乱暴に答えると行ってきますの言葉を付け加えて
かばんとバイオリンケースをもってキッチンを出た。
-3-
玄関の扉を開けると、今朝窓に切り取られていた景色の、何倍も美しい
新緑の景色が視界いっぱいに広がっていた。
熱くもなく寒くもない、ちょうど良い陽気のなか、木々が波音のようなざわめきをたてながら
やさしくさらさらと輝いていた。
「気持いいなー」
思わず言葉に出して新緑の季節を喜んで見せた。
悪夢のことなんてこのころにはすっかりと忘れ、みどりの光を眺めて歩く。
それにしても秋桜ちゃんのパウンドケーキ…
「食べたかったなぁ」
思わず無意識に言葉に出していた。
うん。食べたかった。
天妙寺秋桜。僕より一つ下の女の子。
先ほど話した愛理ちゃんとは対照的で
大人しくてあまり感情を表に出さないけれど
彼女のピアノを聴いたら誰だって…。
そう、誰だって心を持っていかれるに違いないのではないだろうか…。
彼女の母と僕の母が高校の同級生で久しぶりに会ったとき
彼女にピアノを習わせることにしたのだ。
私立の小学校が終わった後電車でわざわざ僕の家まで通ってきている。
数年前、家の音楽室から聞こえてきたピアノの旋律を僕は今でも忘れない。
冬の、ガラスのような透き通った空気の中、柔らかい日差しの如く静かに
優しいメロディが家の中をそっと包み込んだ。
そのとき部屋で勉強をしていた僕は思わず手を止め
階段をゆっくりと降りると
音楽室に通じる廊下をじっと見つめていた。
そこから体が動かなかった。
足が廊下の床に張り付いてしまったのではないだろうかと思うくらい
どうしてもそこから足を進めることができなかった。
ただ、
ただ静かに僕はその旋律をゆっくりと耳を傾けていた。
あまりにも音色が優しすぎて思わず頬を涙が伝う。
演奏が終わった後もしばらくそこに立ち尽くしていた。
やがてレッスンが終わって部屋から出てきた人物をみて僕は思わず驚いた。
もっと大人の人が弾いているのかと思ったら自分よりも小さい女の子だったのだ。
腰まで届きそうな長くまっすぐな、そう…日本人形のような黒髪に、
冬の景色が良く似合う透き通った白い肌、
ガラス球のようなきらきらした大きな瞳が廊下で立ち尽くす僕を見つけると
一瞥して玄関の方へと歩いていったのだが
僕は何も言えず振り返ることすらできなかった。
やっとのことで体が動かせたのは
玄関のドアが閉まる音がしてからだった。
とにかく、
僕は彼女のピアノの音色に心を持っていかれた。
それからは彼女のピアノのレッスンの時間になると
勉強の手を止め廊下で静かに演奏を聴いていた。
中学に入って時間帯が合わなくなってしまったため
最近その音色が聴けなくなってしまったのが非常に残念でならない。
まだずっと先の話だが12月にピアノの発表会がある。
そのときに僕も行くつもりだ。
もちろんピアノを弾くわけではない。
彼女の演奏を聴くためである。
今は何の曲を練習しているのだろうか…。
一番最初に聴いたのはドビュッシーの「月の光」だった。
-4-
やがて乗っていた電車は学校の最寄り駅に着くと大勢の通勤通学客をプラットホームに吐き出し
次の駅へと急ぐように出発していった。
「よぉ!射川!」
人ごみの中、肩をぽんとたたかれ振り返る。
「あ、入間。おはよ」
同じくバイオリンケースを肩から掛けて、ニコニコしている短髪の少年がそこに立っていた。
入間光。
同じクラスで同じ部活仲間。
それがきっかけで仲良くなったのだ。
「射川さぁ、昨日の心霊番組みたかぁ?ありゃめっちゃ怖かったよなぁ!」
「へ?…しん…れい?」
「あれ、見てないの?だめだなー。あんな面白い番組、最近テレビで面白いのあれくらいだぞ」
入間はこういった類の話が大好きで写真を撮ると霊が写っているだの学校の七不思議全部集めようだの
気がつくとそんな話ばかりしている。
「うちの学校も結構多いらしいぜ。怪談話。
開かずの間なんてのもあるみたいだしさ。」
一人オカルト話を楽しむ入間。
そこではっ!とする。
思わず入間の袖を引っ張り人気のないコインロッカーの脇に入った。
「な、なんだよ」
突然引っ張られて驚きつつ少し不機嫌そうな表情をする。
「チャック開いてるよ」
小声でそう言っている自分に照れが入っているのがわかりつつ
その事実を友人に伝えた。
「おっと!失敬!開かずの間より自分の窓閉めろってか!」
照れ笑いしながらチャックを閉めた。
全く。
でも、こいつといるとなんだろうなぁ…
オカルト話はわからないがなんだかんだで楽しいのだ。
それにおちゃらけてはいるがバイオリンは結構な腕前である。
「そういえばチャックといえばさぁ…」
自分の恥を笑いに持っていこうとする、入間のこんなところも好きなのである。
少々下品な話に花を咲かせ爆笑している間に学校の正門をくぐっていた。
「あははは!!
なんだよ、背中にチャックって!!それじゃあ着ぐるみじゃん!」
こいつといると気がつくと爆笑している自分がいる。
「だろ?!“背中のチャックはずしてください”っていうんだけど
そんなのどこにもないんだよぉ。な?やっぱそうだろ?」
「もういいって!やめてー!!おなかが痛い!!」
「朝からにぎやかだなぁ。」
僕と入間の肩がぽんとたたかれた。
「桜倉先輩!おはようございます!」
その声だけで人物が特定できるほど
高校生とは思えない貫禄のある低い声が背中から響いてきた。
横瀬桜倉先輩。高等部の3年で僕らが所属する弦楽部の部長だ。
“さくら”という名前だが正真正銘の男性だ。
響きがきれいという理由で
部員からは苗字ではなく名前で呼ばれていた。
高校3年生ということもあって中学1年の僕らとは比べ物にもならないくらい
容姿は大人っぽく、身長も僕らより頭二つ以上大きかったため
会話するときはいつも先輩の顔を見上げて話した。
「おはよう、今日は第二楽章に入るから二人とも頑張ってついてきてね」
にこりと微笑むと僕の肩ををぽんとたたいて言った。
先に昇降口に入っていく先輩の高い背中に
僕と入間は元気良く返事をはもらせた。
音楽室に入るとすでに大半の部員たちが集まっていて
それぞれ音出しやパートの練習をしていた。
僕が所属する弦楽部は、名前からもわかるように弦楽器による音楽活動をしている。
弦とはバイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの4種類を指す。
たまに吹奏楽部と合同オケをしたりもするが基本は弦だけで活動し
定期演奏会のほかに文化祭やミニコンサート、
老人ホームや施設などに慰問やボランティアに行ったりすることもある。
ちなみに僕と入間、そして桜倉先輩はバイオリンを担当。
桜倉先輩はコンサートマスターを務めている
中等部、高等部合同の部活で人数もかなり多い。今は40人強くらいが所属しているため
全員が演奏するとかなりの迫力になる。
今はチャイコフスキーの弦楽セレナーデを練習中だ。
「じゃあ朝の練習を始めます。まずはチューニングから」
桜倉先輩の言葉とともにそれぞれグループを組んでいた部員たちが前を向きなおし
楽器を構えた。