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第十二章:もう一つの答え

-1-

帰りはイネ=ノの背中ではなく、

手を握って直接風の中を通り抜けて帰る例の瞬間移動をして帰った。


今はベッドに寝かされている。

僕が倒れたのをイネ=ノはとても気遣ってくれていた。

イネ=ノもベッドに腰を下ろし僕の顔色を見て少し渋い顔を作る。


「竹人…無理してないかい?」

「え?」

「朝からあまり顔色が良くないように思えたんだが

先ほどバイオリンの演奏を終えたとき顔が真っ青になってたよ。

疲れているんだろう。

大丈夫。明日には帰れるんだから安心するといい。

キク=カの予言は100%当たるからね。

何か必要なものがあったら言ってくれ。」


「ううん。大丈夫だよ。なんだか気を使わせちゃってごめん…。

……でも、

…正直言うとイネ=ノの言うとおりなんだ。


この世界に自分がいるという現実が受け入れられなくなる瞬間があって

まだ混乱してる。

でも大丈夫だよ。少し休めば治るから。」

「そう…。じゃあ僕は少し席をはずすよ。ゆっくり休むといい。

何かあったらアキレスを呼んでくれ。すぐ傍で待機してるから。夕食までには戻るよ」

「有難う」僕が例を述べるとイネ=ノはそれでも少し心配そうな表情を浮かべながら

天蓋のカーテンの後ろに姿を消した。


やがて人の気配が完全に消える。


部屋には静寂だけが広がった。

静か過ぎてホワイトノイズが聞こえる。


なんだか色々と悩みこんでいた事も女神の褒美によって一瞬一気に吹っ飛んでしまったような

感覚さえ覚える。

が、また部屋に戻ってきて再び僕は無意識的にも意識的にも帰りたいの呪文を心の中で唱え続けていた。

何故だろう。不安で仕方がない。

イネ=ノもキク=カも明日には帰れると言ってくれている。

なのになぜか胸の中がざわつく。

本当に帰られるのだろうか。

もちろん帰れるのなら帰りたい。

だが…本当にこのまま帰ってよいのだろうか…。

いつの間にか心の中でジレンマが起きていた。

キク=カの話がずっと頭の中で何度もループしている。

アスティーヤを治す力が僕にはあった。なのに

なぜキク=カには効かないのだろうか。

それが悔しくもある。

永遠に苦しみ続けるしかない病を僕は治すことができないのだろうか。

何百年も引きこもっていた女神を僕は救うことが出来た。けれど、

数百年はよくても永遠は消えないというのだろうか。

本当にこのまま帰っていいのだろうか。

だが…かといってじゃあ残ってくれるかい?と聞かれたのなら

僕は素直に首を立てに振ることが出来ないだろう。

矛盾しているのだ。

僕は、心の中で完全に矛盾していた。

軽く呼吸が乱れているのが解った。

息苦しくなってたまらず僕はベッドから起き上がると庭に出た。


日は傾き始め空一面を美しいラベンダー色のスクリーンが覆いつくす。

遠くでいくつか星が輝いているのが見えた。

空気は相変わらず冷たく透き通っていた。

肺をそれで満たしクールダウンを図る。


日がもうじき暮れるというのに庭に咲く花は元気に花びらを広げて咲き誇っている。

ああ、そういえば光花はどうしただろう。


先日植えたところまで行って思わず驚いた。


「うわぁ…。」


自分の身長と同じくらいの芽が伸びていたのだ。

ガラス色の管からあちこちにクリスタルガラスのような美しい葉が伸びキラキラと光輝いてる。


すごい…。

花本体もさぞや美しいのだろうが正直これだけでも十分満足できる美しさを誇っていた。

そっと葉に触れてみると予想外にも普通の植物と変わらない感触だった。

天秤座の宮殿のところで咲いていた花のようにガラスのような冷たさがあると思っていたのだが。

見た目と温度にギャップがあった。

むしろ嬉しい反応と呼べるかもしれない。

花が凍てついてちゃ美しくてもただただ冷たい印象ばかり与える。

それをこの感覚が覆してくれたのだ。

花が開花するところが見れないのがやはり残念に思えた。


近くのガラスの椅子に腰を下ろす。

静かな風にさらりとゆれ花たちは小さく微笑んでいるようだ。


ここでバイオリンを弾いたらどうなるんだろう。

きっとこの花たちも喜んでくれるだろうか。

そうだ…。バイオリンといえば…僕には何故人々、いや神様さえの病気を治すほどの

力を得たのだろう。

何か意味があるのだろうか…。

この指輪も…。

左手小指の小さな石を見つめた。

この世界からずっと僕と一緒に旅してきたこの石は一体どんな想いを秘めているのだろう。


「竹人様、こちらにいらっしゃいましたか…」


少し離れたところからアキレスの声が聞こえた。


見るとベランダ入り口の前でティーセットの乗ったトレーを手にして立っていた。

「お茶をお淹れしたのですが…お庭で召し上がりますか?」

「あ…じゃあ…ここで頂くよ」

かしこまりました、と品のいい挨拶をするとアキレスは近くのテーブルにティーセットを置き

暖かい紅茶を入れてくれた。

湯気と一緒にふんわりと甘い香りが広がる。

「じきイネ=ノ様もお見えになりますのでどうぞごゆっくり。」

「あ、ちょっと待って!」

思わずアキレスを引き止める。

僕の予想外の言葉にアキレスは紫色の瞳をぎょろっと丸くさせながら僕を見つめた。

「あの…時間ある?」

「え?」

「良かったら少し話さない?その…話し相手がほしくて…」

「ああ…はい。私なんかでよろしければ」

アキレスはニコリと微笑んで見せると

トレーをひざの上に置きながら僕の隣の椅子に腰を下ろした。

一瞬アキレスからなにかお香のような香りが香ったような気がする。


しかし、呼び止めたはいいものの

アキレスと何を話したらいいのかわからず思わず黙り込んでしまった。

少しの間沈黙のときが流れたがアキレスが穏やかな声でそれを破る。

「アスティーヤ様のお話を伺いました。

さすが竹人様。お見事ですね。」

「あ…ううん。正直まぐれとしか…あ、あと…アキレス…。

僕に敬語使わないで良いよ。」

「え?」

ちょっと驚いた表情を作る。

「前にも少し話したけどアキレスと僕の友達はすごくよく似ていて…

だから敬語で話されるとなんだかこちらも緊張してしまって。

普通にため語でかまわないから。」

「かしこまりました。では…あ…」

「ふふふ」思わず笑いがこぼれる。

「もう癖になってるでしょ?」

「そのよう…だね?」

堅苦しいため語を無理やり使うアキレスのその様がおかしかった。

「アキレスはイネ=ノの弟子って聞いたけど、アキレスも誰かを治療したりするの?」

「ええ。私はイネ=ノ様に比べれば当然力も劣りますし一人前としてはまだまだですが、

アキレス様が面倒を見ていらっしゃる子供たちの

病気を治したりしています。」

「子供たち?」

初耳だ。思わず小首をかしげる。

「ああ…ご存知ないのですね。

イネ=ノ様は身寄りのない子供たちを保護し育てていらっしゃるんですよ。」

「それは初めて聞いたよ。イネ=ノったら一言も言わないんだもん。

そんな事もしていたんだね。」

「はい。子供たち用の小さな宮殿がありまして

そこで子供たちと一緒に過ごされたりもしています。

意外ですね。先ほど子供たちのところへ行ったら竹人様の演奏を聴きたいとせがまれてしまいました。

子供たちはイネ=ノ様から竹人様のお話を聞いていたようですが…

ですからもうとっくに竹人様にも子供たちの話をしていたものと思っていたのですけれど…。」


「演奏してあげようか?」

「え?」

「子供たちがバイオリン聞きたがってるんでしょ?

僕ね、元の世界でもよく子供たちの前でバイオリン弾いたりしてたんだ。

だからアニメ曲とか童謡とかも全然いけるよ。

それに子供たちとわいわい過ごしてたほうが気分転換になっていいかもしれないし。」

「そうですか。それは子供たちもさぞかし喜ぶでしょう。

では早速参りましょうか。

イネ=ノ様には私のほうからお話しておきますから。」

「うん。じゃあ…」

そう言って椅子から腰を上げようとした時、ちょうどイネ=ノがバルコニーを降りて

庭に入ってきたところだった。

「イネ=ノ!ちょうど良かった。

今アキレスから子供たちの話を聞いたところだったんだ」

「え?ああ…。僕から話そうとも思っていたんだが…。」

そういいながらこちらへ来ると光花の茎に手でそっと触れてみた。

「大きくなったなぁ」

「本当だね。もっと背が低い花かと思ってたんだけど。」

「ああ。」

目を細めいとおしそうに葉を眺めるイネ=ノガなんだか切なく思えた。

「アキレス、悪いけどちょっと席をはずしてくれないかい?」

「かしこまりました」

すっと立ち上がるとトレーを持ったまま一礼し部屋の中へと戻っていく。

少しイネ=ノの表情が硬くなる。

「竹人…寝てなくて大丈夫なのかい?」

「うん。横になってるとついつい余計なこと考えちゃって。

こうして庭の花を眺めてるほうが全然楽だよ。」

「そう…でもあまり無理はしないで。

ところで、先ほどのアスティーヤの件は本当に感謝しているよ。

なんと言ったらいいのか…。どうも有難う。」

腰を90度折り曲げてお辞儀をされ驚く。

「ちょ…やめてよ、イネ=ノ。あれは本当に偶然というかまぐれと言うか…。

それにこの世界に来る前は僕にはそんな力なかったんだから…

僕自身ですら信じられないくらいだよ。」

「いや…そうじゃないんだ。」

「え?」

「アスティーヤの前で演奏する君の姿をみて確信したよ。

君が射手座守護神だって事を」


-2-

「…え?」

思わず聞き返す。

依然イネ=ノの表情は硬く僕を冷たく見据えている。

僕が…なんだって?

イネ=ノの言った事が今一理解できず返事に困った。


「君は自覚してないんだろうな。まぁ無理もないとは思う。

だがその指輪が全てを物語っているんだ。もっと早くに気づくべきだった。」


「ちょっとまって、ごめん。どういう事なのかよくわからないんだけど…」

両手の平をばたばたとさせてさらに言葉を続けようとするイネ=ノを制して言った。

「だって射手座守護神はイネ=ノだろ?

同じ名前の神様が二人も存在するなんておかしくない?」

「そうだね…少しゆっくり落ち着いて話そうか。」

小さくため息をつきながら先ほどアキレスが座っていた椅子に

今度はイネ=ノがそっと腰を下ろした。


茜色の空をバックにどことなく冷たいイネ=ノの横顔がある。

僕と瓜二つの人物の横顔…。自分の横顔でもあるのか…。

自分の横顔を見ることなんてなかなかないからなんとも新鮮な気分だ。

だが、僕にはイネ=ノのような気品は持ち合わせてない。

同じ顔なのに、立ち振る舞いでこうも人は変わるんだ…。


「君はこことは違う別の世界から来たと言ったよね。」

「え?…うん。」

「つまりこういう事だよ。別次元に君の世界があって、そこでは僕らのような同じ顔をした

君やもう一人のアキレスやアスティーヤが存在している。そして君はその指輪をしている。

わかるかい?」

「え?」

間抜けっぽく何も考えないまま言葉を出してしまった事を後悔する。

「君の世界にも守護神が存在するという事なんじゃないのかな?

だからつまり、君の世界での射手座守護神が君って事さ。

他にも別の星座の守護神が存在していると思う。」

「……ちょ…っと待って。

僕の世界では“射手座守護神”って言葉は存在しないし、バイオリン一つで難病を治せるような

奇跡もありえないのに?」

「そう。それに存在しないんじゃない。現に今存在しているじゃないか。

それに奇跡だって起こした。

確実に君は君の世界での僕、つまり守護神のポジションにあるってことなんだよ。」

…といわれても…信じがたい。


おそらく元の世界に戻ったらバイオリンの奇跡だって起こせないし

指輪も消えてしまうかもしれない。

もしかしたらイネ=ノたちと過ごした記憶ですら…夢だったという事になってしまうかもしれない。


「君をこの世界に案内した人がいるって言っていたね。

もしかしたらその人も何かしらの星座守護神なのかもしれない。

だから明日帰ったら彼に会って話すといい。

この世界であったこと全てをね。」

「……でも…」

話したところであのさわやかな笑顔で病院に行け、で終わりそうなきもするのだが…。

確かにいきなり学園の中での白人の出現は僕の日常の中では小さな非日常だった。

けれど…それだけだ。

たまたま偶然の出来事だった。

それに僕の世界で誰かがバイオリンで難病を治したなどという話は

いまだかつて一度も聞いたことがない。

音楽療法的な意味合いではありかもしれないが

明らかにメグサのお母さんやアスティーヤのような

身体的病気をメス一本入れず楽器一つで治してしまうなど、

僕の世界ではありえないことだ。

そもそも、この世界と僕の世界を重ねて同等に見ようと言っている時点で無理が生じている。

同じようであってもやはり二つの世界は別物だ。


「なぜそこまでして僕を射手座守護神だと思うの?その理由がよくわからないよ」

「アスティーヤの前で君がバイオリンを弾いただろう。

あの姿をみて僕自身もそれを確信したし、あとはキク=カだよ。

彼が言ったんだ。

君は帰ったらその力を発揮することになるってね。」

言葉が出てこない。

そもそもキク=カの予言の行く末を僕はまだ知らない。

そう、明日僕が帰るというその予言だ。

何かすぐにわかるような小さな予言でも聞いておけばもっと確信が持てたのかもしれないが…。

ただ、つまりそのキク=カの予言が示すものは、

僕が元の世界に帰ってもこのファンタジーは終わらない、という事なのだろうか?


「ねぇ、明日帰る前にキク=カに会える?」

「もちろん。キク=カも一緒に来るからね」

「え?キク=カ、歩けるの?」

「いや、僕が連れて行くよ。本当はあまりよくないんだけどね。

キク=カが一緒に行きたいと言っているものだから…」

「じゃあ…帰る前に少しキク=カと話す事は出来る?」

「ああ」

「良かった。この前は僕が取り乱しちゃってちゃんと会話できなかったから

その事もちゃんと謝りたいし、今の話も詳しく聞きたいんだ。


それに僕が来る事を予言した話とかもいろいろ聞きたい。

キク=カが帰れるって言ってくれても正直不安で不安で仕方がないんだ。

でも…なんだろう…

そう、帰る前にもう一度キク=カに試したいんだ。

僕のバイオリンをキク=カに聴いてもらいたい。

メグサのお母さんやアスティーヤに効いたんだ。

アスティーヤにだよ?何百年も病気で伏せていたのが

バイオリン弾いただけで治っちゃったんだ!

だったらキク=カにだって多少なりと効いてくれたっておかしくないじゃないか。

このままじゃ僕は帰れないよ。

もしこのまま帰ったら僕は一生後悔するかもしれない。

それに…、」

「竹人」

イネ=ノが僕の背中にそっと手を当てた。

「少し落ち着いて」

そう言われて自分の息が上がっていることに気がつく。

どうもだめだ。

ここ最近少し疲れているのかもしれない。

呼吸が苦しい。過呼吸の一歩手前といったところだろうか。

「悪かった、君の体調がもう少し落ち着いてから話すべきだった。

寝室へ戻ろう」

そういいながら立ち上がるとそっと僕に手を差し出した。

確かに気分が良くなかった。

息が苦しいし思考判断がどことなく鈍る。

イネ=ノに従ったほうがよさそうだ。

ゆっくりとイネ=ノの手を取る。


と、

気がつくと僕はすでに寝室に立っていた。

イネ=ノの例の瞬間移動だ。

「あは、そこまでしてくれなくてもここまでだったら歩けるよ」

そう言う僕をイネ=ノはソファに座らせアキレスを呼んだ。

やがて新しいお茶が運ばれてくる。先ほど庭に出されたのとは違うものだ。

「薬湯だよ。リラックス効果がある。さぁ、飲んで」

透き通った青色のお茶を差し出される。

綺麗だなぁ…。思わずガラスのティーカップの中の飲み物の色に見とれる。

香りはミントのようなすうっとくるような香りだった。

一口カップに口をつけた。

予想通りすっと透き通った味わいだ。

冷たい香りが鼻を抜ける。

呼吸が楽になるのがわかる。

「夕食は食べれそうかい?」

僕の顔を覗き込みながらイネ=ノがいう。

「うん。大丈夫だよ。ありがとう」

「そう。じゃあ…アキレス、用意を。

竹人。僕は少し用事があるので席をはずすよ。夕食後に少し落ち着いたらまたお茶でも飲もう。」

そう言ってイネ=ノは僕の頭をそっとなでると

背を向け姿を消してしまった。

僕に気を使ってくれたのだろうか。

「アキレス」

部屋を出ようとしたアキレスを呼び止める。

「はい、何でございましょう」

ゆっくりと体ごと振り向くとニコリと笑顔を見せる。

「あの…あまり食欲なくて…夕飯いらないよ」

「いえ…そうは行きません。では…なにか果物などを召し上がってみてはいかがでしょう?」

「え?ああ…じゃあ…少しだけ」

アキレスを見送りながら僕はもう一度ティーカップに口をつけた。

考えてみたらキク=カの予言が当たっていればこれがこの世界での最後の夕食になる、はずだ。

だが…どうも食欲がわいてこない。

そうか…これが最後の夜なのか…。

イネ=ノが淹れてくれた薬湯のせいだろうか、少し体が楽になってきたような気がした。

不安で押しつぶされそうになるその心をそれ以上深いところにもぐらないように、この冷たい香りが

食い止めてくれているようだった。

どうもだめだ。

ここに来て色々とあったから心身ともに参ってしまっているようだ

もう一口カップに口をつけたところで上品なノックがし、アキレスが部屋に入ってきた。


「こちらは今朝村で取れたばかりの新鮮な果物です。

それから焼きたてのパンをお持ちしました。残してもかまいません。

食べれるだけどうぞお召し上がりください。」

そう言いながらまたいつものようにたくさんの皿をテーブルいっぱいに並べて見せた。

結局いつもと変わらない量の食事が色とりどりと並ぶ。

「ありがとう。

ねぇ、アキレスも一緒にどう?」

「はい?」

「一人でもくもくと食べるのもなんだか空しいし、ここで夕食頂くの最後になりそうだから」

「…そうですか…では」

トレーを脇に置くと向かいのソファに腰を下ろした。

ティーカップに新しいお茶を継ぎ足してくれた。有難うといってそれに口をつける。

温かい…。

「明日、元の世界に戻られるのですか?」

「うん。本当にいろいろと有難う。

それに短い間だけど一緒に過ごせて楽しかったよ。」

「はい、私もでございます。」

僕がパンをちぎって一口つまむとアキレスもワンテンポ遅れて同じ動作をした。

「アキレスさ、さっきも言ったけどもう最後なんだし僕に気を使うのはやめようよ。

普通にしてるアキレスもみてみたいな。」

「え?」

「もっと肩の力抜いてどっとくつろいでるアキレス、のそっくりさんをいつも見てきたからね。」

「あ~。入間様ですね」

そこで笑いがこみ上げてくる。

「そうそう、そういえば入間がパンをこうやって食べてたんだけど…

なんかこう…食べ方がらくだみたいで笑っちゃったよ!」

「らくだ?」

「こうだよ!」

入間のらくだ食いをまねしてみせる。

次の瞬間アキレスが爆笑する。

「無意識でやってるっていわれても目の前でそれやられるとこっちは笑っちゃうよ。

そのとき牛乳飲んでたんだけど思わず吹きそうになっちゃってさ!!」

ホワイトノイズの音しかしないのではと思っていた部屋に笑い声が響いた。

そうそう。

この顔と向き合うときはいつも笑ってる僕がいた。

気がつくとアキレスと二人で大爆笑。

笑いこけながらなんだかんだでテーブルの食事を平らげてしまっていた。

「アハハハ!腰の抜けたカマキリって…!!」

けらけらとアキレスが笑いながらおなかを抱えてみせる。

「ずいぶんとにぎやかだな。僕も混ぜてくれるかい?」

イネ=ノが部屋に現われた。

「ああ…イネ=ノ様、お帰りなさいませ。」

そういってまだ笑いが残った顔で立ち上がるとアキレスは涙をぬぐって見せた。

「ああ…竹人、少し顔色が良くなったね。良かった良かった。食事もちゃんと摂れたんだ」

空っぽの皿をみてイネ=ノは満足そうに微笑んで見せた。

「アキレスのおかげだよ。ね?」

「ぷ…」

アキレスが思わず噴出す。

入間パワーはすごい。

あんなに堅物だったアキレスを一瞬で笑い上戸にしてしまうのだから。

イネ=ノも安心したように穏やかに微笑むとアキレスの隣に腰を下ろした。

慌ててアキレスは席を立つと空のプレートを片付け、お茶をお持ちしますといって部屋の外に

出て行った。


「竹人はすごいな…アキレスがあんなに笑うところを僕はほとんど見たことがなかったんだよ」

「え?ああ…そうだね…なんかそんな感じわかるよ。

すごく人に忠実だから余計笑っちゃいけないって思ってたのかもしれないね。

でも実はすごい笑い上戸だね!入間の話したらげらげら笑ってたよ。」

「ああ…入間君か。ぜひ僕も会えるものならあってみたいよ。

この前の犬の話は本当に面白かった。正直まだ引きずっているところさ」

「でしょ?!入間の話って後が残るんだよ!別れた後に思わず電車の中で

吹きそうになったことが何度あったことかあるから…」

そこで言葉をきる。

思わず“帰りたいな…”と口にしそうになっていたからだ。

「竹人…そんなに不安かい?」

だめだ…見透かされていた…。

そんなに解りやすい顔をしていただろうか。

でも…正直甘えさせてくれるイネ=ノに感謝している自分がいた。

観念したようにため息を一つつく。

「ごめん。また話が戻っちゃうね。

でも…うん。なんだろう…ずっと悩んでいるんだ。

早く、今すぐにでも元の世界に戻りたいっていう希望。本当に帰れるんだろうかっていう不安。

それから、本当に今僕は帰って良いんだろうかっていうもう一つの不安。

それらが絡み合って…なんだかどれをとってもばつが悪いような気がするんだ…」

「そう…。そこまで悩ませてしまって本当にすまなかった…」

「いや、イネ=ノが悪いわけじゃないから謝らないで!

むしろ僕はイネ=ノに本当に感謝しているよ。

もし僕がこの世界に来た事をイネ=ノが知らなかったらって思うと本当にぞっとするよ。

もしかしたら僕処刑されて今ここにいなかったかも知れないんだし!」


そう…村で会った不思議な出来事とともに恐ろしい出来事にもあった。

もしキク=カの予言がなければ

あそこで僕の人生は終わっていただろう。

「確かに…僕もキク=カの予言がなかったら君がこの世界に来た事を知ることが出来なかったよ。

だから君に会えた事を本当に嬉しく思う。

おかげでとても貴重な体験ができた。

竹人、これは経験の一つなんだと思っておくくらいにしておいたほうがいい。

この世界にいる間はいろいろと勝手も違うから不安に思う事もあるかもしれないが

きっと元の世界に帰った後にこの世界に来て良かったって、少々押し付けがましいが

そう思ってくれると僕としても嬉しいよ。」

「イネ=ノ…」

「お茶はどうだった?」

「あ、おいしいよ。おかげで頭がずいぶんとすっきりしてきた」

そういいながらティーカップを持ち上げるともう一口お茶を啜って見せた。

「明日の朝、朝食の後にすぐに出発するよ。キク=カのところに寄り道していくのと、

中心宮までが少し遠くにあるからね。」

「うん。解った。」

「今夜は早めに休んだほうがいい。体を清めたらアキレスから薬湯をもらってくれ。

ゆっくり眠れる作用のあるお茶だから体を休めるにはちょうどいい。」

「ありがとう…何だか気を使わせてしまって」

「いいんだよ。じゃあ僕はいくよ。また明日来るからそれまでゆっくり休むといい」

「うん。有難う」もう一度イネ=ノに礼を言うとそれを確認したかのように

おやすみとだけ言い残して姿を煙のように消して見せた。

この光景が見れるのもこれが最後か…。

こんな不思議な光景、元の世界に戻ったら絶対に見られない。

そう考えると僕は今すごい体験をしているのかもしれない。

イネ=ノの言うとおりこの世界にきて良かったと思える経験を、しているのかもしれない。

確かにそうだ…。

元の世界では体験できないようなすごい事をいくつも経験していることに気がつく。

空を飛んだり不思議な生き物や動植物をみたり、神様とお茶をしたり…。


アキレスが入ってきたのでお風呂に入ってくるからと言い残し

着替えとタオルを持って庭に出た。

空はすっかり満点の星空で満たされ一日の終わりを告げていた。

この満点の星空を見るのも今夜が最後。

服を脱ぎ温泉に体を入れて温める。


ふぅ…あったかい…。


ゆっくりと息を吐くと湯気が空気の通り道を作って疲れの長さを知らせた。

気持いい。

やっぱり疲れたときはお風呂に限るなぁ…。


足の先っぽがぴりぴりするのがわかった。

それだけ体が冷えていたのだ。

お湯を尺って顔を洗う。

顔面もぴりぴりとするのが解る。なんだ、全身冷えてたんだ。

湯船には白い花びらがたくさん浮かんでいた。

石鹸のような、なんだか優しい香りがうする。

イネ=ノの仕業だろうか?

なんでもいい。とても癒される香りだ。


息をはきながら夜空を仰いだ。


そこには空一面、満点の星空が広がっている。

星空ってこんなに明るかったんだ。


元の世界に戻ったらそうそうお目にかかれる光景じゃない。

それこそまるで夢を見ているかのようだ。


夢…。


夢だったら…良かった?


ここに来たこと全てが夢でふと気がつくと元の世界に戻っていて…

いつもと変わらない日常が繰りかえされる…。


ここに来たことが僕にとってプラスであれ、とイネ=ノは言っていた。


もう十分だよ。


甘い香りのするお湯で顔を洗った。


-3-


お風呂のあと、アキレスに薬湯を入れてもらい飲む。

玄米茶のような甘いせんべいの香りがする。

色は紅茶のように美しい琥珀色だ。

一口飲むと温かい液体が食道を通り過ぎて胃袋に落ちていくのが分かった。

熱いティーカップを両手で覆うようにして持つと小さくため息をつく。

明日の今頃には僕はこの世界にいないのか…。

思えば短くも長い異世界生活だった。

まどろみながらソファにもたれかかり窓の外に目をやる。

部屋が明るいせいで外の様子はここからは分からない。

だが満点の星空が、この窓の向こうで広がっている…。


これで何度目の夜を迎えるのだろう。

そして、何度目の朝がやってくる?


この世界にやって来てからの事を何度も繰り返し思い返してはため息をつく。

その繰り返しだ。

新しい事は次々と起きているのに、僕の感情は淡々とため息を付く事を繰り返しているのだ。

半馬人に追いかけられたり大勢の前で演奏したり、バイオリンで病気を癒してしまったり、

イネ=ノに会ったり…色々だ。

色々ありすぎた。

ありすぎてため息が出てくる。

そして自分の異変にも気がついていた。

この世界での出来事をありのままに受け入れられずずっと心が動揺したままなのだ。

それは日がたつにつれて増し、混乱してはパニックを起こしている。

自分はこんなにも脆い人間だっただろうか。

僕はずっと薄暗い心の中でひざを抱え現実に怯えていた。

やがて光が差し込むと願いつつそれが天の助けなのか新たなる不安の予兆なのか…。

何もかも信じられずどうしたらよいのかと当惑しては、

無理やりに自分は大丈夫だと言い聞かせている。

だが、このままここにい続けたら心が壊れてしまうのでとさえ思い怯えていた。

そう…。

そう思わせる原因の一つに、ここの世界の人たちが僕の知り合いに瓜二つである事だ。

アキレスやアスティーヤ、そしてキク=カ…。何よりもイネ=ノに関しては自分と瓜二つだ。

彼らといると妙な気分に陥る。

まるで自分を客観視しているような不思議な浮遊感。

僕はここに存在しているはずなのに、もう一人の別人格を持った僕が存在している違和感。

どれもこれも受け入れられないものばかりだ。

もし、

もしも彼らがまったく僕と面識のない顔ぶれだったのならずいぶんと違っていたのかもしれない。

だが…。

異世界での現実は無邪気な残酷感で覆われていた。

次はなに?

どんな残虐な出来事が心を突き刺す?

常に構え続けていた心はすっかり疲れきってしまっていた。


もう、たくさんだ。


もう…頼むから、休ませてくれ…。


やがて意識がぼんやりとし始める。

頭が鈍くしびれるような…歯医者で麻酔をしたようなあごが鈍くしびれる感じ。

その感覚が顔面に、手足にと徐々に広がっていく。

突然体がふわりと浮いた。

アキレスだ。

アキレスが僕を抱え込んだのだ。

お姫様抱っこと呼ばれるあの抱き方だ。

アキレスの顔がすぐ目の前に迫る。

ああ…入間だ。

入間に抱かれているような妙な気分になり思わず噴出す。

そっと僕をベットに下ろし掛け布団をそっと掛けた。

「さぁ、今夜はもうお休みくださいませ。

どうぞ良い夢を」

そう言うとアキレスはにこりと微笑んだ。


意識が遠のく。

この夜が明ければ新しい現実が待っている。

そう、新しい現実。

再び現実の世界に戻ることが出来る。


アキレスが部屋の照明を落とした。

いや、自分の意識が消えたのが先だったのかもしれない。


朝が待ってる。

この瞼の裏の闇の向こうで…。


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