表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

第十一章:凍てついた寝室

-1-

気がつくと夜が明けていた。


ベッドには柔らかく白い朝日がカーテンの隙間から差し込んでいる。

あれから暫く眠れなかった。

正直もう朝まで眠れないのかと思っていた。


だってあんな話を聞かされたら…。


正直キク=カの事はショックだった。


イネ=ノにも治せない病気に冒され意識が死んでも体は死ぬ事を許されず

ただただ永遠とその状態で苦しみ続けなければならない。

その理由は自分が犯した罪のため…。


恋敵を殺したというのもショッキングだったが

その前に父親を殺していたというのだ。

神になる、そのために。

それが代々続いているなんて…。

正直ぞっとする恐ろしい話だ。


昆虫か何かで幼虫が孵化したときに親の体を食べて大きくなるという話を

何かの辞典で読んだことがあったのを思い出す。

確かに自然界ではそういうのもありなのかもしれない。

ただ、それは生きるためだ。

それがキク=カたちにも適合するのか謎だ。

僕なんかがどうこう言ったところでどうにでもなる訳ではないが、

もしキク=カになんらかのかたちで跡継ぎが出来たとしてもそれは

喜ばしいことではない。その跡継ぎに殺されることが決まってしまっているのだから…。


もし、この世界にとどまることがあったとしたら

いずれにせよキク=カが苦しむ姿を、苦しむ様を知らされる羽目になるのだ。


おそらく元の世界に戻ったとしても心の中でずっとキク=カの存在が消える事はないだろう。


明人はどうしているだろうか。


ふと弟のことが気に掛かる。


僕がこの世界にいる間、向こうの世界ではどのように時が流れているのだろうか。

明日、元の世界に戻れることになっているが、来たときと同じ日時、場所に戻れるのだろうか。

それとも…浦島太郎のように何年も、何十年もワープしてしまうなんてこともありえるのだろうか。

こればかりはいくら考えたところで出てくる答えではないがやはり気になる。

もし、来たときから少しでも時間が掛かっていたら多かれ少なかれ誰かを心配させているに違いない。

明人も心配するだろう。

小学校高学年になってやっと体調が落ち着いてきたところで変な心配ごとをさせて

体に触ってしまったら…。

それだけが気がかりだ。

ゆっくり体を起こす。

カーディガンを羽織ると窓辺に立った。


窓の外は今日もよく晴れている。

そういえばここに来てから天気続きだ。


空気は少し乾燥していて風も冷たいがまぁまぁすごしやすい気候ではある。


こうやって静かで穏やかな朝を迎えていると

一瞬自分がどこからやって来て今どこにいるのかなんて

そんな事どうでもよくなってしまいそうになる。


けれど…。


ガラステーブルに置かれた制服や学生かばんに目をやる。


夢におぼれそうなりながらも心が叫ぶ。

やっぱり現実に、

元いた場所に戻りたい!と。

だがそれに気取れないように平静にすごしている自分がいる。


でないと歯車と歯車がかみ合わなくなり精神崩壊しそうになるからだ。

異世界に飛ばされるなんて普通ではありえない状況に置かれている、

ただそれだけでどうにかなりそうな自分が心の奥底に潜んでいる。


イネ=ノやアキレスたちの前では何事もないように笑顔を作ってみたりはするものの

やはりまったく不安がないといったら嘘になる。


正直、明日といわず今すぐにでも元いた世界に戻りたい。

戻りたい…。


大丈夫。

明日には戻れると言っているのだから

それを大いに信じたい。


信じさせてほしい。


信じなければ、

この先何を信じればいいのかわからなくなる。



「どうしました?顔色が優れませんが」


突然声をかけられ思わず飛び上がりそうになる。


その様子を察したのかすぐさまアキレスは謝って見せた。


「申し訳ありません。ノックはしたのですがお返事がなかったもので勝手に入らせていただきました」

トレーに朝食を乗せている。

イネ=ノはまた仕事だろうか?

「あ…ううん。起きてたよ。ちょっとぼーっとしてただけ。

おはよう。僕、少し寝坊しちゃったみたいだね。」

何事もなかったように笑顔を作って見せた。


「いえ…。お食事は召し上がれそうですか?」

「うん」


テーブルの上に朝食が並べられる。

温かいお茶がポットからティーカップに注がれるのをぼんやりと眺める。

お茶が太陽の光を反射しながら白くキラキラと輝いていて

思わず意識がそこに吸い込まれそうな感覚に陥る。

礼を述べると紅茶を一口すすった。

ほんのり甘い柑橘類の香りがする。

「今日はイネ=ノと出かけることになってるんだけど…」

「ええ、伺っております。

朝食が終わりましたらイネ=ノ様が向かえにいらっしゃいますので」

「解ったよ。」


今日は秋桜ちゃんに似た人に会いに行くことになっている。

昨夜、といってもつい数時間前のやり取りを思い出す。


「天秤座守護神アスティーヤ。それが彼女の名前だ。」

「アスティーヤ…」

口の中で小さくつぶやく。

「そのアスティーヤっていう人も…村であった人たちみたいな病気にかかっているの?」

「ああ…。それも少し重い。もうすでに失明している。

その病気のせいで別の精神症状がでてきていてね、

そこで君のバイオリンが役に立たないかと

思ったんだ。」


正直キク=カの事もそうだがアスティーヤのことも眠れなかった要因の一つだ。


ティーカップを持ったままその名前をつぶやいていた。

慌てて、何事もなかったように熱い紅茶を一口、わざとらしく啜る。

別人だとわかっていてもきっとキク=カと明人のように瓜二つなんだろう。


天妙寺秋桜とは正直ちゃんとした会話をした事はほとんどない。

挨拶程度だ。

家の廊下や玄関で会うたびに僕から挨拶をしていた。

すると蚊の鳴くような小さな声でうつむきながら彼女は挨拶に答えてくれる。


それ以上の会話をしたことがない。

ただ、それ以上に得るものは毎回あった。

そう、それ以上に僕が彼女に引かれているもの。

彼女のピアノの音色だ。

優しく今にも消えそうな淡い水彩色の音色をつむぎだす彼女に

僕は気がつくと心を奪われていた。

もっと知りたい。

彼女の事を、もっと知りたい。

あの音色を奏でる少女はどんな言葉をつむぎだすのだろうか?


でもきっかけがなかった。

個人レッスンだし僕も学校があったりで

時間を毎回彼女のレッスンに合わせられるわけではない。

だから昨年の冬に行われたピアノの発表会は正直チャンスだと思った。

横浜にあるホールでそれは行われ、

もちろん僕も行って彼女の演奏をしっかりと聞いてきた。

そこで一言、演奏素敵だったよ、

と言いたかったのだが…言えなかった。

タイミングがつかめなかったとしか言いようがない。

話そうとすると誰かが僕に話しかけてきたり、

逆に秋桜ちゃんに誰かが話しかけたり。

そうこうしているうちに気がつくと彼女を見失っていた。

結局年に一度のチャンスを僕は逃してしまったのだ。

せっかくゆっくり話が出来る絶好の機会だと思ったのに…。


ああ…今年こそは…。


気がつくとにやけている自分に気がついた。


まったく…何をやっているんだか…。


朝食後暫くしてイネ=ノが部屋に迎えに来た。

昨日と同じ紫色のロングコートのような服に白く大きな襟。

胸に大きな石のついたブローチをはめている。

「その服、似合うね」

思ったとおりの感想を述べた。


「ありがとう。これが僕の仕事着だよ。」

「え?白衣じゃないんだね」

「白衣?」

「僕の世界では医者は白衣って言って白い服を着るんだ。」

「そうか…もちろん処置するときはこの服じゃないけどね。

あ、君には白衣を着てもらうよ。もちろん顔も昨日と同じようにね」

そう言ってイネ=ノはウィンクをして見せた。


そんなこんなで僕はまた桜倉先輩の顔になっていた。

異世界人の僕がこの世界にいる事は他の誰にも秘密なのだから。


「アスティーヤの前でもこの顔?」

白衣の襟を正しながら言った。

「いや…そのときは昨日みたいに戻してあげるから安心して。

あ、バイオリンも忘れずにね。」

「うん。今日はもう弾く曲を決めてあるんだ。」

「どんな曲だい?」

「明るい曲だよ」

にこりと微笑んでみせる。

「僕も楽しみだよ。

さて、今日は飛んでいこうか?」


「え?飛ぶって?」


と、イネ=ノの体が一瞬まばゆい光に包まれたかと思うと、

一番最初に出会ったあの、上半身は人間、下半身は馬の姿に変わっていた。


解っていてもやはり驚いてしまう。


「風も気持良いし竹人、宮殿の外を見たがっていただろう?

さぁ、僕の背中に乗って」

そういいながら足を折り屈んでみせる。


「あ…じゃあ…失礼して」

バイオリンケースを肩に引っ掛けるとイネ=ノの肩に手を突きながら

背中にまたがるとイネ=ノはゆっくりと立ち上がる。


先日同じ半馬人の背中に乗っていたのよりも少し高く感じたのは気のせいだろうか。

それに、自分の体が風のように軽く感じるのだ。

「じゃあ、しっかりつかまっててね。」

そう言われイネ=ノの両肩をつかんだ。


誰が開けたでもなく、自然とバルコニーに続く扉が開く。

冷たく透き通った風が部屋に一気に流れてきた。なんとも心地が良い。

外に出ると庭で咲いている花の甘い蜜の香りが香ってくるのがわかった。

イネ=ノが天を駆け上がる。

ふわりと羽が宙を舞うようにまるで自分が空を飛んでいるような感覚を覚えた。


「わぁっ!」


思わず声を上げる。


気がつくと先ほどいたバルコニーがまるでおもちゃの模型のように小さく見えていた。

そして宮殿が一望できて驚いた。

宮殿一つが花のような形をしているのだ。

薔薇のような花の形をしていて僕がいた部屋は花びらの一部分に当たる。

ガラス色をしていてその花が宙に浮いているのだ。

なんとも不思議で幻想的な光景である。


空と花のずっと下のほうには果てしなく草原が広がっていて所々に村や集落が見える。

川は流れ地平線のかなたまで続き何か大きな動物の群れが走っているのが見えた。

空はガラスのように透き通っていて青く気持ちがよい。

上空では強い風が流れているのかと思っていたのだがそれほど強くはなく

また寒くもなかった。

むしろ、イネ=ノの体に触れていると体全体が温かくなっているのがわかった。


考えてみたらイネ=ノは神様なんだ。

その神様の背中にまたがって飛んでるって、実はかなりすごい事なのでは…。


「どうだい?これが見たかったんだろう?」

「うん!すごいよ!!こんな景色生まれて初めて見たよ!!

すごいなぁ…」

「ところで、竹人。アスティーヤの宮殿に行く前に話しておくことがあるんだ。」

「え?」

「アスティーヤの心が壊れた原因さ。

またキク=カのときみたいに混乱させたら申し訳ない。

少しだけ話しておくよ」

「………」

「アスティーヤは強い裏切りにあったんだ。

アスティーヤは争いをとても嫌う人だったんだが

民が戦争を始めてしまったんだ。

なんとか彼女は止めようと必死だったんだが願いは叶わず…。

自分が信じていた人たちに裏切られた。

そこで心に深い傷を負ってね…。

人を信じられなくなってしまったんだ。

何百年もの間宮殿に閉じこもってしまって、そのせいで下界は荒れるばかり。

最近になってやっと僕と会う事を許してくれてね…。

だが予想以上に病状が深刻だ。

もう寝たきりな状態が数百年続き零れ落ちる記憶はなんとか食い止めているものの

先に失明して光を失ってしまった。

この病気を君は楽器一つで治したと聞いてね、ぜひアスティーヤにもその力を借りたいと思ったんだ。」

「…そんな事が…。」

思わず息を飲む。

人の裏切りによって心が壊れ何百年も引きこもってしまっていたなんて…。

何故だろう、どこかしら秋桜ちゃんと重なるところがあった。

秋桜ちゃんが僕をなんとなく拒絶しているような、そんな気もしていたからだ。


「あそこに光の門があるのが見えるかい?」


イネ=ノが指差す方向を見ると、

そらに丸いドーナツのような光の輪が浮いているのが見えた。

それも一つじゃない。

あちこちにところどころと、昼に輝く星のように点在している。

時折キラキラと光を放っているみたいだった。


「あの中をくぐるよ。ちょっとまぶしいから目を閉じたほうがいいかもしれない。

じゃあ、行くよ?」

イネ=ノのスピードが急に上がり光の輪に近づく。


近づいてみると思った以上に大きく金倉の鶴岡八幡宮の鳥居の倍ぐらいはありそうだ。

リングの光が太陽のように強い光を発していて輪の先はまぶしすぎて何も見えなかった。

あまりのまぶしさに目が痛い。

思わずぎゅっと目を閉じうつむく。

それでも瞼の向こうから強い光が差し込み痛みを伴うほどだった。

片手の腕で目元付近を覆う。


やがて…どれくらい立っただろうか、耳元で流れていた風の音はいつしか止み

静寂に包まれた。


「ついたよ」

イネ=ノの合図でそっと目を開ける。


外は明るかった。


空は先ほどと変わらぬ青空、

林や花が咲き乱れる美しい場所だった。


ただ、木や花々はガラス色で角度によって七色に光を放ち美しかったが

どこか冷たさを含んでいるような気がした。

少し離れたところに小さな宮殿のような建物が見える。それもやはり

ガラス色で出来ていた。


ゆっくりとイネ=ノの肩から降りて地に足をつけた。


「ここは?」


「天秤座守護神のいる宮殿、の庭さ。」


「綺麗だね…」

ゆっくりとあたりを見回した。

確かに綺麗だ。

だが…。

ガラスは綺麗だが冷たく感じる。

そう、まるで氷のようだ。


ためしに足元に咲いていた花にそっと触れてみると一瞬その冷たさに驚いたが

よくよく触ってみると氷ほどまでの冷たさはない。

ただ、ガラスのような冷たさはあった。


そう…花なのに、草なのに、

冷たいのだ。

いるだけで体温が下がり寒気を覚えるようなそんな冷たい世界。


思わず身震いして鳥肌が立っているのに気がついた。


イネ=ノの体がふわりと光り人間の姿に戻る。

なんだろう…イネ=ノの紫のコートとこの世界の色が妙にマッチしている。


「これもアスティーヤのせいなんだ」

「え?」

「この世界全てはアスティーヤの守護下にある。

アスティーヤが体調を崩せばこの世界にもなんらかの影響があるってことさ。

植物や木はすべて色を忘れてしまっているんだ。

もう何百年もこの状態が続いている。

下界はもっと寒いよ。

雪が深くて作物が育たない。

人々が飢えて死ぬ一方それでもまだ戦争をやめようとしない。

これじゃいつまでたってもアスティーヤは宮殿から出てこないだろう」


雪…。確かにこの世界は冬の色をしている。

雪こそ降っていないがとても寒い。

つまりアスティーヤの心が雪のように冷たいという事なんだろうか。


宮殿に向かって歩を進める。


イネ=ノの宮殿よりもずいぶんとこじんまりしている。

「思ったより小さいんだね、天秤座は」

「え?ああ…ここはアスティーヤの寝室だよ。

この庭もアスティーヤの部屋の中なんだ。宮殿は…そうだね

僕やキク=カよりは小さいかな?守護する星の数が少ないからね。

でもとても美しい宮殿だよ。あとで見るといい」


そうか…そうだよな、宮殿がこんなに小さいわけがない。

ただ、寝室にしてはでかすぎる気がした。

やっぱりそこは神様なんだ…。


やがて宮殿の前に立つ。


白っぽく冷たいガラス色をした半円型のドーム状で頂上部分には水晶の花のようなものが付いている。

入り口はドアではなくカーテンが掛かっているだけだった。門番はいない。

イネ=ノがそっとカーテンをめくる。

僕もその後を続いた。


-2-


中は雪で出来たかまくらのように真っ白な世界に包まれていた。

あまりにその白さがまぶしくて思わず目を細める。


少しずつ目が慣れてくるとやっとのことで部屋の全体を把握する。

とても殺風景な部屋で、壁や天井や床は全て白で統一され人工的な光に包まれていた。

円形の部屋の中央にやはり円形の寝台があって、そこに真っ白いドレスを着た女性が横たわっていた。

布団は掛かっていない。

まるでガラスの棺に横たわった人形のようにも見えた。

イネ=ノの後ろを歩きながらその寝台に近づいてゆく。

そこではっと息を飲んだ。


体が真っ白なのだ。

ただの色白ではない。

石膏のように白い。色素のない銀髪の長い髪が伸び、ぴくりとも動かない人形のように眠った

美しい少女が横たわっていた。

唇も肌の色と同様真っ白だ。


これは…石膏でできた人形?!

思わずそう聞きたくなるところをぐっとこらえた。


「おはよう、アスティーヤ。よく眠れたかい?」

イネ=ノがそっとアスティーヤの白い耳元で囁いたがしかし反応はない。

心配になって思わずイネ=ノの顔を見る。

大丈夫だよ、と言う表情を作ってイネ=ノは両手の平をうえにし、軽くおわんを作るような形を作ると

そこからふわりと光が生まれた。

「今日は蠍座から綺麗な花を持ってきたんだ。とても香りの良い花だよ。

気に入ってくれると良いんだけど」

手のひらからふわりと花びらが溢れ出た。

桜色の美しく大きな花びらだ。

次の瞬間竹人のところまでその甘い香りが漂ってくる。

香りが薔薇に似ている。

母親が使っていたシャンプーととてもよく似ている。

花びらはつぎつぎとイネ=ノの手から溢れ出ると

まるで自らの意思を持ったみたいに蝶のようにひらりひらりと宙を舞いやがて

眠るアスティーヤの胸元に落ちていった。


むせ返るような優雅な薔薇の香りが部屋いっぱいに広がっていく。


『おはよう、イネ=ノ。いい香りね。有難う。』

突然天井から声が聞こえたような気がした。


あ…この感覚…

キク=カと同じだ。


キク=カも口を動かして直接は話していなかった。

なんだろう…テレパシーとでもいうんだろうか…。


しかしこの声…。

思わず心臓がどきんとなる。


声が秋桜ちゃんそっくりだったからだ。


「昨日少しだけ話しただろう。不思議な楽器で美しい音色を奏でてくれるお客様を

お連れしたよ。さぁ、竹人。」

そう言って横たわるアスティーヤの傍まで案内された。


…昨日?


「あの…はじめまして、射川竹人です。」

『イカワタケト…素敵なお名前ね

イネ=ノからお話は伺っています。異世界からいらしたの?』

「はい…。地球という星の日本という国からきました…」

思わず緊張して声が上ずる。


近くで見るとやはり石膏で出来た像のように見えてしまう。

それか、もしくは真っ白いフランス人形のようだ。

白く長いまつ毛が人形らしさをさらに引き出している。

確かに顔は秋桜ちゃんに似ている。ただここまで肌や髪の色が違うとやはり

違和感が残る。

だが、声は秋桜ちゃんそっくりだ。

それが余計に僕を緊張させてきるのかもしれない。

こんなに長い台詞を秋桜ちゃんの口から直接聞いたことがないから。

「竹人。早速だけど」

そういいながら僕に演奏するように促す。

テーブルも台もないので

床にバイオリンケースを下ろすと早速演奏の準備に取り掛かった。

なんだろう…緊張する。


そういえば秋桜ちゃんの前でバイオリンを弾いた事はない。

秋桜ちゃんがレッスンを受けているときに自分の部屋で練習した事は何度かあったけれど…。

だからひそかに夢がある。

秋桜ちゃんのピアノ伴奏で僕がバイオリンを演奏。


思わずとろんとにやけていることに気がつき慌てて咳払いをしてそれを追い払う。


バイオリンを肩に構えた。


「じゃあ…はじめます。」

すっと弓を構え息を吸った。


今この寝室に、庭に、宮殿に、そしてこの少女に必要なもの、

訪れてほしいものは何かと考えた。


そう、春だ。


最初ベートーヴェンのバイオリンソナタ「春」にしようかと思ったが

無伴奏ではちょっと僕の技術じゃカバーしきれないところがある。

では、ほかに春と言って思いつく曲といえば?

誰でも一度は耳にしたことがある

ヴィヴァルディの協奏曲集“四季”の「春」だ。


弓を弦に引っ掛け演奏を始めた。


華やかに春の喜びをうたい小鳥たちはさえずる。

花は咲き誇り春の柔らかな優しい光が世界を包み込む。


明るい春は寒い冬で凍てついた人の心をも優しく照らし出す。


一緒に、春を喜ぼう。


ほら、

綺麗な花が咲いてる。


小鳥たちが歌ってる。

この音色、

この響き、

この春の音色が、

君には聞こえるだろうか?


春は暖かく優しい。

けれど、

その春を迎えるために必要なものもある。


やがて空が曇りはじめ風が生まれれる。

世界は灰色に包まれ一面重たく厚い雲に覆われる。

そして雷が鳴り響く。

春雷だ。

雨と雷が入り混じり世界は一変する。


けれど、

その雲が流れ去った後の美しい景色を君は知っているかい?


美しい虹が潤った大地に掛かる。


ここだよ。

春はここにいるよ。


虹の向こう。


この虹を超えたすぐ向こう側で春が待ってる。


君と一緒に歌いたい。


春を、一緒に歌わないかい?


君の瞳の色を知りたいんだ。


君が微笑んでくれるのなら、

僕はそれ以外に何も望まない。


どうか、

どうかこっちを振り向いてほしい。


君の声を聞きたいんだ。


君の歌を聞きたい。


君の瞳を見つめてみたい。


どうか…。


願いをバイオリンの旋律に託した。


春は3楽章から成る。

少し曲調の暗い第二楽章を飛ばし第一楽章と第三楽章を演奏。


続いて秋も第二楽章を飛ばして演奏した。


いずれも華やかな曲だ。


彩り鮮やかな優しく暖かい、けれど

これから暖かくなる春、旬の恵みを向かえ冬に向かう秋の暖かさは違う。


どちらでもお好みの色を君にあげよう。


さぁ、手を出して。


この音色が見えるかい?



華やかな曲を弾き終わった後、なぜか胸が熱くなっていた。

なんだろう。

春と秋の色が胸の中に飛び込んできたような、そんな暖かく優しい気持になれる感覚だ。


「アスティーヤ!!」

イネ=ノが叫んだ。


見るとアスティーヤの目からぽろぽろと涙がこぼれている。

これはメグサのお母さんのときと同じ?!優しい記憶が零れ落ちてしまっているというのか?!

何故?!

メグサのお母さんはバイオリンの音色を聞いて涙が止まったのに

何故逆に涙が流れるんだ。

思わず慌ててベッドの脇に駆け寄り様子を見張った。

「アスティーヤ、どうした?」

切なそうに彼女の耳元でイネ=ノが問う。

しかし返事はない。

ただぽろぽろと、とめどなく涙は零れ落ちシーツがぐっしょりと濡れだした。

タオルか何かを?!と思わずあたりを見回すがそのようなものはない。

気休めにしかすぎないけど、とバイオリンケースからバイオリンを拭くときに使う布を取り出すと

枕元にそっと置いた。

そこで涙が氷水のようにつめたい事に気がつく。


「……あ……」

思わず声が漏れる。


ただただ白でしかなかった肌が急にほんのりと

紅さを取り戻し始めたのだ。


「…奇跡だ…」

イネ=ノがつぶやく。

顔色は白から肌の色へとふんわりと移り変わり

ただただ石像のようにつめたい色をしていた細い腕や指先にもその色が及ぶ。

部屋に外からの風が吹き込むと枕元に散らしてあった薔薇の花びらが一斉に

ふわりと香った。

そして、

アスティーヤの瞼がそっと開く。


「アスティーヤ!」

イネ=ノがそっとアスティーヤの肩に手を置く。


涙でキラキラとガラス玉のように輝く瞳が見えた。

ブルーの…南の島の青い海のように透き通った深いブルーの瞳だった。

ずっと見ていると思わずその美しさに吸い込まれそうになる。


やがて血色を取り戻した桜色の唇がそっと震えた。


「有難う、竹人」

女神が優しく微笑んだ。


突然その言葉に僕の瞳から大量の涙がブワッと溢れ出した。

鼻の奥がツンと痛く、息ができない。


体が小刻みに震える。

鳥肌が一気にたつのが解った。


なんだ!?

なんだこれ?!


解らない。


体が熱い。

すごく…

燃えるみたいに熱く心臓がドクドクと脈打ち…息もできないし…なんなんだこの感覚…!!


一瞬目の前が真っ暗になったところでイネ=ノに体を支えられる。


「大丈夫かい?」


「ごめ…なんか…体が…」


「そうか…わかった。君は…」


そこでイネ=ノの言葉が途切れた。


いやイネ=ノが言葉を切ったんじゃない。

途切れたのは僕の意識のほうだった。


-3-

甘い香りがする。

これは…薔薇?

そうだ、薔薇の香りだ。


ああ…なんだろう…なんだか心地よい。


ずっとここで眠っていたいくらいだ。


ゆっくりと体を横にし寝返りを打ったところではっと目が覚める。


視界には真っ白な世界が広がっていた。


え?


ゆっくりと体を起こす。


天井も真っ白…ああ…ここはアスティーヤの部屋…って、え?!


思わず飛び起きる。


アスティーヤが先ほどまで眠っていた寝台に今度は僕が眠っていたのだ。

掛け布団のようなものがかけられ

枕元にはたくさんの桜色した薔薇の香りの花びらがたくさん散らしてあった。

床に落ちているのもたくさんありなんだかここだけロマンチックな空間になってしまっている。

イネ=ノたちは?

慌てて部屋を見渡すが室内には誰もいない。

カーテンが風で微かに揺れていた。


立ち上がると部屋の外へ飛び出した。


?!


思わず息を飲む。


先ほど、来たときのガラス色の景色ではなく、

まるで水彩絵の具で書いたような色鮮やかなパステル調の景色が世界一面に広がっていたのだ。


色とりどりの美しい花、

青々と茂る木々、鳥のさえずり、青い空…。


一体何が起きたというのだろう。


「竹人―!」

背後から僕の名前を呼ぶ声がして振り返る。


宮殿の脇にイネ=ノとアスティーヤが立っていた。


「え?!」

アスティーヤを見て驚いた。

先ほどの石像のような姿とはまるで別人のように血色がよく

生き生きとした優しい表情で僕をみて微笑んでいたのだ。

髪の色も薄く青みがかり色素が戻ってきていた。

横になっているときは気がつかなかったが立ってみると秋桜ちゃんよりも背が高く、

僕と同じかそれよりも少し高い。

それに秋桜ちゃんより少し大人っぽいような感じがした。


「竹人、具合はどうだい?」

イネ=ノとアスティーヤがゆっくりとこちらに歩み寄りながら言った。


「うん…大丈夫。すいませんでした」

そういってアスティーヤのほうに軽くお辞儀をしてみせた。

「私の方こそあなたにお礼を言わなくては。

本当にどうも有難う」

上品にそっと微笑んで見せたアスティーヤのその笑顔が秋桜ちゃんと重なって見えて

思わずまた胸がドキンとなった。

アスティーヤはにこりと微笑むと僕の手をきゅっと握って見せた。

白く柔らかい手はとても暖かいぬくもりを持っていた。まるで先ほどとは別人のようである。


「あの…、アスティーヤはもう大丈夫なの…?」

「いや…さすがにいきなり完治は難しいよ。

これから少しずつ治していかなければ。ね。」

そういってイネ=ノはアスティーヤににこりと微笑んで見せた。

アスティーヤも微笑み返す。

僕と秋桜ちゃんがにこりと微笑み合っている…

なんとも不思議な光景だった。

それはかつて僕が望んだ光景だったのかもしれない。

まだ僕の中ではそれは現実化していないが、

絵本の世界で空想画を眺めたような、そんなぼんやりとした淡い夢の現実が目の前にあった。

「実を言うと昨日もかなり危険な状態だったんだ。

気休めの処置しかできなくてこれからどうしようと悩んでいたんだが…

やはり君を呼んで正解だったよ。

僕からも例を言わせてほしい。

本当にどうも有難う。」

イネ=ノはにこりと笑顔を作る。

ああ…そういえば先ほど“昨日も”と言っていた。

昨晩、夕食の途中で指輪がナースコールみたいに点滅してイネ=ノが慌てて出かけたのは、

そうか、アスティーヤの容態が悪かったんだ。

それにしても…さっきまで何百年も病に伏せていた人が今は普通に歩いてにこにこしながら

会話を楽しんでいる。

奇跡だ。


僕のバイオリンの力を僕自身が信じられない。

だがしかし奇跡は今目の前で起きているのだ。

信じるしかないようだ。

しかし不思議なものだ。

それほどの重病患者を治せる力がいつの間にか身についていながら

自分の世界に帰ることは叶わない。

ちょっと油断すると僕は自分の世界のことばかり考えていた。

帰りたい。

そう…元の世界に。

夢のような世界の中でさらに淡い夢を眺めるのも正直悪くはないかもしれない。

だが…やはり…願いは最初から一つしか存在していなかった。


「竹人こそ大丈夫なのかい?いきなり倒れたから驚いたよ。」

「ごめん…なんか急に…」

「疲れているだろう。早めに帰って休んだほうがいい。

まだ顔色もあまりいいようには見えないし。

帰ったら薬湯を上げよう。それにもう少し横になったほうがいいだろう。


じゃあ、アスティーヤまたあとでくるからそれまでゆっくりしているといい。」

イネ=ノが手のひらから蝶を出した。

あのガラスの羽を持つ蝶だ。


「何かあったらまたこの子に言ってくれ。すぐに駆けつけるから」

「ええ…ありがとう」

そう言ってアスティーヤはイネ=ノの頬に軽くキスをした。


思わず顔が熱くなる。

変な汗が出てくるのも解った。

なんか、すごく目に毒な物をみていしまったような罪悪感である。


「イネ=ノ。あなたのおかげで私は色を取り戻すことが出来たわ。

あとは少しずつ下界の雪が解けるのを見守って生きたい。これもあなたのおかげよ。

何百年もずっとあきらめずに宮殿の扉を叩いてくれた事を本当に感謝するわ。」

「とんでもない。君は僕にとって大切なかけがえのない人の一人だ。

こうしてまた君の瞳を見つめながら会話できているのが本当に夢のようだよ。」

目を細めながらイネ=ノが微笑む。

途中からこの二人のやり取りを見るのが

何だか恥ずかしくなってきてしまって思わず目を逸らしている僕がいた。

するとアスティーヤはこちらに向き直る。

「竹人、本当に有難う。あなたの力には本当に感謝しています。」

「いえ…でも本当に良かったです…。」

思わず顔が熱くなる。

「明日帰ってしまうのね。せっかくお会いできたのにとても残念な気もしますが

お引止めするわけにもいかないわね。

お見送りにはいけないけれど気をつけてね。

どうかお元気で」

次の瞬間、左頬に温かく柔らかい唇の感触を受ける。


うはっ!

視界が白くぼやける。

顔が熱い。

心臓の鼓動がリアルに耳に届いてくる。


彼女からの褒美によって意識がまた吹っ飛んだのは言うまでもなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ