暗殺者は騎士になる
この物語が、騎士になれなかった哀れで薄汚い暗殺者の話だという人がいる。
この物語が、狂って幽閉されたかわいそうな亡国の姫の話だという人がいる。
もちろんどう捉えるかは話を聞く側の自由なのだが、ということは話し手にもその自由は与えられているってことだ。
だからオレはこう言っとこう。
この物語は、幽閉された姫が立派な女王になるまでの物語で、薄汚い暗殺者がずっと夢見た騎士になるまでの物語だ、と。
* * *
「僕、大きくなったら騎士になるんだ!悪いやつから女王様をお守りするんだ」
よせよせ、とか。なれるわけねえだろ、とか。そんな声に耳も貸さずに、少年は騎士になろうと思っていた。
努力は必ず報われる、とか。夢は諦めなければ叶う、とか。そんな寝言を言っていた。
あれから十年。
騎士になるどころか、まっとうな仕事にすらつけなかったオレは、暗殺者に身を落としていた。
暗殺者。かっこいいと思われた方は、きっと正義とか人民のために悪党を殺すような奴を想像しているんだろう。
オレは違う。ただの暗殺者ではなく、最底辺の暗殺者だ。
金をもらえば誰でも殺す。そこに主義も忠義もなく、前の雇い主を殺したことすら何度かある。
もちろん技術も大したことはない。ターゲットの家の使用人とかに金を渡し、閂を開けといてもらっったり、抜け道を作る。そしてそこからコソドロのように侵入して、命を奪うのだ。
なにより少しでも捕まるリスクのある仕事は受けない。
「…………の…………………は姫………」
オレは何をやっているんだろうと考えていた脳が、暗殺の仲介人の「姫」という語に反応した。
「おい今なんて?」
「はあ?聞いてなかったのかよ」
まったく。未練たらしい自分が嫌になる。
暗殺者として生計を立てる他ないというのだから、集中しなくては。
「信じられねえのも無理はねえ。今回の暗殺対象は……この国の、姫だ。といっても幽閉されてる第二王女の方だがな。依頼主はさる高貴なお方」
仲介人の声に、オレはため息をつく。
……この国も終わりか。
こんな依頼がまわってくることからも分かるように、250年続いたこの王国は今、音を立てて崩壊しようとしている。
圧政、重税、強制労働、投獄、徴兵、度重なる戦争。
民衆の不満は革命という形で爆発し、今や副首都を攻め落とそうという程だ。
騎士に憧れた少年は暗殺者に身を落とし、憧れの騎士団は革命軍に連戦連敗。
ままならぬのが浮き世の常ってな。
「どうする?やっぱ危険だしやめとこうか」
オレが即答したのは、ニヤニヤと笑う仲介人にムカついたからじゃない。
きっとどんな形であろうと、どれだけリスクがあろうと、王族に関わりたかったからなのだ。騎士として仕えたかった王族に。
まったく。我ながら本当に未練たらしい。
「受けるさ。姫殺し」
殺したやつから奪ったタバコを吸って、よく味わって吐き出す。煙は高く高く上がっていき、やがて見えなくなった。
* * *
はめられた。
姫が幽閉されている塔への侵入。
流石に使用人を金で買収というわけには行かずに、せっせと地下水道の一部を掘って通路にしたのだ。それで近くの庭に出たのはいいが、すぐに捕まってしまった。
もはやこの地下牢の薄暗い灯火よりも、オレの命はかき消えそうだった。
今回オレは人の手を借りていない。裏切るとしたら、あの仲介人しかない。……あの野郎。
フーッとタバコでも吸ったかのようにに息を吐き出す。この依頼で終わったのは、この国じゃなく、オレの命運か。
大事なところで考え事をするのは夢を叶えられなかった者の習慣だ。
センチメンタルに浸っていたせいで、オレはその人物が地下牢まで降りてきたことに気づかなかった。
「私に仕えなさい」
暗殺対象であった、幽閉されし第二王女はオレに唐突にそう言ったのだった。
その顔には格子ごしでも分かるほどはっきりと、残酷さとあどけなさが刻まれていた。
何を言われているのかわからなかった。
自分を殺そうとした暗殺者を部下にするつもりか?そもそもオレを部下にしてどうしようと言うんだ?
驚きが、オレの生殺与奪を相手が握っているということを忘れさせた。それ故反射的に本音が出た。
「嫌だね。どうせこの国はお終いだ」
言ってから失敗したかと思った。ここは姫に仕えるフリだけでもしとけば、命だけでも助かったかもしれないのに。
だが同時にまあ良いかとも思った。王族と会話しているという事実が、オレを興奮させていたのだ。
「ええ。だから私に付けと言っているの」
まるでオレが姫に仕えたら、何かが変わるような言い分だった。
興奮が少し冷めたが、それでも何を意図しているのかわからなかった。
「革命軍のリーダーでも暗殺するか?顔も名前も割れてねえし、無理だろ」
呆れたように言ったオレに対し、彼女は淡々と返した。そう淡々と。
「いいえ。貴方に依頼する暗殺対象は」
王よ。
彼女は自分の父である、国王を殺そうというのだ。
空気が凍った。いやこの場に二人しかいないことを考えると、姫がオレを凍らせたと言ったほうが良いかもしれない。
このときになって、幽閉されていた意味がわかった。この姫は確かに狂っている。
「私が王になるの。革命なしに、この国を変えてみせる。あなたも暗殺に成功すれば、騎士にしてあげるから、どう?」
断ろうと思って、姫と目があった。
その顔は侵入して以来初めて見た、年相応の不安と期待を抱えた顔で、こころなしか震えているようにも見えた。
はあ、とこの暗殺依頼を受けた時よりため息を深くつく。
この姫は狂っているのかもしれないけどさ。父親を殺して女王になろうという姫が狂っているとされるなら。
その昔高潔な騎士に憧れて今なお憧れている、薄汚い暗殺者だってやはり狂っているのだから。
狂ったもの同士仲良くやろうか。
* * *
「それで。あんたが王になれば、革命は収まるのか?」
「交渉するわ。革命軍の指揮者は優秀だから、わかりあえるはず」
あれからというもの姫は、罪人の取り調べと目して、毎日のように地下牢を訪れた。元々姫の護衛という名目の監視が数人いるだけなので、楽に身動きできるらしい。
そしてオレに、女王になるための計画を長々と語ってくれるのだ。
「もし交渉に失敗したら?」
「私が騎士団の指揮をとって潰すわよ。そもそも今騎士団が負けているのだって、無能な王のせいだもの」
姫はいつだって自身と希望に満ちて、堂々と胸を張って計画を語った。
女王然としたその姿はオレから最も遠く、しかし実際はとても近いものだった。
「ところで姫様、一つ確認しておきたいんだが」
「なに?」
オレはどうにも引っかかることがあった。
オレが王を殺したとして、王位継承者は第一王女。よほどのことがない限り、第二王女は女王になれないのだ。
そう、よほどのことがないかぎり。例えば王を暗殺した下手人を捉えるとか。
つまりオレの立てた仮説はこうだ。
姫はオレに王を殺させて、その上でオレを捕まえることで女王になろうとしているのではないか。
「あら。意外と頭が回るのね」
別の人を下手人にしたて上げるしかないわね、と渋々言う。
その態度はふてぶてしく、後ろめたさなど微塵も感じていないようだった。
女王としてはもしかしたらこういう人のほうが相応しいのかもしれないが。
ため息を付いたあとで、最近はため息ばかりだなと苦笑する。
ため息をつくと幸せが逃げるというが、オレはそんなもんを持ってないから大丈夫か。
「もう裏切られるのはゴメンなんでな」
「うん?最近誰かに裏切られたの?」
そうじゃねえとあんたに捕まってねえだろうが、と言おうとして一つの可能性に思い至る。
壮大に騙されている可能性に。仲介人が裏切っていない可能性に。
「あんたか……?」
姫はそれには答えずに、しかし白い歯を見せて微笑んだ。
なるほど、この姫は確かに狂っている。
自分で自分の暗殺依頼をしやがったのだ。
仲介人に依頼して、オレが自分を暗殺するように、差し向ける。そして待ちぶせして捕らえる。なんて計画だよ。
オレは久しぶりに声を上げて笑った。
騙されきっていた自分がおかしいのか、賢く狂ったこの姫がおかしいのか、それとも自分たちの運命がおかしいのか、よくわからぬままとにかく笑った。
* * *
「そろそろ牢屋から出してくんねえか?」
姫が牢屋通いを初めて三日が経つので、そう言ってみた。
「あら、いいわよ。だけど貴方もちゃんと、私をこの幽閉塔から出してね」
この姫は何年、幽閉塔に入っていたんだろうか。
信用できない使用人と兵士に囲まれて、つまり一人でずっと過ごしてきたんだろうか。
父親や母親とも会わずに、ひとりで。
「あんたは、なんで幽閉されてんだ?」
一瞬、間があった。
オレが姫に絶句させられることは度々あったが、姫がオレに対し言葉をつまらせたのはこれが初めてだった。
「……ままごとが好きな子供だったのよ」
答えになっていないようなことを、小さな声でそういった。いつものふてぶてしさが形骸化してしまうように、うつむいたまま。
誤魔化すように、悔いるように、恥じるように、そう呟いた。
「へえ」
なにかしら言おうとした感想を飲み込んで、問そのものをなかったことにする。
オレが騎士でいるために、姫には女王であって貰う必要がある。その威厳を失わせるなんて、騎士としてもってのほかだ。
「約束するよ、アンタをこの幽閉塔から出してやるって」
姫はどこかに哀愁を感じさせながら、それでも嬉しそうに笑った。
牢屋っていうのは内から外を守るものだと思われがちだ。凶悪な犯罪者から善良な市民を守るように。
だが、実際のところ、外から内を守る効果もあるということを忘れてはならない。犯罪者に向けられる集団の悪意から、犯罪者を守っているのだ。
この幽閉塔が、姫にとって牢屋だったのは間違いない。
だが世間が姫から守られていたのか、姫が世間から守られていたのか。
……ふん。どうでもいいか。
オレは悪いやつらから姫を守るだけだ。そのための騎士なんだから。
* * *
牢屋から出してもらったオレは、姫と毎日毎日話していた。
革命軍のこと、王の暗殺のこと、姫が女王に即位した後のこと、オレが騎士になった先のこと。
「辺境伯に手紙を書いたわ。味方になってくれるかも」
「側近に変装して、王に近づく。変装は得意なんだぜ」
「女王になったらまず政治改革が必要ね。あと税制も」
「革命軍は烏合の衆だ。一回崩れれば、打ち負かせる」
「宰相を味方につければほとんど王の権力を奪えるわ」
「貴族のボンボンにはやれねえ殺し方でやってやるぜ」
毎日毎日飽きもせずに、輝かしい未来を語り合った。
オレにとってそれは十年ぶりのことで、姫にとっても同じかもしれなかった。
人は大人になるにつれて理想を語れなくなる。理解してくれない周りの意見に影響され、諦めたり隠したりするようになる。
オレは姫の理解者で、姫はオレの理解者だった。
そんなふうに語り合っていたある日、姫が突然こう言った。
それはオレもいつか言葉にするべきだと感じていたことだった。
「ねえ、貴方。私のことが好き?」
オレはほんの少し迷った。この姫とこれからもこうして話せたらどんなに幸せだろうかと、そう思ったんだ。
姫という身分も暗殺者というレッテルも捨てて、革命軍も騎士団も手の届かない遠くに逃げて、二人で永遠に語りたかった。
だが姫とオレは理解し合っている。互いが捨てていいもの、捨てられないもの。
姫は捨てて良くても女王は捨てちゃいけない。暗殺者は捨てて良くても騎士は捨てちゃいけない。
今の身分より、なりたいものの方が遥かに大事で捨てるわけにはいかない。
なあ、そうだろ?だからさ、しょうがねえんだ。
「……嫌いだよ」
姫はその答えを予想していたかのように優しく笑って、聞こえるか聞こえないかギリギリの声で呟いた。
私も嫌いよ、と。
ちょうど夕陽が眩しくてはっきりと見えなかった顔は、悲しそうに感じた。
話を単純にしよう。
この時違うことを答えていれば、オレたちは女王と騎士以外の何かになっていたのかもしれなかった。そして姫もオレもそれ以上を望んでいなかった。
それだけのことだった。
* * *
姫とオレが出会って三ヶ月になろうとしていた。
副首都が陥落した。
革命軍は勢いに乗って首都へ進軍。騎士団の残党が各地でゲリラを展開しているが、首都は今にも落ちそうだった。
「地下道がそろそろ完成しそうだ」
「王城までの?やっと王の首が取れるわね」
そんな中でもオレたちはいつもと変わらない会話をしていたし、翌日もするはずだった。
「革命軍はどうするんだ?」
「辺境伯の私兵を貸してくれるそうよ。それに第3兵団が北上する。王を守る親衛隊も動くでしょう。三方から攻撃すれば……」
髪を弄びながらそういう姫が、いつもよりしんどそうに見えて。首都が落ちそうなのに、無理して平静を保っているように見えて。
「…というふうに革命軍は破ってみせるわ。貴方は王城まで早く地下道を完成させ……」
それで、自分の手をごく自然に姫の頭に置いていた。
もういい、と思ってしまったんだ。
「どう……したの?夢を……叶えるんでしょう」
ああ、そうだな。
王を殺して、革命軍を壊して、アンタが王位についてオレが騎士になる。
まさに「夢」だよ。
あれだけ頭の中にありながら、姫との会話の中で夢という言葉を使ったのは初めてだった。認めたくなかったのだ。
わかっていた。わかっていても、二人の時間が楽しかった。
二人で夢を語るときだけ、幽閉された王女と薄汚い暗殺者が、新政府の女王とその騎士になれたんだ。
オレは王城に侵入して、王を殺すことなんてできない。いやそんなことは、世界一の暗殺者にだってできないだろう。ましてオレは小物貴族専門の、薄汚い暗殺者だ。
そして万が一、姫が革命軍と交渉できる立場になったとして、彼らは王政を滅ぼすだろう。全てが手遅れだし、そもそも姫にそこまでの交渉力も権力もない。
姫が頼りにしている辺境伯は裏切っているし、第三兵団はつい先日壊滅した。官軍に勝ち目は全くない。
そのことをオレたち二人は、分かっていたけど確かめなかった。確かめていれば或いは違う形で話ができていたのかもしれないけど。しかし夢というのは気持ちがよすぎたんだ。
夢を理解される心地よさに溺れて、夢を放棄することもできず、中途半端に終わってしまう。ダメな奴だと笑われようと、姫とオレにはそれで良かった。
「もういい」
姫の美しい髪をなでながらそうはっきりと言った。
「……そうね」
理解者なのだから当たり前といえば当たり前だが、姫はすぐにそう答えた。
そしてオレの胸に顔をうずめ、声を押し殺して泣いているようだった。
姫を幽閉した連中はあながち間違いではなかったのかもしれない。「ままごと」を続ける姫は狂気なのかもじれない。だけどなぜかな、その狂気がオレにはとても愛おしく思えたんだ。
きっとそれはオレに似ていたからかもしれない。スラム街で育ち、闇商人に身を落とし、今や暗殺者にまでなってしまって。それでもずっと騎士に憧れていた、このオレに。
夢を見続けるオレと夢の中に居続ける彼女の関係は、終わった。
姫はオレの腕の中で泣き、やがて泣きつかれて眠った。
その寝顔はとても可愛らしいもので女王の威厳なんて言うものはなかったけど、それでいいと思った。
姫が発したのは一言だけだった。寝言かもしれないし、本当は起きていたのかもしれなかった。
「ありがとう」
こっちのセリフだ、とそう思いながら、オレも眠りにつこうとしていた。
いい夢が見れますように、なんてね。
* * *
どれだけ眠ったのだろうか。
目が覚めた時、幽閉塔にも兵が押し寄せてきていた。首都が陥落したらしい。王族の血を根絶やしにするつもりか。
「……ごめんね」
「オレがここにいるのはオレの意志だ。謝らなくていい」
「そうじゃなくて」
騎士にしてあげられなくてごめんね、と鼻声になりながら彼女は言った。
その一言で、覚悟が決まった。
謝られる必要はない。
この三ヶ月と少しの間、オレはアンタの騎士だったんだから。爵位がなくても、誰が認めなくても、オレはアンタの騎士だったんだから。そして今も、あんたの騎士なんだから。
酒を撒き散らし、火を付けると、あっという間に広まった。姫とオレの二人だけの城だった幽閉塔が燃えていく。
姫が十年以上も閉じ込められていた牢屋であろうと、燃えてなくなるのだと思うと、寂しい気がした。
姫の手をとって、地下牢へと走る。オレと姫が出会った地下牢に。
「貴方が私の首を持っていき、女王の首をとったと言いなさい。そうすれば私は女王になれるし、貴方は新政府で騎士になれるかもしれないわ」
走りながらそんな事を言う姫は、やはり女王の器だと思う。オレにはそこまで良い策は思いつかなかった。
「服を脱げ」
「え……」
一瞬ためらったもののすぐに、しかし勘違いして脱ぎ始める。
ドレスというのは彼女の姫という身分の象徴、それを取り去ったからかな。身を震わせて恥じらいながらドレスを脱ぐ姫は、とても綺麗だと思った。
「え……?」
戸惑った姫を地下牢の穴に突き落とす。
そこにはオレの作った地下道がある。もちろん王城までは届いていない。そんなのは夢だ。
だがオレがこの塔に侵入するときに作った道とつなげてある。逃げ切れるかもしれない。
「貴方も……早く……」
そこまで言って気づいたらしい。オレのしようとしていることに。服を脱がせた意味に。
姫のドレスを着て目撃された後に、男女の区別もつかぬほど焼かれてしまう。そうすれば革命軍はオレの焼死体を姫だと認識するだろう。
「貴方は……騎士になりたかったんでしょう」
「姫の騎士だよ」
革命軍が全国民がオレのことを姫だと思おうと、それでも姫がオレを騎士だと思ってくれればいい。オレは姫の騎士なのだから。
* * *
燃え盛る幽閉塔の窓から姫のいつも着ていたドレスに身を包み、下にいる革命軍の兵士を侮蔑の表情で眺める。
彼女は十年以上もこの景色を見てきたんだろうと思うと、荒らされていることに怒りを感じなくもない。
扉がガチャガチャとなるのを聞きため息をつく。早いじゃないか。
騎士になると言って暗殺者になっていたのが、最後は姫になったり。メチャクチャな人生だったが、まあ楽しかったか。夢を叶えられなかったものの言い訳かもしれないが、と自嘲する。
一つ悔いがあるとすれば、裏切るなと言っておいたあの姫を、結果的に自分が裏切るような形になったことか。いや、嘘だな。悔いてなんかいない。
きっとオレは、嫌いなあの姫だけは生き残って欲しかったんだ。
扉が蹴破られるのを待つ。夢の余韻に浸る時間を稼いでいるといえばそうかも知れないが。
騎士としての最後の仕事だ。姫だと認識されたあとで、頭から酒を被って火だるまにならなくてはならない。
扉が激しく音を立てて壊れ、いよいよかとワイン樽を手に取る。
入ってきたものは__暗殺者の姿をしていた。
「……姫?」
ワイン樽がオレの手からはたき落とされ、絨毯に転がり火の勢いが増した。
姫がこんなに怒っているのを見るのは初めてだった。怒っているというより、もはや泣いているようにも見えた。
「……姫?」
「私はもう女王よ」
なにを言っているのか、と思った。少し考えて、その意味を理解する。
王城が既に落ちているということは、彼女の父も母も姉も死んでいるということだ。暗殺などなしに、王位継承権は彼女に渡るのだ。
「貴方をこれから騎士に任命するわ」
炎が燃える。燃え盛る。
物が壊れる音がする。足音が近づいてくる。
「二十三代目の女王の権限に基づき汝を騎士に任命する。汝の剣は……」
騎士に任命するための文言を口にする姫を止めなくては、と思う。
止めてもう一度地下道から逃さなくては、と思う。
口を開けて何かを言おうとしたのだが、嗚咽になってしまう。
言葉が出ない。出せない。
子供の頃からずっと夢見ていた状況が目の前にあり、それを実現しているのはあの姫なのだ。幽閉されていて、ままごとが好きで、オレが嫌いな、あの姫なのだ。
「……その身と忠誠を我に捧げよ」
……というわけで、と文言を読み終えた姫が続ける。悲しみなどどこにも感じさせない、これまでで一番の笑顔で言う。
暗殺者の服を着ていようと、その姿は純然たる女王のものであった。
「私に仕えなさい」
それは姫がオレに最初に言った言葉で、そしてオレを暗殺者から騎士に変えた言葉だった。夢を見続けるオレと夢の中に居続ける彼女の関係が始まった言葉だった。
泣くのをやめる。「夢を叶えるんでしょう」と昨日の言葉が思い出される。
子供の頃から何度も夢見てきたように、姫と二人で何度も想像していたように、跪いて姫の手の甲に口づける。
炎が一層激しくなり壁が崩れ始める。足音や騒ぎ声がますます近くなる。
それでも。
即位したばかりの女王と、任命されたばかりの騎士は、動かない。
夢を叶えたこの世界にもう用はないと言わんばかりに、動かない。
まるで二人のいる空間だけが「夢」であるかのように、動かない。
動かない、動かない、動かない。
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