絶望に沈む
お久しぶりです。
何が正解だったんだろうか。態度は確かに悪かった、認めざるをえない。だが、しかし、と逆接が自分にしがみついてくる。じっとしていると沸々と幼さが膨れ上がってくるのが分かる。万策尽きておかしくなりそうな心を鍛練で紛らわせた。
師匠が唯一教えてくれたのは月法という護身術。影を媒介とした応用の利く術式で、使い易さと習得が比較的楽なことも手伝って汎用術式の割に使える術者は多い。
それでも所詮は人の術、悪魔の使う術魔には到底太刀打ちできない。術式は術魔の模倣でしかない、偽物は何をしても本物には敵わないのが道理だ。
でも、それなら何故師匠はそれを分かっていながら俺に月法なんて教えたんだろう。師匠はあんなに渋っていたのに、教えないことも出来たのに。
ふと胸がざわつく。影は一層濁りを増し、風になびくように揺らめいた。
コツコツコツ、足音が近い。今日も拷問が始まる。独房から出る際には拘束具一式に闇曇の術を二回。御守りの二回目なんて三流もいいところ、底が知れるというものだ。
石橋を叩くなら何もしない、それが安全牌のはずだった。今日の俺はやはりおかしかった。砂嵐との件を皮きりに拷問生活で溜まった毒が押さえられなくなっていた。
「月法・黒縛」
我慢の限界はもう過ぎていた。
影が唸りを上げ獲物を捉えるが如く拘束具がちがちの身体を呑み込む。視覚聴覚共に黒い壁に阻まれ、影の延長線上の触覚だけで地面に侵入する。はなから戦う必要は無かった、腐った脳に血が通いはじめる。
地面を通じて広い部屋に出る。すっかり慣れた拷問部屋だ。カメラや見張りは無い、悪魔に関しての研究等は記録から消すのが面倒なのだ。病院を装っているこの施設にそこまでの度胸は無い。安全を確認し拘束術を解く。
監視官に安直な汎用術式、核心は数人に絞られる。病院を乗っ取る程大掛かりな癖してざるな警備、非常時なのに駆けつける人の気配もない。痕跡から悪魔の仕業でも無い、とするととち狂った術魔持ち、もしくは俺と似たような半身か。何にせよ主犯格は悪魔について術式について、あまり理解していないようだ。
しめた、これなら余裕。
その時だ。
ガシャン、何かが壁に飛んでいった。反対側には扉があったはずの通路。原型が分からなくなった扉が壁から崩れ落ちる。
ぬらりとのびる長身、不釣り合いな長い四肢、不気味に動くのっぺら坊。人でも悪魔でもない、コイツは人形だ。
姿を確認するやいなや直立のまま走ってくる。まずいまずいまずいまずい。
慌てて纏っていた影に襲わせる。かちゃりかちゃりと拘束具を押し付ける。
距離をとりつつ影を近くまで戻す。がちがちに固定されたのっぺら坊は苦しそうに身をよじる。ご自慢の怪力でもほどけないようだ。
このまま仕留めようと影を手の中に集める。手を突き出してゆっくりと開くと、さらさらとこぼれた黒は直剣を形作っていく。
柄を握り振りかぶって斬りかかる。ごちゃごちゃした拘束具の隙間に一撃。
チンッッ……。
手に残る鈍い感触。
「仕留め損ねた」
直剣は手前にぐにゃりと曲がってしまっている。対して人形は愉快そうに肩を揺らしている。まるで効いていない。
「イキエェェェィイィィ!」
奇声を上げる人形、立派な体躯に絡みついた拘束具が軋みをあげている。ぬらぬらとした殺気が立ち込める。
ガキン、そばを通り抜ける拘束具の破片。殻を破るように拘束具を壊す人形、その光景は今俺の手に負える相手ではないと雄弁に語っていた。
打つ手が無い、呑み込むと生汗が噴き出てくる。今まで縛られていたのはわざと? 油断を誘う為、心を折る為?
焦りが一気に押し寄せる。頭に描いていたものが全て白紙に還る。何も思いつかない、何も考えられない。
舌なめずりが聞こえるようだ。止めどない汗が熱を奪っていく。芯が冷えて死を受け入れる準備を身体が始めている。
膝をつく。砂利の感覚も無い。血の気が引いて震えが止まらない。
俺はここで死ぬ。絶望に支配された心身は不思議と軽かった。
生井澄広です。
何かをする為に生きてきたのですが、最近は生きているから何かをしている。
そんな感じです。