滴る正気
浴槽たっぷりに張った湯の中で俺は震えていた。また流された、俺は悪魔になっていた。頭を抱えて真っ黒な髪をかきむしる。ガリガリガリ、自分に言い聞かせるように、痛みを持って分からせるために。
「俺の名前は煤貝誠、俺の名前は煤貝誠、俺の名前は……」
焦点が合わない、不安で不安定なんだ。誠の心によぎる、俺は人か悪魔か。例えどれだけ存在が汚くても、心を腐らせてはならない。
「俺は人間だ、そうだよな?」
湯に映る自分の顔に問いかける。酷い顔。不安が貼りついて離れようとしない。
「勿論だ、俺は人間だ」
口角を少し、笑い返した。その時の顔は湯気で見えなかったことにした。
人とは「人間」という名の悪魔である。
師匠はいつも言っていた。当時はさっぱり分からなかったが、受け入れてしまえばなんということはなかった。解釈はまちまちだが、人の命というのは悪魔の命の上澄みに過ぎないということだ。
師匠は死人を生き返らせていたんじゃない。人から悪魔へ、命を切り替える仕事をしていたんだ。最期の時間を作ってやる、聞こえは言いがやってることはそれこそ悪魔、悪魔の所業。職業だというのだから、呆れたもんだ。
「それで死んでちゃ世話ねえぜ」
濁った視線の先には巨大な塊、表層が見えなくなるほどぎっしりと貼りついた札。触れるとちりりと冷たくて、札越しに熱を吸い上げる氷塊。
「ただいま、師匠」
師匠は死んだ。俺の前で、自分という悪魔に押しつぶされて。悪行はもう嫌という程見てきた。だから楽になって欲しかった。
「だから淵宮光の悪魔を肩代わりしたのね?」
初めて聴くハスキー。俺は女の悪魔を生み出す程正気を失っているのか。
「よく二年も正気を保っていられたわね。もう我慢する必要はないわ、楽になりなさい」
ガチャリ。
鈍い音、背中に円形の冷たい感触。銃はフェイクだな、近付く必要性がない。どうやら現実らしい、会ったこともない女に銃を突きつけられている。
ゆっくりと万歳。風呂上がりのせいで影を纏う隙がない。服くらいは着とくべきだったな。
「銃刀法、それに不法侵入もだ」
敵意を沈めろ、深く深く。背後をとられる相手じゃそれでも足りない。
「筒抜けよ?」
本当か?
「ええ」
どうやらそうらしい。参ったなこりゃ。
「何の用です?」
女は小さく微笑む。
「分かるでしょう?駆除対象になった、それだけよ」
そうか、もう時間か。どうでもよかった、はやく楽になりたかった。そんな資格はないけれど、望むことさえおこがましいけれど。
ドヂュッ
鈍い音、水気たっぷりでいかにもな音。
腹が熱い。かと思えば急に冷めていく。筆をゆっくり引くように、命が希薄になっていくのが分かる。
また会えますね師匠。
意識は泡となって手からすり抜けていく。目が見えない、耳が聞こえない、鼻が効かない。
人体模型の気分が分かった気がした。
生井澄広です。
自分の書いたものを人に読んでもらうというのは慣れませんね笑