ちゃらちゃら流れる御茶ノ水
斎藤悠太が大塚優香と出会ったのは、大学4年、国語学の授業だった。
4月の春の陽気で、まだ女の体を知らない彼の胸は、焦りでざわついている。
授業はつつぬけで、前に座る、優香のピンクのワンピースの大きく開いた背中の所を、見ていた。
JR御茶ノ水駅前の中古楽器店からPUFFYの『ブギウギNo.5』が流れている。
悠太は2歳上の同級の男友達、柳真吾と秋葉原方面に向かっていた。
すぐ脇を中央・総武線がけたたましく行き交う下り坂だが、学生街の熱気に酔ってしまう悠太にとっては、ようやく落ち着きを取り戻すことができる。
万世橋の交差点を右折し、喫茶店「ベローチェ」に入った。
「彼女欲しいよ。」
「斎藤くんは、またそれか。サークルもバイトもしてないんだから、出会いが無いのは、しょうがないよね。てか、就活どうすんのよ。」
「サークルやっても学生ノリについていけないよ。仕事しても、つかえないって言われると思うよ。就職しても無理だよ。」
最近、悠太は精神科で「強迫性障害」と診断された。神経症と診断されることは、面倒なことを避けたい彼に都合が良かった。
「恋愛は就職してからっていう考えは無いの?」
「それ、この間学生相談室でも言われたわ。」
彼は週1回、大学の相談室で臨床心理士からカウンセリングを受けていた。
「ここはお互い歯くいしばって就活がんばらなくちゃいけないんじゃないか。」
「でも童貞捨てなきゃ、就活する気なんか起きないよ。」
「なんでそうなるの。てか、そのトックリセーター暑くない?」
「暑いね。こうすれば柳くんじゃん。」
悠太は、トックリを顔に被せた。
「斎藤くんも一緒じゃん。」
2人の笑い声が響き渡る。
静かな店内はサラリーマンが多く、学生に寛容な雰囲気を漂わせている。
「髪も切ったしさ。服買って、授業で積極的に声かけた方がいいのかな?」
御茶ノ水駅、聖橋口改札から見える美容室で初めて髪を明るくし、パーマをかけていた。
「・・・。一度好きにやってみたら?斎藤くんは、ほり深い顔してて、いい男だと思うよ。」
「ジャニ系ではないかな?」
「ジャニ系ではないけど、ジャニーズがいい顔すべてではないでしょう。」
悠太は地下鉄、新御茶ノ水から町屋を経由し、京成線の堀切菖蒲園までの通学定期を持っていた。
定期からは外れるが、北千住の「ジーンズメイト」に向かう。
近年は大学ができて、だいぶ雰囲気が変わったが、以前の北千住は部屋着でも歩ける様な、敷居の低さがあった。
いらっしゃいませ
自動ドアの所を踏むと機械の無機質な音声で迎えられる。
シャツとTシャツで1組の商品が得な気がして、購入決定となった。
今年は例年になく、開幕から阪神が絶好調のため、タイガースファンの悠太も大学入学以来、見せたことの無いテンションの高さだった。
ヤクルト戦で宿敵のジャイアンツの新外国人レイサムがアウトカウントを勘違いしスタンドにボールを投げ込んでしまったニュースを携帯で知ると、地震学の授業中にもかかわらず、
「よっしゃよっしゃよっしゃ」
と1人やっていて、背後から女2人の笑い声が聞こえてきたので、振り返り勢いそのまま
「すいませんね。阪神絶好調なもんで。」
「はははは。阪神調子いいですよね。」
大塚優香は笑顔で、隣の友人も微笑んでいる。
悠太が優香と初めてかわした言葉だった。
彼は次の講義に向かったが、誰もいない。教室を間違ったか。
「民俗学休講ですよ。さっき声かけたんですけど聞こえなかったですかね。話しかけてくれてありがとう。嬉しかったです。」
彼女は思ったより小柄で、花柄のワンピースがよく似合っていた。
「これ私のメルアドなんで、よかったら連絡くださいね。そのシャツ透け透けですね。ジャニーズみたい!ははははは。」
ジーンズメイトで購入して以来、着っぱなしのTシャツは汗臭く洗濯してしまった。
生地が薄いシャツだけで登校するのは違和感があったが、乳首が透けていたとは。
「あはっ。ありがとう」
メモ用紙を渡し、優香はにっこり手をふって足早に去っていった。
悠太は思いがけない出来事に、胸一杯で、スキップしたい様な夢心地で教室をあとにした。