事実
デルバー先生の面会です。
「おお、アイオロス。ここにおったのじゃな。探したぞ。マルスが待っておる。」
俺の意識を呼び起こすその声は、無視できない響きを持っていた。
「なに、今は何も言わんでよい。だた、聞いておればよい。」
魔術師デルバーの声は、俺を十分に覚醒させていた。
しかし、俺はもはや顔を上げる意思もなかった。
何もする気力がなかった。
食事もする気がない。
そんな日々に、俺の体は痩せ衰えていくようだった。
膝を抱えた姿のままの俺を、デルバーはじっくりと観察しているようだった。
「まずは、その体を何とかせんといかんの。どれ、お主の体の回復に、わしが作った薬を差し入れしてやろう。」
そう言って、何かを中に置いていた。
自分自身で笑ってしまうほど、俺の感覚は研ぎ澄まされていた。
俺は俺自身を無くし、この格子の中と一体になった気分だった。
だから、この中で起きていることは、何でも分かる感覚だった。
例えば、ここが魔法で隔離されていることも。
「お主に会いに来たのは、わしが知っていることを、伝えるためと、お主をマルスが待っておることを伝えるためじゃ。」
そう言って前置きをしながら、また何かを置いていた。
「まあ、お主が決めることじゃが、お主に必要なものは、ここにおいておく。」
一つ、一つ置くそれは、俺の持ち物だった。
「まず、お主は勘違いをしておる。この魔道具を見ればそれが分かるじゃろう。わしはこれを設置していたが、こうなることを予見したわけではない。わしも見えなくなることもある。ずっと見ているわけではないからの。危険を感知してもらわねば、わしの目も届かん。わしはそのことをお主に詫びておかねばと思うた。おぬしの許可をもらってでも、すべてを見えるようにしておくべきじゃった。」
そう言って魔術師デルバーは頭を下げているようだった。
「ともかく、お主の身元はわしが引き受けておいた。仮におぬしが行動しても、マルスに迷惑はかからん。わしにはかかるかもしれんが、わしの立場は、お主がどうこうしても問題ないほど大きいから心配せずとも好い。」
その感じは、俺に何かを求めているようだった。
俺に動けと言っているのか?
その魔道具を見ろと言っているのか?
「むしろ、わしはおぬしにはすまんことをしたと思っておるのでの。」
表情は見えないが、その口調は本気のようだった。
「見すぎるのは、問題じゃが、見ないことはもっと問題になる。わしは思い知ったよ。」
悲しそうな声。
しかし、決心したような声でもあった。
「わしは、わしが知るすべてをここに映している。必ず見るのじゃ。そして、この魔法結界はこの後しばらくはもつ。そのあとどうするかを自分自身で決めてくれ。」
そう言い残して、魔術師デルバーは消えていた。
何もする気が起きなかった俺に、唯一することを示した魔術師は、そこに何を込めたのか。
疑問が俺を突き動かしていた。
映像魔道具を手に取り、それを起動させる。
「デイオペア・・・・・。」
そこには笑顔のデイオペアが写されていた。
「それでは、私の希望がかなうのですね。弟のこと。しかも、今のこの生活も続けてもいいのですね。」
相手はうつされていない。しかし、俺には声で分かった。
男爵家の執事だ。
内偵した時にその声や、姿を確認している。
表向きは執事。
しかし、裏の顔は暗殺者だ。
「ああ、よかった。私のこの喜びを、早くあの人に伝えたい。」
そう言ってデイオペアが自分のお腹をさすっていた。
「ならば、いいものをお貸ししましょう。今回の件で旦那様はあなたの働きをずいぶん評価されていました。私もその一人です。ちょうどこの転移の指輪がございます。お腹の子供の事なら安心してください。これは妊婦用ですので。」
そう言って差し出すその指輪をデイオペアはうれしそうに受け取っていた。
妊婦用?
お腹の子供・・・。
「それをはめて、念じるのです。あなたの大切なアイオロスのもとに行けるように念じてみてください。そうすれば、指輪の魔法が発動します。」
男の声に親しみが込められていた。
「ありがとうございます。お腹の子の報告と、弟のことを知らせに行きますね。では。」
そう言って目を閉じたデイオペアはあの時の安心しきった笑顔だった。
その一突きは、おそらくデイオペアに死を感じさせてはいないだろう。
それほどあざやな手際だった。
「ふむ。希望を抱いたままの死に顔はうつくしい。その指輪はそのあたりの代物だが、そう思っていると価値があるかもな。お前の大切な人も、そのうち会えるさ。まあ、先に待っているがいい。」
奴はそう言って転移していった。
どおりで、スラムの警戒にかからないわけだ。
全てを理解した俺は、冷静にそう判断をできていた。
デルバーの残した薬を飲む。
体中に活力が湧いてくるようだった。これまでの疲労が一気に抜け落ちていた。
デイオペアは、明日を信じた顔だった。
決して、明日がこないことに対して希望を託したのではなく、明日が来ることを信じていた。
俺は、自分の意志で魔術師デルバーの残した俺の道具を手に取っていた。
「デイオペア。お前のところに行く前に、少しやることがあるようだ。」
決心した俺は、苦も無く格子を抜けていた。
「よし、これでいい。」
暮らした部屋をきれいに掃除するべく、俺は自分たちの家に帰っていた。
必要な道具をそろえ、必要な思いを心に刻みつけるように、俺はその部屋を見ていた。
ふと、それは視界に飛び込んでいた。
いつもなら気が付かない場所に、それは置かれていた。
「こんなもの、大事にとってたんだな・・・・。」
俺から初めて奪い取ったその髪飾りは、俺が初めてデイオペアのために買ったものでもあった。
懐に直しつつ、部屋を出る。
想い出が次々と湧き起っていた。
「絶望の中で、芽吹いたばかりの希望の芽を摘んでくれた報いを受けてもらう。自分たちだけが明日を迎えられると思うなよ。」
決意を込めて、家に火を放つ。
俺の心の中で、デイオペアの笑顔が浮かんでいた。
「いってくるよ。」
炎を背にしてそうつぶやく。
早くも集まってきたスラムの住人達の消火作業が始まっていた。
暗殺者アイオロス再稼働しました。