スラム
アイオロスは翌日マルスと会いました。
快活な笑い声が、あたりの静寂を吹き飛ばしていた。
周囲の人は笑い声をあげた人物に対して、この場には不似合いとばかりににらんできたが、笑い声の主が剣聖だったとわかると、すごすごとその視線をもどしていた。
そう、俺はマルス様に盛大に笑われていた。
いつもの場所で。
「アイオロス。お前赤毛が女だってわからなかったのか?本気か?」
その言葉に驚いた。
「知っていたんなら教えてくださいよ。おかげでひどい目にあったんですから。」
自分の腹をさすりながら。昨日の出来事を思い出していた。
昨日の騒動は、結局のところ、いつ果てるともなく、泥沼と化していた。
スラムの住人も、賭けが成立しなくなる気配を感じたのだろう、だんだんと興味を無くしてきたようだった。
最後の最後、スラムの女主人ともいうべき顔役のルワンダが、しゃしゃり出てきた。
赤毛の少女が決闘形式で、俺に一撃くらわすことで手打ちにしよう。
そう提案してきた。
俺もそれは快諾したが、結果的にルワンダの策にまんまと載せられた感じだった。
一撃は一撃でも、決闘形式での一撃。
つまりは代理人の一撃でも問題ないというものだった。
そして、もちろん代理人としてルワンダが名乗り出てきて、おれの腹に重い一撃を食らわしてきた。
正直あまり食べていなかったことの感謝したくらいだった。
俺はみっともなく、牢屋から出てから食べたものをすべて吐き出していた。
スラムの住人は基本的に騒ぐのが好きだ。
気分を変えるには、大いに笑うことがいいことを、よく知っている。
その日の主役、最後の最後で俺は、一躍スラムの話題の中心となっていた。
目を覚ますと、いつもの天井がそこにあった。
牢とは違う、慣れ親しんだ天井だった。
安心感が俺を包む。
ふと気配を感じ、視線だけ横に向けた。
赤毛の少女は、部屋の端の方で、俺をにらんでいた。
「勘弁してくれ・・・。」
気分を台無しされたのは俺だぜ。
その恨めしそうな顔にため息しか出なかった。
「許しません・・・・・。もう・・・。」
赤毛の少女はそっぽを向いて視線をそらす。
その姿は、少女としてみるとまあ、かわいげがあった。
「まあ、俺が悪かったよ。機嫌を直してくれとは言わないが、せめて名前は教えろ。いい加減、お互い知り合うべきだろう?」
上体をおこした俺は、そう提案していた。
さすがにまだ腹には痛みが残っていた。
その腹をさすりながら、赤毛の少女の反応を待った。
考えてみれば、先に名前を聞いておけばこんなことにはならなかったのかもしれないのだ。
俺は自分の愚かしさに、改めて気が付いていた。
「ディ・・・・」
視線をそらしながら名乗っていた。そしてしきりに左手をさわっている。
わかりやすい。
こいつは嘘がつけない奴と見た。
「そういう偽名じゃなく、本当の名だ。それに、ディだとまた男だと思うだろうが!」
俺は、自分の愚かしさが再びやってくることだけは避けたかった。
「・・・・・・・デイオペア。」
伏し目がちに、そう名乗っていた。
「そうか、ところで、出身は?」
ある程度目星はついている。その姿の一部分に見覚えがあった。ヘルブスト領内のある地方でよく見かける願い事の紐だ。
「ゾンマー・・・・・領に近い、ヘルブスト公爵さまの街です。」
俺の視線が紐に注がれているのを見て、ごまかしきれないと思ったのか、割と真実とみられることを話していた。
それからは黙り込んでしまい、俺も聞くのをあきらめて、さっさと寝なおしていた。
背中に視線を感じながら。
朝、まだ寝ているデイオペアを残し、俺は町に繰り出していた。
何となく居心地が悪かったのは、デイオペアの寝顔を見たからだろう。
当てもなくさまよっていた。
そうして今に至っている。
「マルス様。ヘルブスト公爵の土地で最近没落した貴族とかいませんか?そこにデイオペアという娘がいた貴族だと思うのですが。」
俺は自分が得た情報を、マルス様に報告していた。
「そうか、あの娘はそっちの方か・・。ご苦労だったアイオロス。やはり貴様は役にたつ。」
今までと打って変わって、真剣な表情を見せていた。
俺の直観が、マルス様がいろいろな厄介ごとに巻き込まれていると事を告げていた。
「さすがに俺もそれが誰かを今この場で話すほど知識はもっていない。ちょうどそう言ったことを調べるのがうまいやつがいるから、そいつに聞いてみよう。」
俺の心配が分かったのか、マルス様はそれまでとは打って変わって笑顔になっていた。
そして、よほどその人物を信頼しているのだろう。
マルス様に信頼されるとは、どのような人物なのか、興味を持ったと同時に、羨ましいとも思った。
うらやましい?
俺は自らの感情に戸惑いを覚えていた。
まだ主従関係を築いて1日しかたっていない。
それでも、何となくだが、しっくりとしたものを俺はもっていた。
これが剣聖の魅力なのか?
これまでにない感覚に、戸惑いさえ覚えていた。
どうしたんだ?俺は。
考えても回答の出ない問題を前に、俺は考えるのをあきらめた。
疑問を口に出す相手もいない。
まあ、しかたがない。
そう思うことで、俺は当面問題となることを解決しようとしていた。
「マルス様、私はこれで失礼します。相手が少女となると、さすがに一つ屋根の下で過ごすわけにもいきませんから、これからあいているところを探しに行きます。」
席を立ちあがり、お辞儀をした時、視界にあの男の存在が見えていた。
「まあ、まて。今ついたところだ。もう少し話しておこう。ここは魔法的に監視できない場所だからな。」
マルス様の視線が一瞬あの男に注がれていた。
そういう事か。
ならば仕方がなかった。
「それとアイオロス。お前たちの暮らす家なら、俺が用意してやろうか?いい加減スラムを出たらどうだ?屋敷がないとはいえ、俺の執事がいつまでもスラム暮らしというのはどうかとおもうぞ?」
その言葉に、俺の心は少し動揺をおぼえていた。
話しの端々に含まれる言葉。
それは、マルス様が抱いている思いに違いない。
聞くべきなのだろうか・・・・。
俺は自分の欲求と、聞くことで変わる何かの間で揺れていた。
聞くことを恐れているのか?この俺が・・・。
思いというのは、考えていることと違って、根本的なものだ。
時に考え以上に影響を及ぼす可能性がある。
それは本人すら気づいていない場合もある。
それを聞くことで、本人に自覚させてしまうことだってある。
考えの奥底に眠る何かを起こしてもよいものだろうか・・・・・。
しかし、執事としてそばにいる以上、主の考えは知っておかねばならない。
やけに空気が重たく感じる。
躊躇しながらも、俺はそのふたを開けにかかっていた。
「マルス様。スラムではいけないのでしょうか?」
この回答で、マルス様の考えが分かる。
スラムをどう思っているのかがわかる。
聞くと後戻りはできない。
俺はこれでもスラムは第2の故郷だとも思っていた。
「つまらん質問だな、アイオロス。スラムは所詮ロマンを失ったものの集まりだ。時折まだお前のようなものがいるがな。線引きとしては、俺は魅力を感じない。自分の力で状況を変えようと思う心を失った者たちの集まり、それがスラムだ。スラムという存在自体がそれを引き起こしているともいえる。あそこがあるから、あそこに逃げ込むんだ。必死に抗う前に、逃げ場所を作ってある。それがスラムだ。そんなところにいつまでもいるお前じゃないはずだ。」
正論だった。
ぐうの音も出ない。
マッカス爺さんは、鍛冶師の命である右腕を痛め、その結果スラムに流れていた。
お調子者のテローズは恋人を横取りされて、気力を失いスラムに流れていた。
バカのマックスはさんざん人にだまされて、人間不信に陥っている。
その他大勢の者たちも、似たようなものがいた。
スラムというものがなかったら、ひょっとするとやり直しがきいたかもしれない人間はいくらでもいた。
しかし、そうでないものもいる。
アンは3歳でスラムの入り口に放置されていた。
シンは病気の母親と現れた。
スラムでなければ生きられない命は確かにあった。
スラムがあったから、スラムの住人がいたから、あの命は今ここで頑張っていた。
「しかし、誰にでも俺のように機会が来るわけではないです。大抵がその機会を見逃した、もしくは気が付かなかった人たちだと思うのですが・・・。それに、ここでしか生きることができない者たちもいる。」
口調すら保てないほどに、必死にかばっている自分がいた。
マルス様は、いったん驚いた表情を見せたが、ため息をついて俺に語りかけていた。
「まあ、いいさ。俺もスラムについて議論するほど暇じゃない。ただ、アイオロス一つ言っておく。」
獲物を狙うような鋭い目つきで、マルス様は俺に告げる。
「俺がお前を執事にと思ったのは、お前を見つけたからじゃない。お前が、俺の前に来たからだ。あの時、お前があの赤毛を助けるという選択と行動をしなければ、俺はお前を見つけてはいない。そのことは忘れるな。」
全てを威圧するように、圧倒的な雰囲気が、驚くべき速度で周囲に広がっていった。
息を吸う余裕すら与えてもらえなかった。
俺でさえそうなのだ、周囲の人は・・・・・。
やはり気絶していた。
当然、あの男も気絶していた。
「よし、デルバー。アイツだ。頼んだぞ。」
マルス様は立ち上がり、例の男を指さしていた。
そして、突如魔術師が姿を現していた。
「おお。お主がアイオロスか。お主のことはマルスから聞いておる。なかなか見どころがあるそうじゃの。どれ・・・・・。ふむ。お主、良い目をしておるの。」
それだけ言うと魔術師は気絶した男に向かっていき、何やら話しかけていた。
何をしているのかは、わからないが、一連の会話すらマルス様の手のうちだったということか・・・。
それではあの会話自体が・・・?
俺にはよくわからないことが起きている。
しかし、マルス様はあまりスラムに対して好意的ではないことだけはわかった。
ならば俺のすることは一つだった。
スラムで暮らし続ける。
残念ながら、マルス様のいう事は半分正しい。
しかし、もう半分だってある。
俺は自分の育ったあの場所が、ただそういうものとして見られることに、少なからず抵抗を感じていた。
それはすぐには難しいだろう。
どれほどこの王都にいるかもわからない。
しかし、この王都にいる間だけでも、スラムのことを知っておいてほしかった。
そして、スラム自身にも変わってほしい思いもある。
マルス様の言う半分の事実。
これが何とかできれば、この場所を理解してくれる人が増えれば、スラムは優しい場所になるはずだった。
俺は、今まで意識していなかった気持ちに気が付いた。
スラムに生きる人を認めてほしい。
そう思う自分がいた。
それは、今の世代ではむずかしいだろう。
しかし、将来ならどうだろうか?
俺が行動することで、スラムの人間だって生きていることを証明できないか?
そうすれば、いつかきっとスラムの中の住人と、スラムの外の住人の考えが変わるかもしれなかった。
自分の行動がマルス様との出会いを引き当てたというのなら、俺の行動で、スラムの認識を変えることもできるかもしれない。
マルス様と魔術師デルバーのやり取りをぼんやり見つめながら、俺は自分のすべきことが見つかったような気がしていた。
アイオロスはこれまで抱いたことのない感情に気が付きました。
赤毛の少女のことは、放置かい?アイオロス。