第一章03 罠
夕刻を過ぎて闇に沈み始めたマハザの繁華街は、更なる活気に満ち溢れてきていた。露店商人達の宣伝文句、仕事帰りに酒を飲んだ酔っ払いたちの喧嘩の罵声、美味しいものを求め町を練り歩く観光客達……マハザの夜はまだまだこれからだ。
そんなマハザの夕闇に紛れて、一人の旅行者らしき人影が繁華街にやってきた。夜に溶け込みそうな真っ黒なローブに身を包んだその人影は、人ゴミを気にする素振を見せず、まっすぐしっかりとした足取りでマハザの繁華街を進んでいた。その足がある店の前でピタリと止まった。マハザでも知る人ぞ知る老舗酒場『酒びたり』である。マハザの喧噪に紛れて人掛けは店の中に入っていった。
店の中は時間帯が時間帯だけあって、店の中はお客でごった返していた。酒の飲み比べをする若者たち、そんな若者たちとはうってかわって、静かに飲む常連と思しき客、忙しくホールとキッチンを走り回るウェイトレス達――。そんな雰囲気の中、黒いローブの人影は誰にも触れられることなく、カウンターへ流れるように歩いていった。カウンターの中で次に出す果実酒の準備をしていた店員に、その人影は話しかけた。
「オレーのジュースを一つ」
この煩い店の中、確かに聞こえる声で注文が入った。
「……お酒でなくてよろしいですか?」
黒いローブの客は硬貨をカウンターに置き、頷いた。
「かしこまりました」
店員の手で、専用のジョッキになみなみと注がれる果実ジュース。『酒びたり』の果実酒および果実ジュースは、店主が吟味し直接取引した農家から買い付けている果実から作られた自慢の一品である。
「こちら当店自慢の果実ジュースです」
店員が黒ローブの客の前にそのジョッキを…
「ご堪能ください」
ジョッキを置いた瞬間、黒ローブ――勇者の客の後ろからすさまじい数の殺気とともに攻撃が、その客に向かって叩きつけれらた。
よく見ると先程まで勇者がいた場所には、床に叩きつけられた多数の武器しかない。勇者は、間一髪跳躍によって後方へと回避していた。身を躱した勇者が最初に見たのは、手に武器を持った先ほどまで店内で騒いでいた若者、静かな常連客、忙しそうだったウェイトレス達だった。初撃が外れた事を悟った襲撃者たちは、改めて勇者を取り囲むように動き始める。
それをすぐに察知すると、勇者は目にも留まらぬ速さで出口から店を飛び出していた。辛くも店外へと脱出し体制を整えようとした勇者は――その動きを止めた。既に取り囲まれていたのだ。
取り囲む無数の人は……先程まで普通に生活していた町の住人。
その光景は、まるでマハザの町そのものが敵意を向けているかのようだった。
「はっはっはぁー!まんまと罠にかかったなぁ!勇者よぉー!」
俺はまるで勝ち誇ったかのように『酒びたり』の店内から姿を現した。その恰好は普段の書記官用ローブを纏った姿ではなく、ウェイター……先ほど勇者に、果実ジュースを渡そうとした店員そのものだった。
「本当にきた!流石ゲイル兄だぜ!」
喜々とした声を出しながら町の青年団の恰好をしたヴォルトが俺の近くに歩いてきた。なんか爽やかになってて若干イラッとする。
「しっかしこの景色は、中々壮観ですなー」
すっごいヒラヒラしたメイド服を着たフレイアが話しかけてきた。……こんな格好のウェイトレスいたっけな……?
「見たか!これが俺の作戦、『勇者包囲網』だ!」
ざっと説明するとこうなる。マハザの町人と王国の兵士を、ごっそり入れ替えたのだ。流石に町人全員と入れ替えるのは無理があるので、こちらが用意した兵士千人分と入れ替える事になった。後は勇者が通るルートを予測して町人に扮した兵士達を配置しておく。元の町人達には一時的に避難してもらっている。かなりの規模の作戦になったが、マハザの町長からは結構あっさり了承を貰えた。これも魔王様の人徳だろう。
俺は先程作っていた果実ジュースを片手に、高らかに叫んだ。
「お前はもう完全に包囲されている!抵抗は無意味だ!」
勇者は何も反応を示さない。勇者の反応を待つ間に、一人の町人……に扮した兵士がやってきて俺に囁く。
「クロウ様、この辺り一帯を調べましたが……特別怪しい者はいませでした。」
その報告は俺にとって少しショックだった。一人で魔王を討伐する……なんてアホな話を俺はハナから信じていなかったのだ。こいつは囮で、他に何人かの暗殺者がいてそいつらが将軍達を仕留めた……そう予測していたのだ。しかし俺の予想は外れた。一番納得できない結果になったと言ってもいい。こいつは本当に一人で魔王討伐にやってきて、一人で将軍達を倒したことになる。……ありえない。
「……沈黙は投降と受け取るぞ」
俺は未だに何も言わない勇者に向かって警告した。少し待ったが、やはり返答は帰ってこない。
「捕まえろ」
兵士達に指示すると、包囲網の中から数人の兵士が進み出て、勇者に近づいて行った。兵士達が勇者に接触したと思った瞬間――
彼らは俺の遙か遠く後ろに吹き飛んでいた。
「は?」
我ながらすごい間抜けな声出したな……と思ったがそれしか出せなかったのだ。だって人が飛ぶ?鳥人族でもないのに?なにかのトリックか!?あまりのことに兵士達も動きを止めてしまっている。一瞬混乱したが、すぐに頭の中を整理して叫んだ。
「油断するな!体制を整え、しっかりと包囲していけ!」
指示を受け兵士達は、徐々にだが確実に包囲網を狭めていった。流石王国兵士。だがそんな兵士達の訓練の賜物を勇者はあっさり突破した。せっかく練習したのに!
崩れた包囲網から俺が見たのは、黒のローブを脱ぎ捨て軽装になった勇者の姿だった。
その姿は、俺の予想していた通りだった。まぁこの予想はさっき酒場で注文の声を聞いた時には決まっていたのだが。
「やはり女か」
そこには、見た目がうちの妹より二つ三つくらい歳が上くらいの女の子がいた。