第3話
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会話を一段落させて、無音になった空間でアスはひっそりと息を吐いた。
ラングは考え事をしているようで、眉が少し寄っている。きっと声が聞こえているのだろう。同じクラスで過ごして半年、アスと共にいるときによくしている顔だ。何が聞こえているのかは全く想像できないが、どことなく困っているように見える。
そんな風に思考を巡らせていると、それを断ち切るようにツティンの声が大きく響く。
「粗方治療は終わったわ。彼女に話、聞くのよね? もうこっち来ても大丈夫よ」
その声に、はいとアスは返事をし一息。そしてラングへ振り返った。
「……ラングも行くか?」
その問いにラングはやや迷いを見せたが、頷いた。そしてベッドを降り始める。それはとても静かな動作だった。アスはそれを横目で確認し、カーテンを開けた。途端、音に溢れる。ツティンとルシオラの談笑や廊下の方から人の足音に布の擦れる音が聞こえ始めたのだ。
……ラングの能力が発動していたのか。
そう、アスは内心頷いた。どうやらラングの能力で大きな音以外、遮断されていたようだ。
……道理でとても静かだったわけだ。
ラングの、どの言葉が発動に至ったのかわからないが、きっと本人もわかっていないだろう。教室で話しているときに前触れもなく椅子や机が空中を舞ったことは一度や二度ではない。
Θではよくあることだから、気にすることもないと、そう結論づけてアスはラングと共に二人の元へ行った。
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「深い怪我は殆ど治したけれど、浅いものは治してないわよ。全て魔法に頼っていたら怪我の治りが悪くなるし、病気にもなりやすくなるからね。それからエフォートさんは話が終わったら、ベッドで安静にしていること。魔法じゃ体力の消費や精神的な疲労とか、そういったものには効果がないからね」
ツティンは手元にある『きょうのちりょうほうこくしょ』と可愛く書かれた紙に文字を書きながら言う。
そして、彼女は少し手を止め、顔を上げてアスとルシオラに視線を寄越し、それから少し離れたところにいるラングを見た。クッと、目を細めたかと思うと、小さく息を吐き微笑んだ。
「……もう、大丈夫そうね」
その言葉にシャキッと背筋を伸ばし、
「ツティン先生、治療ありがとうございました。それから、アスもありがとう」
治療前とは異なり綺麗な制服に身を包んだルシオラが言った。そして一呼吸置いてから、
「約束……だもの、ね。話、聞いてくれるのでしょう? ……とても、単純なこと、よ。貴族と平民が同じ舞台に立つことがどういうことなのか、わかっていなかっただけだもの」
震えた声で、彼女は話し始めた。
「クラスのある貴族の子から疎まれているの、私。だから、クラスの同じ平民の子たちとも避けられてるんだ。最初はほんとに些細なことだったのよ。だけどね、それが少しずつ過激になった。物がなくなったり、無視されたり、ね。でも、それは7貴族の誰かがいる時はなかったんだ。だから、あんまり気にしないようにしてた」
一度息を吐き、ふっと吸い込む。
「いつからだったかなぁ。面と向かって悪口を言われたり、聞こえるように嘲笑されたり。それは存外堪えるもの、なのね。」
知りたくなかったなぁ、と声が落ちた。平気だって思ってたけど、気にしないフリをしていただけで内心気にしてたんだわ、と。
「今日ね、あの裏庭に連れて行かれたときに、担任の先生を見たの。この校舎の2階の窓にいたわ。私、先生と目が合ったと思う。けれど、先生はそのまま何処かへ行ってしまったわ。私、そのことに酷く傷ついたの。そう、傷ついたんだわ。……私、先生に相談したって無駄なのはわかってたからしなかったの。だって、先生にずっとは守ってもらえないから。先生がいない隙を突かれたら、もっと酷いことになると目に見えてたもの。それなのに私は傷ついたんだわ。先生に、大人に、顔を逸らされたことに傷ついた。……私、魔法の標的にされたの。防御の魔法を展開しようとしたけど、魔法が使えなかった。その後はアスが知っている通りよ。」
ルシオラの目から涙が落ちる。
「私はね、ただお母さんの自慢の娘でありたかったの。死んだ母さんが誇りに思える、そんな娘でいたかっただけなのに! どう、してかなぁ?」
その声はまるで迷子の子どものようだった。
「頑張ったら、たくさん頑張ったらね。そうしたら、お父さんも私を見つけられると、信じて、私……」
小さく、頑張ったのになぁ。と声が響いた。
「私のお父さん貴族なんだって。お母さんがそう言ってたわ。捨てられたわけではないんだって。お母さんがお父さんを置いて行ったのよって、そう言ってたの。お父さんの邪魔にはなりたくなかったから、お母さんの身勝手でお父さんを置いて姿をくらませたのよって。だからね、私はあの人に会いには行けないけれど、あなたは会いたかったら探していいのよって、笑ってたの。私はお母さんによく似ているから、きっとお父さんも見つけてくれるからって。お母さんが最後の時にね、言ったの。とても好きだったのよって。今でもずっと愛してる、会いたかったなぁって。だから私、お父さんに会いに行こうって思ったの。お母さんの最後を伝えなければって。そうしたら、お母さんは喜んでくれると思ったから」
でも、とルシオラは言葉を紡ぐ。
「私は平民だから貴族のお父さんを探せない。だから、いい成績を取って学校を卒業しようって思ったの。そうしたら女騎士でも王宮魔術師にでもなれるから。でも、それは駄目なのね。……平民が貴族より上に立つなんてこと、あってはならなかったんだわ」
ルシオラは、一息ついて言葉を重ねた。
「……学生同士は平等だって言うけれど、決してそうであれないのは知っているわ。それが私たちを守ることに繋がるってことも。だけど、だけどね、割り切ることなんて、できるわけないじゃない。私は、嫌いだわ、こんな世界。努力の結果さえ、身分で踏みにじられる、こんな世界なんて滅びたらいいのよ。壊れてしまえばいい。そんなことが、常識のように円満している世界なんて、本当に嫌いよ。……嫌い。……っ、大っ嫌い!」
*
駄目だ、と。ラングは上げそうになった声を咄嗟に抑えこんだ。反射的に言葉を発することは、能力の暴走を招く。それを誰よりもわかっているから、ラングは声を飲み込む。
そして、ルシオラ・エフォートの件に自分は関係ないからと、離れたところに座っていたのを後悔した。ここからではあの子を止められない。
アスの問いに頷いたのは、一重に傷ついたという彼らの眷属の幼子が気になったからで、ラングは話に首を突っ込む気はなかった。けれど、そうはいかないようだ。アスの周囲を飛んでいる彼らをどう止めるべきか、考えを巡らせていたのだが、それよりも先に止めるべきものがこの部屋にはいたようだ。
ルシオラ・エフォートの頭の上で、ぐったりしている彼らの幼い眷属。その子は、アスの周りで浮遊している彼らと同じ精霊と呼ばれるもの。
その子の感情がルシオラ・エフォートと同調しているのかとラングは思い、そして否定した。
……嫌、違うな。同調しているというより、自分の怨嗟に彼女を引っ張っているのか。
まだ幼く、自分の力の制御が上手くないのだろう。彼らは自分のお気に入りを傷つけることなどしないからと、そう結論付ける。だがそれは、すでに体力を消耗しているルシオラ・エフォートには、毒に等しい行為だ。
……このままではいけない。
どこか彼女が虚ろに見え、そう思い、幼い精霊を止める意志を込めた言葉をラングは発しようとした。けれど、それより先にアスが動いたのが見えた。
ふわり、と。そう音がしそうな程に優しく、彼はルシオラ・エフォートを抱きしめた。
「……ねぇ、ルシオラ。君がそう望むなら、僕が叶えるよ。君が嫌いな世界を壊してあげる。」
「ほんとう?」
「ああ、すぐには無理だけど約束するよ。だから、もう」
そう、アスは区切り、小さく、
「寝てしまいなよ、疲れたろう?」
と言った。それは、とても……。泣きそうな音に思えた。何故、と問いたかった。
……ああ、声が聴こえる。
それは悲しい声。たくさんの悲しみの声。
『嫌だよ、アス』『嫌いにならないで』『私たちはここにいるわ』『ちゃんといるから』『だから』『泣かないで』『傍にいるわ、ずっと』『意志の疎通が取れなくたって、嫌いになんてならないから』『お願いよ』『笑って』
目の前が歪んだけれど、気づかれないうちにラングは袖で拭った。