第2話
少し気まずい雰囲気の中、無事に保健室に辿り着きアスは安堵した。
……良かった、誰ともすれ違わなくて。
人と合う可能性が低くても、絶対では無いので楽観視は出来なかったのだ。出くわした人がアスの知り合いならば適当に誤魔化すこともできるが、そうでない場合は妙な噂が流れないとも限らない。彼女は新入生代表だった。だから殆どの生徒が見たことがあるはずで、第3保健室を利用しているところ見られるのはもちろんのこと、今の状況を見られるのは良くないだろうと。ルシオラがそれを気にする余裕はないだろうと思い、アスは彼女よりも人目を気にしていたのだ。
保健室の中は誰かいるようで、くもりガラスの窓から明かりが漏れている。
「失礼します」
「いらっしゃい。あら、アス君じゃない。その横の美人さんはΘじゃないわねぇ。それにどうしたの、この怪我」
声の主は、金髪碧眼の白衣を着ている女性だ。首を傾げた拍子に、ポニーテールにした長い髪が背中からこぼれ落ちている。この第3保健室担当の保険医、ミリア・ツティンだ。王国屈指の回復魔法の使い手である術者の弟子で、彼女自身も優秀な回復魔法の使い手だ。
「すみませんツティン先生、彼女の治療お願いします。少し、訳ありみたいで」
「ああ、だからこちらに連れてきたのね。取り敢えず、この椅子に座ってちょうだい」
ツティンが側にある椅子を指差し言う。それに対してアスは頷き、ルシオラを座らせたあと少し後ろに下がった。
「あの……、お願いします」
どこか言い淀んだ様子でルシオラが言う。その様は言おうとした言葉を見つけられなかったみたいだった。
「ええ、私に任せてちょうだい。こんな綺麗な肌だもの、傷跡なんて残しやしないわよ」
ツティンはルシオラを安心させるように笑みを浮かべていった。
彼女はまず傷の深さを見るようだった。その様子を横目に、アスは退出しようと2人から背を向けた。異性であるアスに、治療の様子は見られたくないだろうと思ったのだ。
そしてアスは3つあるベッドの内、出入り口から一番奥にあるベッドのカーテンが閉まっていることに気がついた。
……誰か体調を崩したのか?
クラスメイトの顔を思い浮かべるが、今日は体調が悪そうな人はいなかったようにアスは記憶している。Θには一人、保健室の常連がいるが、彼も最近は利用していないはずだ。生徒会の人である可能性もゼロではないだろう。こちらに来て急に体調を崩したのかもしれない。
あれこれと考えを巡らせてもわかるはずがなく、アスは結局ツティンに尋ねることにした。
「ツティン先生、今日誰か来てるんですか?」
「そうよ、来てるわ。無口コンビの片割れがね」
ツティンはそう言うと口を閉じた。誰がまでは言う気がないようだ。ルシオラの傷を診ているその顔は真剣で邪魔は良くないだろう。
……どちらかまではわかったからまあ、いいか。カーテンを開ければわかることだし。
そう結論づけてアスは奥のベッドへと足を向けた。
中が覗ける程度に、そっとカーテンを捲る。寝てるかと思ったが、黒いマスクを付けた彼は体を起こしていた。壁に背を預けているから、アスたちが保健室に入ってきたときに起きたのかもしれない。
男にしては長めのアッシュグレーの髪。瞳は明るめの濃い緑色。そして常に黒いマスクを付けている彼は、ラング・アルモニア。同じ1年生だ。
「中に入ってもいいか?」
「是」
「うん、ありがとう」
アスは許可を貰いカーテンの内側に入り、閉める。位置的に治療の様子は見えないが念のためだ。
「大丈夫か? 教室で見た時は元気そうだったけど」
「平気。4限、途中、痛い音、頭、響く。今、無問題」
「ああ、4時間目の授業の時に何か聞こえたんだ。でも、ひどい事にならなくてよかった」
今は言葉通り、調子は悪くないようで安堵する。アスは4時間目の授業を受ける意味がないから、ラングが保健室に行ったことを知らなかった。
「頭痛が起こるほどの音かぁ。一体何が起こったんだろう?」
「不透明」
「そうだよなぁ」
ラングは音使いだ。彼が起こす音、全てが彼の武器になる。自分が発する言葉、彼が鳴らした物音。その全てが能力の対象らしい。だから彼は、単語と単語を並べるような喋り方をする。現状コントロールが出来ず、意図しなくても能力が発動するからだ。スラスラと喋るよりか、能力が発動せず安全なのだそう。その時の、感情などにも左右されるそうだが。
そして彼は聞こえる範囲にある、明確な意志を持つ音を全て拾ってしまう。今回はその明確な意志を持つ音、つまり人でない者の声を拾ったということだろう。それでは原因を特定することは難しいけれど、どうしようもないことだ。
「嘆き。……痛い。とても、悲痛。胸、苦しい。ただ、泣く、……泣く」
「悲しみの声か。何をそんなに泣いているのだろうな」
「考える、無駄、無意味」
ラングがきっぱりと言う。非情な言葉に聞こえるが、事実だ。今まで、普通の人が聞こえない音と共に生きてきた彼が答えを聞けないのに、アスが答えを見つけられるわけがない。
「アス、連れ、誰?」
話の流れを変えるようにラングが言う。アスはそれに乗った。
「彼女はルシオラ・エフォートだよ、ラングも見たことあるはず」
「肯定。新入生代表、してた。でも、何故?」
「僕がいつものように裏庭に行ったら彼女がいたんだ、怪我をして。まあ、間違いなく人為的な、ね」
転んだだけでは制服が何箇所も破れるほどの怪我はありえないし、ところどころ火傷のような傷があった。それにΘのクラスがある校舎に近い裏庭で、あんな風に泣いていたこと。そして出会ってから保健室にたどり着くまでにした会話の中で彼女が放った言葉。
それらを統合してアスはそう思ったのだ。それは予想と言うよりかは、ほぼ確信に近かった。
「Sクラ、虐め、横行?」
「……そうかもしれない。7貴族の人がいるから、そんなこと起こらないと思ってたけど」
「知らぬ顔、狭い視野、リーダー?」
「そうだな。見て見ぬふりか、知らないのか、はたまた率先してやってるか。どれだろーねえ」
「庇う、被害、増加?」
「ああ、それもあるなぁ。見てないとこでならやりたい放題ってか。しっかりした奴なら自分より位が上の奴に従うだろうけど、そもそもしっかりした奴はそんなことしないだろうし」
「同意」
*
……ああ、怒っている。
そうラングは思った。アスが怒っていると。いつもより吐き出す言葉が刺々しいから。そしてこうも思う。
……みんなも怒るだろうな。
Θクラスのみんなも生徒会長も怒るだろう。感じたままに、怒りを持つに違いない。ラングはそれを少しだけ羨ましく思う。感情をコントロールしなければならない自分には出来ないことだ。
特に怒りの感情は能力を暴走させやすいから気をつけなければならない。幼い頃からそうだったから感情の起伏は乏しいけれど、失くしたわけではないのだから。友人たちはみな、その乏しい感情に気づいてくれるからラングは嬉しいのだけれど。
『泣いているわ』『怪我をしてる』『最近生まれたばかりの子よ』『お気に入りの人の子に引っ付いていたみたい』『どうしよう』『どうする?』『アスが怒っているわ』『なら、怪我をさせた奴らに仕返ししようかしら』『そうしたら、笑ってくれるかな』『あの子も喜ぶかしら?』
聞こえた声の主たちは相談するようにくるくるとアスの周りを飛んでいる。そして時折カーテンの外を気にしているようだった。
アスはいつも通りだ。いつも通り彼らに気づかない。声にも姿にも。普通の見えない人間にも見えるように姿を表した姿さえ、彼の目には映らない。
けれど、ラングには見えていた。聞こえていた。昔は声だけだったと思う。ラングの世界には音が溢れていたから。大人になるに連れ、彼らの姿が見え始めた。今はもう、彼らがはっきり見えている。
さっきまでは静かにアスの周りを浮遊したり、頭や肩に乗っていたりしていた。それをやめたのは、アスから怒りの片鱗を見つけたからだろう。
……話の内容から察するに、あの悲鳴の主は彼らの眷属によるもの、か。
あれはまさに声なき声だったのだな、とラングは思う。同族と会話するときと同じ声ではなく、心の悲鳴をラングが聞いてしまったということだろう。原因がわかったところで何も変わりはしないけれど。
ともあれ、話の内容が少々物騒な方向へいっているようなので止めなければと、ラングは思った。
下衆な輩がどうなろうとラングは構わないけれど、そういう原因不明な怪我をした場合、生徒たちはΘクラスのせいにするのが目に見えているから、仕方がなしにだ。それに今、保健室にいる人間で彼らが見えているのも、声が聞こえているのも自分しかいない。クラスの為を思うならば選択肢などあってないようなものだ。
……まあ、Θが原因ってのは間違ってはいないわけだしね。
そう、内心ため息をついた。