負け。
そもそもの始まりを、今では思い出すことすら難しい。
どちらが悪いとかではないと思っていたし、どちらかといえば彼の方が悪いと思っていた。
男女関係において、不義を責められるのは常に女性の方が多かったわけではあるが、近年においてはそれも逆転したと思う。
奥さんがいるのに私に手を出す彼と、奥さんがいる彼に手を出す私であれば、私ももちろん悪いけれど、彼の方がさらに悪いと思っていた。
結局のところ、悲劇のヒロインぶっていたと思う。
さっきまで。
「結さん?」
弱弱しく名前を呼ばれてはっとした。よくこの状況で意識を飛ばせたもんだと自分でも感心する。
近所のこじんまりとした喫茶店は、よく一人でふらりとやってくる常連客が多く雰囲気がよかった。
店主のこだわりだというブレンドコーヒーは、なるほど詳しくない私にも良い香りがしたし、本を片手にやってくるにはちょうどよかったのだ。
そして、その静かな喫茶店は、不倫相手の奥さんとの面会場所としても最適であったと思う。
目の前でうつむきながら、ぐっと何かをこらえるように瞬きをしている女性。
線の細い上品な人だと思う。その姿には美しさすら感じた。黒の膝丈のスカートに白いブラウスを着ている彼女は、どこからどう見ても淑やかで素晴らしい奥さんだ。
それに比べて、花柄のワンピースに流行りの真っ赤な口紅、ベージュのヒールの高い靴に足を突っ込んでいる私は、悪役なのだろう。事実、そうである。
「この度は……」
声を出すと思った以上にかすれていた。慌てて水を口に含む。
「この度は、本当に申し訳ございませんでした」
それだけを言って頭を下げた。奥さんは何も言わずにじっと私を見ている。
私は顔を上げることができなかった。視界の端で奥さんのすらりとした白い指が、コーヒーカップを掴むのが見えた。
「私はね。あなただけを責めるつもりはないの。彼は40歳を超えているし……貴方はまだ27歳でしょう?」
なだめるような口調で語る奥さんにおそるおそる、と顔を上げてみる。奥さんは微笑んでいた。
どこかで見たようなその笑顔に、思わずぞっとした。とてもきれいな笑顔だが、それと同時にとても怖いものだった。
「結さん。私ね。彼と離婚したいと思ってるの。うちに子どもがいるのはご存じかしら? 私子どもの親権も欲しいし、彼から慰謝料も養育費も貰おうと思ってるの」
はい。と頷くと、奥さんは満足そうにして、そのすらりとした白い指を私に向けた。
「だからね。結さん。協力してほしいわ。そうしてくれれば、貴方には慰謝料請求しないでおくから」
これ、私の携帯の電話番号とアドレスよ。上手くやろうね。
そう言ってメモを一枚残して、奥さんは喫茶店から出ていった。私もそのメモを持ち、ふらふらと立ち上がる。
あ、お会計と思ったが、すでに支払われていた。奥さんが出る時に払ってくれたのだろう。
そこから家までどうやって帰ったのか、気が付けばベッドの上に横になっていた。
あ、負けた。
唐突にそう思った。
情けない。
そう思うと涙がこみ上げてきた。あんなに愛してたのに、彼のことなんてどうでもよくなった。ただ、奥さんに負けたのだという事実が私の中のちっぽけなプライドを傷つけた。
なんで私が被害者意識を持っていたのだろう。あんな完璧な主役が居たのに。
ぐいと涙をぬぐうように顔全体を腕ですると、口紅とシャドーのラメがついた。
あーあ、やめだ。
結局のところ、人の男というものに手を出した時点で、誰よりも私が悪かったのだ。自業自得なのだ。
それを最近では不倫は許されているだとか、男が悪いんだとか、本当の愛だとか。色々な嘘で塗り重ねて、周りから身を守っているだけだった。
結局のところ真実の愛とは程遠い、理性で押さえきれない欲なだけだった。