WIP 31/32 玉座(後編)
〝しなやす〟
意味のないささやきでも、不思議な呪文でも、あるいはレトロゲームにおいてセーブデータ代わりになるパスワードでもなんでもない。
ただの略語である。
〝死ななきゃ安い〟という言葉を縮めて〝しなやす〟と言っただけだ。
TASに限らず、ゲームにおいて広く使われる言葉である。
たとえば格闘ゲームにおいて体力を九割減らされるコンボをもらったが、相手の一瞬の隙をついて十割減らすことのできるコンボを決めた時、どのような心境になるだろうか?
死ななかったから、勝てた。
たとえ瀕死の重傷に追い込まれようとも、勝てたから安いものだ。
もちろん九割もの体力をもっていかれる攻撃が安い攻撃のわけがない。けれど、事実として自分は体力を一割残し、相手の体力をすべて減らした。
安くない。
減らされた体力が安くないという前提は、もちろん飲み下してはいるけれど、それでもあえて、勝者の余裕でこう言おう。
死ななきゃ、安い。
つまりこの言葉は、非常に痛いけれど、それでも生きている喜びを噛み締める言葉であるし――
婉曲的な、勝利宣言とも、言えるだろう。
……単純に、死ななかっただけでまだ勝ってない場合にも強がりで使われる場合もあるけれど。
タスさんに限って、そのような使い方はしない。
タスさんの負ったほとんど瀕死の重傷の代償に――
戦況が、有利に運び始めていた。
シャルロットがタスさんの治療をし、近衛兵たちはこちらに向かって迫っている。
当然の判断だ。
瀕死の重傷を負った敵と同様、その瀕死の者を治療し無防備になっている敵もまた、隙だらけなのである。
隙を突く。
達人ならずとも、戦いに身を置くならば、当然の心構えだ。
まして、謁見の間というステージはそう広くない。
鎧で武装した近衛兵でも、走ればシャルロットたちのいる場所まで三秒とかからないだろう。
狙わない方がどうかしている。
まして相手は貧弱な小娘たちにすぎないのだ。彼女らが何かしたところで、この分厚い鎧と鍛え上げた肉体をどうこうできるとは、思えない。
たとえ一本二本の矢が刺さったり、一撃二撃斬られたところで、止まらない自信が、彼らにはあった。
数ミリの隙間しかない鎧の間を通して、首元に矢でも刺さらない限り。
止まることは、ない。
しかし近衛兵の鎧は高級品だ。隙間が多かったり、無駄に重かったり、関節の動きを制限するなどという不細工はない。
万に一つも『鎧の隙間に攻撃が入る』なんていうことは、ありえない。
そんなものは、奇跡と呼んで程度の、無視できる可能性だろう。
だから、タスさんたちに一番近かった近衛兵が倒れた時、ようやく彼らは事態の異常性を悟ることになった。
奇跡が起きている。
ヤイヌの放った矢は吸いこまれるように近衛兵の急所を貫く。もっとも、複合合成級とは言え、近衛兵の鎧は貫けない。
近衛兵たちの唯一の危惧通り、鎧の隙間を通しているのだ。
狙ってできないことではない。
だが、狙ったとしてできることではない。
ヤイヌはもちろん、近衛兵たちを止めようと矢を放っている。
そして、奴らを止めるには、鎧の隙間を通して急所を狙うしかないとも、わかっている。
ただ動く生き物の狙った場所に矢を当てるのが難しいことも、熟知していた――目玉程度の大きさならば狙ってできないわけではないけれど、『鎧の隙間。しかも、急所を守る部分』は目玉ほどの大きさすらない。
一枚の紙の厚さを狙い撃つような難易度。
それでも、吸いこまれるように矢が命中した時、たしかな感触を覚えた。
「……いける」
奇跡のような状況が起きている。
いや、起きすぎている――
たとえば命中率1%の攻撃を試みる時、単純に言ってしまえば、攻撃が当たる乱数を引ける確率は100分の1ということになる。
そのわずかな可能性を引き当てるには、普段より綿密な乱数調整が必要になるだろう。
普通〝おかしなことをしているなあ〟と思われる乱数調整だが、たとえば〝のこのこ敵の目の前に飛び出してボーッとする〟などの、傍目にもわかる奇行を行うことがある。
この奇行を指して〝露骨な調整〟などと呼ばれることもあるぐらいだ。
露骨な調整は成功した。
ヤイヌの矢は過たず敵を貫いていく――が。
固い敵には一射では済まず、二射、三射必要な時もあった。
広くない謁見の間である。
接近されずに矢を放ち続けるにも、限度があった。
近衛兵は残り三人。
ほとんど一瞬で半数を減らしたヤイヌの手際は見事だが、見事すぎて近衛兵の狙いはヤイヌへと変わってしまっていた。
今までシャルロットとタスさんが行ってきた陽動効果も、さすがに限界である。
だから、タスさんはスカートの中から弩を取り出す。
敵がヤイヌに向いている今――
背中を向けた今こそ、ゲーム的にも、現実的にも、好機だった。
カシュッ、と小さな音が鳴る。
弩から放たれた矢は、背後から近衛兵の一人を撃沈せしめた。
あと二人――
しかし、一人はヤイヌを間合いに捉えており――
もう一人は、振り返りざまに弩をタスさんへ放っていた。
タスさんは今、しなやす状態である。
あと一撃も耐えられない。
だから、必要だったのは、タスさん、ヤイヌ、それから――シャルロットなのだ。
これまで治療役に徹していたシャルロットが、剣を抜き放つ。
その剣はタスさんに迫った矢を叩き落とした。
あと二射で片付く。
しかし、タスさんはもう、今からでは矢を放てない。
ヤイヌがまずは一射、放った。
その矢は――ヤイヌに接近してた方の敵ではなく、タスさんへ弩を放った方の敵を貫く。
シャルロットが叫んだ。
「ヤイヌ!?」
このままでは、彼女が危ない。
いくら装填の早い長弓と言えど、振りかぶられた剣が振り下ろされるまでには装填し、放つことなど不可能だからだ。
どうにもならない――
その状況で。
「いや、こう言うのも悔しい話なんだけどよ……」
ネージュが、近衛兵に大剣を振り下ろして、言った。
「お前ら、あたしのこと忘れすぎだろ」
ドゴン! というハンマーでも叩きつけたような音が響き――
宰相派の近衛兵たちは、そのすべてが倒された。