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男の長風呂

作者: くまごろー

「秘密」と題して掲載していたものを『男の長風呂』と改めました。(10/24)

性描写はありませんが、結婚経験者でないとわかりにくいでしょう。青少年向けではありません。

 僕はとうとう妻に秘密をもってしまった。宝くじに当たったなどの悦ばしいものではない。赤の他人がいっしょに暮らし始めて7年、世間でもこうしたことは珍しくないらしい。でもまさか自分の身にふりかかって来ようとは夢にも思わなかった。……仕方ないさ、生理的欲求なんだから……。


 僕は自分に言い訳するが、気持ちはスッキリしない。僕はしでかしてしまったことより、妻との間に重いカーテンを引いてしまったようなこの気持ちをずっと持ち続けなくてはならないのかと思うと、その方がつらい気する。悪夢だったと忘れてしまおう。僕は妻を愛しているのだし、平々凡々な今の生活を大事に思っているし、不満という不満もないのだから。実際、かいがいしく家庭を切り盛りしてくれている妻を、恋愛時代とはちがった意味で愛して、いや、有難いと思うようになっている。家の中をキチンと整理するきれい好きの妻を自慢にも思う。今だっていい夫婦だと思いたい。そのことに変わりはないのだけれど……。でも、やっぱり僕がいけなかったと思わずにはいられない。


 最初の娘が生まれたときに、僕は病院でやることが何もなかった。妻は出産に立ち会ってほしいとは言わなかった。男がお産をのぞくようなことをするものではない、と言った義母に妻も僕も素直に従ったからだ。義母は妻を古風に育てた。今だに士族の出であることが誇りというのも恐ろしい。


 僕は、化粧を落として腫れぼったい顔に玉の汗をうかべ、骨盤をみしみし言わせて分娩台で力む妻を想像していただけだ。彼女の痛みは僕には伝わって来ない。男の身には少しも変化が起きないのが出産という現実なのだ。自分が係わって女に子を産ませたという事実は観念で捉えるしかない。妻に代わって、いや妻といっしょに自分の身体も痛んでほしい。信じてもいない神さまにそうお願いもした。


 初めての子をみごもった妻は世間の妊婦たちと同じ不安と期待をもって病院に通った。腹が次第にせり出し乳暈が黒ずんで、妻は僕が知らない体型になっていった。僕はその変化を、最初こそ子を授かった嬉しさから有難いと思い、面白がったり感心したりしていたが、その一方に不満が芽生え、それがじょじょに大きくなって行くのも感じていた。妻の関心事は腹のなかの子だけで、僕は以前のようにかまってもらえなくなった。事情が事情だから仕方がないとも思ったが、僕の性欲は妻の妊娠とは関係なく高まった。僕は自分を持て余していたわけだ。


 母となる体は妻を休業せねばならない。……子供への愛情が強いのはいい、でも、こうまで放っておかれるのはたまらんな。少しは工夫してくれてもいいんじゃないか……。男の欲望を処理してくれる業界のあるのは知っている。でも、「僕は性欲です。今、やりたいんです」と顔に書いて出かけるようなのは好きじゃない。いや、好き嫌いじゃなく、仕方がないから風俗店があるわけだし、男というのは昔からそういうものだ、と妻も母親から教え込まれて頭では理解しているだろう。


 潔癖症とまでは言わないまでも、妻は僕がそういう場所に行くことは好まないだろうし、僕の信念としても、無人格で道具のような女との交渉はイヤだった。下半身に人格などないのが世間相場だけれど、結婚して妻との間に全人的な愛の営みを知っている僕が、妻をこよなく愛している僕が、下半身だけ別に都合をつけるのは背徳行為のような気がしてしまう。僕はしかたなしに悶々とする。


 夫の浮気が一番多いのは妻の出産時だそうだ。自分をふり返ってみて、そうだろうと思う。浮気をする男というのは全人的と言えば聞こえはいいが、上半身と下半身が未分化の精神的未成熟で、割り切れないタイプなのだろう。つまり、どこまでも愛情が与えられることを求めてしまう幼児性が残っている男だ。性交渉の背後にいつも愛情あふれる人格を求めてしまう甘ったれだという自覚がない男は、浮気より本気に走る危険なタイプだが、そんなわがままがどの男のなかにもある。男がそれを実行したら、何人もの腹違いの子供を作ることになる。金にものを言わせる成金社長にしても、暴力で縛りあげるヤクザにしても、わがままを通すからひとりの女では済まない。一般的な男たちはそのどちらも自由にならないので、仕方なく平凡な一夫一婦主義の亭主に落着いているという解釈も成り立ってしまう。


 ある作家の言に「一方は誘惑したがり、もう一方は誘惑されたがっているのだから、これで話がまとまらなかったら、そのほうがよほど妙だ。」というのがあった。そのように浮気も周辺的な条件がそろえばいつでも芽吹いてくるものなのだ。古風な言い方をすれば、男は種で女は畑である。人間は鴛鴦(オシドリ)でもなければ丹頂ヅルでもないから男のわがままは〈制度〉で縛るしかない。男は結婚しないことには女ひとりを自由にできないし、女は結婚するためには自分を投げ出さなくてはならない。それを多少理知的で文化的なものにしようと性欲に人格の仮面をかぶせるのだ。


 僕も結婚前は、自分はこうありたいという事を妻には語ってきたわけで、自分の本性がこうである、とは言わなかった。そこを知ってか知らずか、妻のほうもそんな僕の腹と行動の食い違いを追求しなかったのだから、彼女の方も僕のことを幾分かは好きでいてくれたんだろう。お互いに秘密は持たないという約束を交わして、何となくウヤムヤではあるけれど、僕らはそれで今日まで何事もなくやってきたのだった。


 ……秘密をもったのは妻との約束を破ったことだ、正直ではない。欲求を表に出さないのが〈たしなみ〉だと育てられた妻のことだ、今回のことを正直に打ち明けたら、頭から僕を軽蔑するだろう。そこからひびが入って家庭崩壊するかも知れない。やぶへびだ。やはり言わずにおこう……。子は親から正直であることを求められる。嘘があると管理できなくなるし、親だって子の隠し事そのものはどうこうしようもない。約束にこだわって、妻が不快な思いをするのをわかっていて告白するのは幼稚だ。大人なら正直と嘘の間のグレイ・ゾーンで処理して関係を壊さないことだ。僕は妻を愛しているから妻との約束を破らなくてはならない。


 僕は妻の過去をすべて知ってるわけじゃないし、知って面白くないことを聞き出そうとも思わない。大した考えもなくしてしまった約束だけれど、秘密を持つということは状況に応じて自分をコントロールするだけのことじゃないか、そう思おう。……それにしても僕は、まさか自分がこんなふざけたヤツだとは思わなかった。欲求に負けた自分が情けない。やむにやまれぬことだったとは言え、情けない。本能はドライブがかかったら直進するしかない。どっちに向かおうがまっしぐらだ。


 下腹部の内圧が高まって痛みは限界だった。僕は自分の性器からほとばしり出る液体をぼうぜんと眺めるだけだった。透明なレモンイェローの液体の勢いはいつまでも衰えなかった。張りつめていた膀胱の痛みはじょじょに引いてくると、僕の頭なかで、泣き出しそうに顔を歪めた妻が「信じられないッ!」と叫んだ。……す、すまん。もう二度としないから……。男が長風呂などするものではない、ましてやビールを飲み過ぎた後などには……。(了)





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