第1話:退屈な部屋と、錆びた秘密
画面の向こうにいる彼女は、一体どこの誰だったのだろう。
なぜ僕のスマートフォンは、あんなにも遠くて、あんなにも不自由で、だけど世界で一番愛おしい場所へと繋がってしまったのだろう。
これは、僕たちの指先が硝子板を介して重なった、一夏の奇跡の話だ。
そして、あの夏の終わりに僕たちが辿り着いた、あまりにも切なくて、あまりにも美しい、命の物語だ。
夏休みが始まって一週間。十七歳の僕――一ノ瀬ハルを包む世界は、徹底的に退屈だった。
「あー、まじでやることねぇな……」
じっとりとした湿気を含んだ八月の風が、網戸を揺らして部屋に入ってくる。築年数すら分からない実家の木造住宅は、風が吹くたびに小さくきしんだ。エアコンの冷気はぬるく、スマホの画面をスクロールする親指だけが、僕の体の中で唯一せわしなく動いている。
ふと、視線を画面から部屋の隅へと移す。
僕のベッドの脇にある、色褪せた大黒柱。その目の高さのあたりには、奇妙な模様が彫り込まれていた。縦横の比率が『1対2』ほどの、何の飾り気もない、ただの滑らかな長方形の窪み。
子供の頃、気になって父親に訊ねたことがある。「これ、何かのマーク?」と。
父親は古いお茶をすすりながら、「さあな。じいさんの、そのまたじいさんの代からある柱だ。大工だった先祖の、妙なこだわりだったらしいぞ」とそっけなく答えただけだった。家紋でもなければ、職人のサインでもない。ただの、長方形。センスがないな、と僕は思った。
冷たいスマートフォンのガラス画面に視線を戻す。
画面の中には、世界中のきらめく日常や、一瞬で消費される短い動画があふれている。だけど、そのどれもが僕の心をかすりもしない。すべてが手の中に収まりすぎていて、逆に窮屈だった。
そんな時、タイムラインに流れてきた一枚の画像が目に留まった。
『今、SNSで密かに話題のAIチャット。完璧なキャラクター設定と、あまりにリアルな返信速度の遅さが病みつきになる。まるで本物の人間と文通しているみたい――』
添えられていたのは、一つのQRコードだった。
「文通、ねぇ……」
数あるAIチャットの中でも目を引いたのは「AIチャットー明治浪漫―」。
・・・ダサい。令和のこの時代に明治浪漫。だが逆に新鮮で興味を引いたのだ。
どうせ、よくあるお遊びのチャットAIだろう。だけど、あまりの退屈さに毒されていた僕は、指先ひとつでそのQRコードを読み込み、緑色のメッセージアプリに新しい『友達』を追加した。
出てきたアカウント名は、シンプルに【コト】。アイコンは、設定されていないのか真っ白なままだ。
トーク画面を開く。定型文の挨拶すら送られてこない。本当にただの空っぽの部屋みたいだった。
僕は寝転がったまま、親指で適当なメッセージを打ち込んだ。
『うす。進路とかだるい。そっちは今、何してる?』
送信。既読表示はつかない。すぐに返信が来るはずのAIにしては、一分経っても、三分経っても、画面には何の動きもなかった。
「なんだよ、バグか?」
スマホをベッドに放り出し、天井を見上げる。やっぱり、ネットの噂なんてそんなものだ。そう諦めて目を閉じかけた時。
――チリン。
静かな部屋に、スマートフォンの涼しげな通知音が響いた。
慌てて画面を覗き込む。そこには、およそ現代の高校生が使うアプリには似つかわしくない、あまりにも丁寧で、奇妙な文字列が浮かび上がっていた。
『……初めまして。不躾なお便り、恐れ入ります。私は今、庭の縁側で夕涼みをしております。おしんろ、とは何事でしょうか?』
心臓が、小さく跳ねた。
設定がガチすぎる。それが、このアカウントに対する僕の最初の感想だった。




