35.幸子、怒りを握りしめる
ヤヨイさんの話を聞き終えて、私はそっと息を吐いた。
重たかった。けれど、それは逃げ出したくなるような重さではなかった。
誰かの現実が、ようやく自分の足元に届いた──そんな、確かな感触だった。
「……話してくれて、ありがとう。
正直、すぐに全部を受け止められるかはわからないけど……聞けて、よかった」
そう言うと、ヤヨイさんはかすかに目を伏せ、静かにうなずいた。
「ごめんなさい。重い話ばかりで……」
「ううん。ちゃんと聞きたかったことだから。
やっぱり、ヤヨイさんが言ってくれたように、“安定した暮らしの手段”は必要だと思う。
でも、すぐに『こうすればいい』って答えを出せるほど、私は強くも賢くもないの。
だから……少しだけ、時間をもらってもいい?」
「もちろんです。……ありがとうございます」
「私のほうこそ、ありがとう」
私は立ち上がり、部屋のドアに手をかけた。
ふと振り返ると、ヤヨイさんがまっすぐこちらを見つめていた。
その瞳の奥には、揺れながらも「信じたい」という想いが、確かに宿っていた。
その夜、帰宅してからも、ヤヨイさんの言葉が頭から離れなかった。
老朽化した施設、打ち切られる支援。
物音に怯える子どもたちと、疲れきった笑顔を浮かべる母親たち──
私はノートを開き、思いつくままに言葉を書き出していった。
──自分にできること。
──自分だからこそ、できること。
ひとつずつ、現実的に考えた。
小さくてもいい。うまくいかなくてもいい。
それでも、「動く」ことだけは、やめたくなかった。
* * *
──あれから1週間。
ノートを読み返しながら、私は深く息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出すその呼吸に、少しだけ迷いが晴れた気がした。
──よし。やってみよう。
ノートを閉じ、立ち上がる。
まずは、あの場所へ行こう。
最初の一歩は、そこから。
「お話があります」
私は彼の前に立ち、はっきりと言った。
ここは──五条家当主の執務室。
そう、今いちばん嫌いな男の前に、私は立っている。
そいつ……一応、私の夫とされている男は、書類から目を離すことなく、こちらを一瞥もしなかった。
「俺は忙しい。要件を手短に言え」
──私は脳内でバックドロップを決めた。
はっ! いけない、いけない。
相変わらずの態度に我を失いそうになる。
うん、本当にむかつく。けれど、今はお願いをしなきゃいけない立場だ。
拳をぎゅっと握りしめ、言われたとおり、さっさと要件を伝えよう。
私が本気でプロレス技を炸裂させる前に、退散しないと。
私は決意を胸に、ぐっと顔を上げ、口を開いた。
「……ひとつ、お願いがあって来たの」
なるべく感情を抑えて、落ち着いた声で言う。
「施設のために、我慢よ」と、自分に言い聞かせながら話した。
ようやく彼は書類から視線を上げ、無表情のまま私を見た。
「……で?」
イラッとする。
口元が動いた瞬間、条件反射で拳に力が入った。
でも、今は堪えなきゃ。今はまだ、爆発のタイミングじゃない。
「支援したい施設があるの。古くなった建物で、補修が必要な状態なのと……
支援を受けながらも、住む場所に困っている母子も多くて」
「それが、俺に関係あるのか?」
よくもまあ、こんなふうに言えるものだと感心する。
でも私は、深呼吸をしてから、きっちり目を合わせて口を開いた──。




