32.幸子、少しずつ一緒に
マドカさんは、にじんだ涙を慌てて拭おうとした。
けれど拭いきれず、一粒の涙がぽたりと頬を伝って落ちた。
「……ごめんなさい。こんなところで、泣くなんて」
「謝らなくていいの。泣きたいときは、泣いていいのよ」
そう声をかけると、マドカさんは少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「……今まで、“ちゃんとしなきゃ”って、そればかりで……
サチコのことも、自分のことも、見えなくなっていた気がします」
「うん。でも、いまはちゃんと見ようとしてる。
それって、とても立派なことよ」
私の言葉に、迷いはなかった。
マドカさんは、確かに自分を見つめようとしている。
その歩みがどんなにゆっくりでも、それは前へと続く一歩だ。
「……もう少し、頑張ってみます。
サチコのためにも、自分のためにも……ほんの少しずつでも、変わっていけたら」
「焦らなくて大丈夫。変わるって、“少しずつ”の積み重ねだから」
そう伝えると、マドカさんは小さく頷いた。
その顔には、さっきよりもわずかに、穏やかな光が差していた。
その様子に、私もほっと胸をなでおろしながら、そっと言葉を続けた。
「子育ても、出産も、本当に大変なことよね。
頑張らなきゃって、つい思ってしまう……私も、そうだったわ」
「……はい」
「でもね、すべてをひとりで頑張る必要はないのよ」
「──え?」
マドカさんが驚いたように目を丸くする。
私は、少しだけ言葉を探してから、微笑みながら続けた。
「ここにはヤヨイさんもいるし、マドカさんと同じような悩みを抱えているお母さんも、きっといる。
──それに、私もいる。つらいときは、私もマドカさんと一緒に歩いていくから」
マドカさんは、目を伏せたまま、しばらく黙っていた。
やがて沈黙の奥から、ぽつりとこぼれた言葉──
「……そんなふうに言ってもらえたの、初めてです」
声には、戸惑いと、どこか安心したような響きが混じっていた。
「いつも、“頑張って当たり前”って思われてて……
弱音を吐いたら、“母親なんだから”って言われて。
誰かに頼っていいなんて、思えなかった……」
「……よく頑張ってきたね」
私の言葉に、マドカさんは小さく笑った。
「……はい。ちょっとだけ、苦しかったです」
その笑みは、涙の跡を残しながらも、どこか柔らかく、前よりずっと自然に見えた。
「母親だからって、弱音を吐いちゃいけないなんてことはないわ。
困ったことがあったら、ぜひ相談して。
どうしたらいいか、一緒に考えましょう」
そう伝えると、マドカさんは一瞬、目を見開いたあと、ふっと優しく笑った。
「ありがとう、ミレイさん。今日、お話できて、本当によかったです」
「こちらこそ。話してくれて、ありがとう」
しんとした空気の中で、ふと、小さな声が聞こえてきた。
お昼寝スペースの方から、子どもたちのにぎやかな声が戻ってきている。
マドカさんがそっと顔を上げる。
「……サチコ、起きたのかもしれません」
「そうね。お母さんを探してるかも?」
私が微笑んでそう言うと、マドカさんも静かに頷いた。
「……行ってきます」
立ち上がったマドカさんの背中は、まだ少し頼りなく揺れていたけれど、
その足取りには、確かに前へ進もうとする意思があった。
私は、その背中をそっと見送った。




