29.幸子、あの10ヶ月間を思い出す
「ヤヨイさん」
そっと声をかけると、ヤヨイさんは少し驚いたように顔を上げた。
「ミレイ様!? サチコちゃんは……?」
「“ミレイ様”じゃなくて、“ミレイさん”でしょ?」
わざとジロリと睨むと、ヤヨイさんは口元を押さえて「すみません」と謝った。
……まあ、周りに聞いている人がいなかったからいいけど。
「サチコちゃんなら、絵本を読んでたら寝ちゃったの。あっちのお昼寝スペースに寝かせてきたわ」
「あ……サチコちゃんも寝ちゃったんですね」
そう言ってヤヨイさんが目を向けた先には、すやすやと眠るマドカさんの姿があった。
目元は少し赤く見えたけれど、安らかに眠っている様子に、私はほっと息を吐いた。
「マドカさんは……?」
「いろいろと、頑張りすぎてしまっていたみたいです」
そう言うと、ヤヨイさんはしばらくマドカさんの寝顔を見つめていたが、ぽつりと私の名を呼んだ。
「ミレイさん」
「なに?」
返事をすると、ヤヨイさんは言い淀むように口を開いた。
「……マドカさんのことなんですが」
その名前に、私は思わず眠るマドカさんに目をやった。
「実は……彼女の体調があまり良くないんです。
双子を妊娠してから無理がきかなくなって……それでも仕事を続けていたんですが」
そこでヤヨイさんは、わずかに眉をひそめた。
「悪阻が……妊娠が分かったころから、6ヶ月くらいまで続いていたそうです」
「それは、大変だったわね……」
心から、そう思った。
幸子も、悪阻は毎回大変だった。
一般的に悪阻は妊娠3ヶ月ごろがピークで、4ヶ月ごろまでには落ち着くと言われている。
でも実際は人それぞれで、同じ人でも毎回違ったりする。
5回も妊娠・出産を経験した幸子だったが、その悪阻も毎回、長さも辛さも違っていた。
一番最初のとき。
妊娠検査薬や病院で妊娠が分かっても、自分の中に“別の命”があるなんて、実感が持てなかった。
そんな中、妊娠3ヶ月ごろから「なんだか気持ち悪い……?」と感じ始め、「もしかして、これが悪阻!?」と、最初はちょっと嬉しく思ってしまった。
でも、その感情はすぐに吹き飛んだ。
気持ち悪さに始まり、だるさ、頭痛、眠気、貧血でふらふらする日々。まるでずっと二日酔いみたいな状態で、1日に何度も吐いた。
「一ヶ月くらいの辛抱!」と自分を励ましたけれど、結局妊娠5ヶ月ごろまで続いた。
そして二人目のときなんて、出産直前まで悪阻が続き、陣痛の最中にも吐いた記憶がある──。
そんな記憶を思い返していると、ヤヨイさんの声が現実へと引き戻してくれた。
「それで……3ヶ月前に、職場から契約を打ち切られてしまったそうです。“今の状態では責任が持てない”と」
「そんな……」
「それから急に生活が苦しくなって、ご主人も最初は支える気があったようなんですが……現実を前に、逃げてしまったんです」
私は言葉を失った。
「今は、金銭的にも精神的にも限界に近いと思います。
この施設に来られるようになったのも、ご近所の方が様子を見かねて、私に連絡をくださったからで……」
「そうだったの……」
私は、静かにマドカさんの寝顔を見つめた。




