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その夜、祥子は浅い眠りのなかにいた。礼佳の寝息が隣で静かに続いている。部屋のカーテンが風もないのにわずかに揺れ、その隙間から、潮の匂いが忍び込んだ。
「ママ…、また海の音がするよ…」
礼佳が寝言のように呟く。祥子は礼佳の小さな手を握って目を閉じた。世界のすべてが反転したように思えた。目を開けると、そこはあの岬のうえだった。白い霧が海を覆い、足元の岩が脈打つように震えている。潮騒のなかから白衣をまとい、髪を風に流した女が現れた。母明子だった。
「お母さん…」
祥子の声が震えた。明子は微笑みながら、礼佳のほうへ視線を向けた。
「この島はね、血で守られてきたの…。海を鎮め、地を眠らせるためにね。けれど、その血はもう薄れてしまったわ。だから島が再び呼び始めたのよ」
「呼ぶって?誰を?」
「あなたたちよ…。そして、あの人も…」
明子の指が海の向こうを指した。薄い霧のなか、灯りが幾つも浮かんでいる。あの徳治の船がいくつも、いくつも並んでいた。
「お父さんはまだ海の下にいるの?」
祥子の問い掛けに、明子はゆっくりと首を振った。
「いいえ。あの人は島になったわ。この岬の骨のひとつとして、眠りの底で皆を支えているの。でも、この国の人たちはそれを資源と呼んでしまった…」
そのとき、海面が低く唸った。足元の地が揺れ、霧の奥から鉄骨の構造物が現れた。護岸の測量塔だ。地質班が設置した観測装置だった。それは地面の震えに合わせて、まるで呼吸しているようだった。
「祥子…」
明子の声が重く響いた。
「この島は沈まない。沈ませてはいけない。けれど、あの人たちは岬の記憶を壊そうとしているの。それをあなたが守らなければならない…」
「あたしが?」
明子は頷きながら微笑んで、礼佳の手を祥子に重ねた。
「この子にも同じ血が流れている。鎮めることはあなたたち二人にしか果たせないわ。この海はあなたたちを選んだの」
霧が渦を巻き、潮の音が激しくなった。祥子は礼佳を抱きしめたまま涙を流して叫んだ。
「わからないっ、どうすればいいの?教えてよっ、お母さん!」
明子の声は遠のいていく。
「思い出してっ。岬の祈りをっ」
祥子は目を覚ました。頬が濡れている。夢のなかで流した涙の温もりが現実にも残っていた。枕元のスマホが震えた。ディスプレイには〈賢祐〉の名が表示されている。スワイプすると、雑音の奥から夫の声がした。
「祥子?ああ、やっと繋がった。祥子?聞こえてるのか?もしもし?」
「うん、聞こえてるわ。大丈夫よ。やっと繋がったって?あれから一度も着信してないけど…」
「えっ?そうなのか?おかしいなあ、それ。ま、いいや。とにかく、島がおかしいんだ。地面が息をしてる。まるで生き物みたいに」
祥子は唇を噛んだ。
「あたしも見たわ。お母さんも言ってた。沈まない島って」
「え?何だって?」
賢祐が聞き返すと、また通話が途切れた。遠くで雷鳴が鳴り、町の灯りが一斉に揺れた。スマホの画面に潮の波紋のような光が広がっている。まるで海がここにも届いたかのように。




