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島へ向かうフェリーのデッキで、潮気を帯びた風が、賢祐の頬を撫でるたびに記憶が捲れていく。去年の台風で行方不明の義父徳治の影と岬で聞こえた礼佳の声が耳鳴りのように蘇る。
「パパ、こっちに来て…」
また聞こえるあの声。振り向いたが、そこには誰もいない。ただ遠くの水平線の上をカモメが一羽、旋回しているのが見えた。港が見えてきた。島の形はあの頃と変わらない。西の岬もはっきり見える。だが、海の色がどこか違っているように感じた。光を吸い込み、黒い深淵を抱えているような気がする。潮の匂いが、懐かしい痛みのように鼻を刺した。
賢祐は港湾局から委託を受けた地盤測量チームの一員として、再び島に降り立った。名目は防波堤の老朽化調査と修繕計画のための地盤測量。しかし依頼書の末尾にひとつだけ不自然な行があった。【付随業務】地層・磁気異常データの採取。賢祐は目を細めた。港湾局の仕事で《磁気》という単語を見るのは初めてだ。現場に運ばれてきた機材も通常の地盤探査機ではなく、国立地質研究所のロゴが貼られた最新の磁場観測装置だった。
「何だこれは…」
賢祐は独り言のように呟いた。
チームの主任技師山下翔太が淡々と応える。
「島の地下に異常な磁場層があるそうなんです。政府内閣官房からの依頼で、地盤測量と併せて、それらも測定することになりました」
「異常な磁場だって?」
「ええ、地質研が3年前から観測しているデータと合致しないんだそうです。海底の地殻が呼吸するみたいに、周期的に上下しているとかで…」
賢祐は背中に潮風とは違う寒気を覚えた。呼吸する地殻だって…。まるで島そのものが生きているかのようだと…。以前、賢祐が実際に経験したあのときのように…。
その日の午後、測量艇で湾内の測定をしていると、音響探査機のモニターが一瞬だけ乱れ、ノイズの中にはっきりとした形が浮かんだ。人影のようにも見え、船影のようにも見える。
「待て、そこの反応を拡大してくれないか」
山下の指示で、測量助手の矢島達也が操作する。スクリーンの中央に、朽ちた小型船のシルエットが現れた。
「えっ?まさか?」
賢祐は息をのんだ。
「ん?どうしました?」
山下と矢島は不思議そうな顔をして賢祐を見た。
それはあの台風の夜に転覆したはずの義父大原徳治の漁船だ。賢祐はモニター見ながら指示した。
「悪いが、この場所まで移動してくれ」
測量艇を現場へ戻して、水中カメラを沈めてみたが、モニターに船影が写っているにもかかわらず、そこには何もなかった。
「そんなバカなっ!」
「ど、どうなってるんでしょうか?」
賢祐は矢島と顔を見合わせた。しかもその場所の海面には、一艘の船が静かに波に揺れていた。その船体番号を見た瞬間、賢祐の喉が音を失った。K―0721。それは確かに徳治の船だった。船体は新しく、錆びも潮焼けもない。まるで昨日進水したかのようだ。
「中澤さん、これ、どういうことなんです?」
山下の声が震えている。
「これって、記録では沈没船扱いのはずですよね?確かにモニターには映っていますし…」
賢祐は唇を噛んだ。
「記録は嘘をつかない。だが、海は記録を喰ってしまうのかも…」
夕刻、規定作業を終えた賢祐は、所有者不明の船舶を発見した旨、港湾局に報告し、港まで曳航するよう依頼した。この島には宿泊施設がないため、ホテルに宿泊するには、本土の港へ戻らなければならない。フェリーは一時間足らずだが面倒と云えば面倒だ。賢祐は会社が用意してくれた本土のホテルには戻らず、久しぶりに大原の家で過ごすことにした。その旨祥子に連絡しておこうとスマホを取り出した瞬間。それが振動しながら着信音が響いた。ディスプレイには〈祥子〉の表示。
「祥子か? どうした?」
「あなた、いまあたしの家?」
「どうして?いまそれを連絡しようとしたところだった」
賢祐は首を傾げて訊ねた。
「お父さんの船がまた現れたの…」
祥子の声が沈む。
「ん?何だって?何を言ってるんだ?」
祥子の声が遠く擦れた。その奥でいきなり〈ウゴォォ〉という低く唸るような声が聞こえた。まるで海底が呻いているような音…、そうだ、あの岬の音だ。
「祥子っ?どうしたっ?聞こえるかっ!」
「お母さんが呼んでるの。もう一度岬に…」
そこで通話が途切れた。
「もしもしっ?祥子っ?もしもしっ?」
何度かけ直してみても繋がらずに、留守番電話の案内に切り替わった。
大原の家はあの出来事から2カ月ぶりだ。
玄関扉を開けて、壁面のブレーカーを上げて、土間のライトを点灯してから、居間の明かりも点けてみる。すべてあの日のままで、何も変わりないが、部屋自体はきれいに整理され、ざっと見たところ塵や埃もなさそうだ。おそらく、マート・ヒラカワの平川由美子がまめに掃除してくれているのだろう。
〈コンッ〉海側の窓ガラスに、何かが当たる音がした。振り向くと、窓の向こうに灯りが見える。幾つもの小さな明かりが、列をなしてゆっくりと岬の方角へ進んでいた。まるで、亡者の行列のように。




