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翌朝、祥子が朝食の後片付けをしていると、ダイニングテーブルのうえでスマホが振動しながら響いた。賢祐は既に出勤し、礼佳もさきほど登校させたところだ。スマホは島の商店マート・ヒラカワの主人平川宏太を表示していた。
「おはようございます。朝早くからすみません。お元気ですか?あれから変わりなく?」
受話器の向こうで、躊躇いがちな声が少し震えているような気もした。
「どうかしたんですか?」
祥子は思わず訊ねてしまった。
「いえ、いきなりおかしなことを云うようですが、あのう…、徳治さんの船がまた見つかったんです」
「お父さんの船って?なんで?」
祥子は宏太の云ってる意味が理解できなかった。
「ええ、ずっと前に転覆した状態で見つかって、そうそう、確か、祥子さんにも解体の了承してもらったって漁協の誰だったか、言ってたように思いますけど」
「あ、はい、そうです。そうです」
祥子はスマホを耳に当てたまま、頭を縦にコクコクと何度も振った。
「でも、すでに解体したはずのその船が、まるで誰かが昨晩、漁に出て帰ってきたかのように、桟橋に浮かんでいたんだそうです」
祥子は無言のままだったが、宏太が話し続ける。
「町でこの船どうしようとか、気味が悪いとか、云ってたんだけど、とにかく大原さん…、あ、中澤さんに連絡してほしいってことで、うちに連絡してきたのが昨日です。ところが、今朝見ると、それが跡形もなく、無くなってしまっていたと、こういう訳なんですよ」
「えーっ、何ですか?それ?嘘みたいですけど、でもご迷惑お掛けしていますよね、それって。でも、そういうことでしたら、とりあえずは、問題ないんですよね?」
祥子は恐縮しながら、賢祐と相談して、改めて連絡すると伝えて電話を終えた。
祥子はダイニングテーブルの椅子に腰かけたまま、しばらく動けなかった。スマホを切ったその瞬間、窓の外をかすめた風が潮の匂いを運んできたようだった。まるで、あの島がふたたび呼吸を始めたかのように思えた。
その日、賢祐が会社から戻って、いつものように祥子が晩酌の付き合いをする中で、宏太からの話を伝えたが、いまのところ、こちらから行動を起こす手立てもないので、看過するしかないということになった。
その夜、祥子はひどく浅い眠りの底で、また波の音を聞いた。最初はどこか遠くで、貝殻を転がすような小さな響きだったが、次第にそれは人の声のように変わっていった。
「帰っておいで…」
女の声だった。穏やかで、優しく、それでいて抗いがたい響きを帯びていた。気づけば足元が濡れている。見下ろすと、白い足が海水に沈み、潮がゆっくりと引いていく。その女はどこかの浜辺に立っていた。夜明け前の薄明、その海の向こうに、あの西の岬が見える。霧の切れ間に黒々とした影が浮かんでいた。
「お母さん?」
声を出したつもりなのに音が出ない。代わりに潮風が応えた。
「あの子を、守って…」
それは誰の声でもなかったが、胸の奥では母明子の面影がはっきりと見えた。祥子は歩き出す。足跡が白砂に刻まれ、すぐに波にさらわれる。そのたびに、何かが少しずつ奪われていくような気がした。それは記憶なのか、時間なのか、それとも…、自分自身そのものなのか…。気付いたとき、岬のふもとに立っていた。そこにひとりの女がいた。白い装束のような衣をまとい、長い髪が潮風に流れているが顔は見えない。けれども、その身体の輪郭にどこか懐かしさを覚えた。女はゆっくりと振り返り、目が合った瞬間、祥子の心臓が跳ねた。自分と同じ顔…。いや、少し違う…。それは若き日の母明子だった。
「お母さん?なの?」
祥子の声が震える。
明子は何も言わず両手を広げた。次の瞬間、背後から波が押し寄せ、視界が白く弾けた。
祥子は寝室のベッドの上にいた。冷や汗が額を伝い、わずかにシーツを濡らしている。時計の針は午前3時を指していた。窓の外では風が鳴いている。その音に混じって、微かに潮の匂いがしたような気がする。隣室から小さな声がした。
「ママ…」
礼佳の寝言だと思い、祥子は寝室から出て、そっと子供部屋のドアを開けたが、そこには誰もいなかった。ベッドは整ったまま、掛け布団だけが少し乱れている。開け放たれた窓の向こうに、月明かりが白く流れていた。祥子はあの潮の夢がまだ終わっていないことを悟った。
「賢祐さんっ!起きてっ!礼佳がいないっ!」
祥子は賢祐を揺り起こした。
「んん?どうした?」
賢祐は寝ぼけ眼で半身を起こし、祥子を見た。
「礼佳がいないのよっ」
祥子はベッドのうえで泣ぐんでいる。
「えっ?何だって?」
賢祐は慌てて子供部屋のドアを開けた。そこには横向きで両腕を掛け布団から突き出していたが、礼佳が静かに寝息を立てていた。
「う、うそっ、さっきは誰もいなかった…」
眠っている礼佳を見つめながら呟いた」
「祥子、どうしたんだよ。夢でも見たんじゃないのか」
賢祐は祥子の両肩を撫でながら微笑んだ。
「ううん、そうじゃないよ。夢なんかじゃない…」
祥子は涙を浮かべながら賢祐に抱きついた。
眠っている礼佳の踵に、僅かながら細かい砂が残っていたことを、2人とも気が付くことはなかった。




