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祥子はフェリーの出発時間まで待てず、夜明けとともに家を出た。夏の繁忙期などに帰省する際、希望時間のフェリー予約が取れない場合がある。そんな折に乗せてもらっている馴染みの漁師石川航平に頼んで、島へ渡してもらっている。
「なんか知らないけど、国だか政府だか、訳の分かんない連中がいっぱい来てさあ、島から出るなとか、誰も入れるなとか云って、フェリーも今日から運休なんだよ」
石川は不満そうな顔をして苦笑いを浮かべた。
「えっ?そうなんですか」
祥子は少し驚きながら石川を見た。
「うん、そうなんだよ。だからちょうどよかった」
「よかったって…。それ、大丈夫なんですか?捕まったりしない?」
「あははは、大丈夫ですよ、そんなの。あんな連中には捕まらないって」
石川はわざと大げさに笑って見せた。
祥子はほっとしながら、礼佳を抱くようにして胸元へ寄せた。曳き波を切り裂いて進む渡船のエンジン音が急に弱まった。操舵していた石川が眉をひそめる。
「ん?おかしいな。今朝から潮がぶつかってるな。普通この時間はすんなり港に入れるはずなんだがなあ…」
祥子が抱き寄せている礼佳の顔を見て、安心させるように微笑むと、礼佳は黙って微笑み返すものの、その眼は周りの海すら見ていなかった。もっと深い場所…。海面のずっと下のほうを見ているようだった。
「引っぱられているよ…」
礼佳が小声で囁く。
「えっ?礼佳?」
祥子が顔を近づける。
「ほら、ママ…。この船、怖いほうへ行くよ。
海の穴があるほうへ…。穴があっちにあるのに…」
石川が慌てて舵を戻そうとした。
「いやいや、そんなはずは…、ん?これは?だ、だめだっ!」
石川は操舵輪を掴んだまま叫んだ。その操舵輪は逆方向に動いて、両手で抑えてはいるが、反対方向へ回ろうとしている。まるで見えない手が舵を握っているかのように…。祥子の背筋に冷たいものが走る。
(賢祐さん…これはあなたがいたあの夢の中と同じなの?)
いままで吹いていた風が突然止み、礼佳が祥子の腕の中で顔を上げて呟いた。
「おばあちゃんが呼んでる…」
祥子は息を呑む。
「礼佳、それ?どういうこと?」
礼佳は海の先を指差した。その方角にある断崖の上の林が揺れていた。いや、揺れているのではなかった。それは島が呼吸しているように見えた。風向きとは逆向きに木々が膨らんだり、萎んだりしている。祥子は恐怖を覚えながらも、それを理解したかのようにも思えた。
〈島全体が生きている。だから、礼佳が反応するんだ〉
「ママ…。島は…、怒ってるんじゃないよ」
礼佳は大人のような静かな声で続けた。
「怖がっているんだよ。だから、人を呼ぶの…。ここにいてほしいって云ってる」
祥子は礼佳を抱きしめながら叫ぶ。
「石川さんっ!港に向かって!無理でも、回してください!」
航平はフルスロットルで舵を戻そうとしたが、潮流に逆らうどころか、祥子の願いを無視したように、船はますます西の岬へ向けて流されていった。礼佳を島の心臓部に連れて行けと命じられているように…。




