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夜明け前、海は異様なほど静まり返っていた。西の岬から吹き上がる風は、まるで巨大な胸腔の奥から吐き出された息のように湿っている。港に立つ湯木藤吉は海面を睨みつけていた。
「下が動いとるのう。こんな深い揺れ、戦時中でも聞いたことがないわ」
宏太が眉をひそめる。
「湯木さん、今日の海、何か変じゃないですか?潮が逆らってるみたいです」
「ああ、波が岸へ寄せとるんじゃなくて、岬の奥へ向かって引かれとるんじゃのう。普通の潮流では絶対に起きない逆流現象やな」
吉村が港の端から駆けてきた。
「湯木さん!見つけましたっ!」
「ん?何をじゃ?」
吉村が差し出したのは金属製のプレートだった。角が焼け焦げ、海水で黒ずんでいるが、刻印は読める。
『かなた2 内閣府 国家防災特別区域』
宏太は息を飲んだ。
「これって…、西条さんたちが乗っていた調査艇のプレートじゃないですかっ」
藤吉はプレートを指先でなぞり、重く目を閉じる。
「そうか…。沈んでしもうたんじゃな…」
「でも、調査艇まだ見つかっていません!」
吉村の声は震えていた。
藤吉は西の岬の海を見つめた。いまこの瞬間も、その海底で起こっていることを知る顔だった。
「あそこで死んでも死体が上がらん場所なんじゃ」
宏太が肩を震わせて藤吉を見た。昨日まで見せていた科学調査に対する野次馬的な好奇心など完全に消えている。
「藤吉さん、これって、本当に島の呼吸なんですか?人を取り込んでるってことなんですか?」
藤吉は首を振らなかった。肯定も否定もせず、相変わらず西の岬の海を静かに見ていた。
「昔から伝わっとるんじゃ。島は浮いたり沈んだりする。けどな、完全に沈まぬ理由までは誰も言わんのじゃよ」
宏太が思わず口をつく。
「内閣府の連中は、浮いている土地だから新都市に使えるなんて云っていたけど、こんなの、どうやって都市に使うんだよ?」
藤吉はどこか諦めたように呟く。
「人が造る街と島が生きる道は、相容れん。じゃが、あいつらはそんなこと知りもせんのじゃろう」
藤吉は海から目を離して、自分の足元を見ながら続けた。
「島の中身を見ずに、上っ面だけで図面を引いとる」
吉村がはっと顔を上げた。
「図面?そういえば、役場に来ていたあの調査班の人、地下熱脈のところに赤い線が何本も描かれてる図面を持ってきてました。確か【都市基盤軸〈アーバン・コア〉案】って」
藤吉が重く目を伏せた。
「それが新都の核〈コア〉か…。島の心臓の上に街を建てるつもりなら、そりゃあ島も怒るわな」
その言葉の直後、海底から、重低音が突き上げた。
〈ドォゥン…ドォゥン…〉
宏太が叫ぶ。
「やばっ!また来るぞ!」
港の奥の海で泡が大きく浮き上がっている。何かが呼吸をするたびに、海面が持ち上げられているようだ。三人が茫然と見ていると、その海がぱっくりと裂けた。裂け目の底には黒い眼のような形がかすかに映った。藤吉それを見て震えた声で呟いた。
「み、港の…。こ、こんな浅いところまで上がってきよったのか…。これはもう、島の表がめくれ始めとるな」
波間に揺れる黒い物体があった。防水バッグの切れ端のように見えたが違った。海藻に絡まりながらゆっくり近づいてくる。吉村が船着き場のベンチに干してあったタモ網で拾い上げた。
「えっ、まさかっ…」
黒い袋の中身は壊れたアイ・パッドだった。画面は割れて、海水で膨れ上がっていたが、バックライトが微かに光った。そこに表示されていたのは島の断面構造図だ。都市基盤軸〈アーバン・コア〉の赤線がちょうど島の心臓に重なっている。藤吉は青ざめた。
「造る気じゃな。島の核を街の心臓にすげ替えるつもりなんじゃ」
宏太が呟く。
「西条さんはこれを俺らに知らせるつもりだったんじゃないのかな?」
誰も答えられなかった。
〈ブツッ……ザザ〉
アイ・パッドから壊れた通信機のような音が響いた。
「ザザッ、た…す…け…、ザーッ」
藤吉が凍りつく。
「いまのは西条か?」
目の前の裂けた黒い海の底で、人の形をした影が揺れた。それは人間の動きではなかった。まるで潮流と同じリズムで吸い込まれて吐き出されている。藤吉は低く呟いた。
「もう…、人じゃねぇ…」




