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調査艇〈かなた2号〉はほとんど浮力を喪ったまま斜めに傾いていた。計器の多くは沈黙し、かろうじて点灯している緊急非常灯だけが赤い脈動を繰り返していた。賢祐は水を被った操作席から身体を起こす。LEDライトを点灯させると、暗闇の奥で白い霧がゆらめき、岩壁が呼吸するように沈み込んでいた。
「ここは?海じゃないっ。岩の空洞だ!」
操縦席の浦井が賢祐の横で叫んだ。
艇体は落下の衝撃で半壊しているが、幸い二人とも命に別状はないようだ。ただ、西条の姿が見当たらない。
「西条さ~んっ!」
二人で交互に呼びかける声が、奇妙に湾曲して返ってきた。
賢祐はLEDライトを向け、暗黒の天井を見上げる。波紋のように濡れた岩肌が広がり、微細な生物発光が点々と漂っていた。
「中澤さん。これ、岩じゃないかもしれません」
浦井が息を呑んで顔を歪める。
「えっ?」
賢祐は浦井の顔を見返した。
「いや、その…。皮膚に近いような…。ほら、見てください」
浦井が指差した先には、滑る壁面が見えた。それはまるで潮の満ち引きに合わせるように膨らみ、萎みしていた。
周期は一定。ゆっくりと、しかも深く。それはまさに呼吸だ。賢祐は昨日の観測データを思い出した。島内部の圧変動と規則的な呼吸波形だ。
「これが島の中身なのか?」
浦井が壁に近づくと、洞窟全体が脈打つ音を発した。
《ドゥン》
海底で聞くクジラの鳴き声に似ているが、これはもっと低く、もっと重く、もっと近い。 脈打つ音と同時に、潮が逆流し、水位が急激に上昇し始めた。
「やばいぞっ、これ。満潮じゃなくて押し戻されてる!」
浦井が叫んだが、賢祐はそれには反応せず、耳を澄ませていた。水の中から声が聞こえたのだ。
「けんすけ…」
微かだが確かに聞こえた。耳ではなく、直接胸の内側で響くように聞こえた声だ。それは祥子の声にも似ていだが、もっと幼いように聞こえた。
「れ、礼佳?か?」
賢祐は周りを見回して呟いた。正面の岩肌が開いた。岩が崩れたのではない。肉が割れたわけでもない。ただ、海水に溶けるように色が変わり、まるで片目を開くように黒い円が現れた。
それを見て浦井は、のけ反って尻餅をついた。
「う、うそだっ、なんだよっ、これ!」
瞳孔でも光孔でもない。明らかにそこに存在している。賢祐も息を呑んで呟いた。
「島に見られている…」
黒い眼の中心からわずかな映像が浮かび上がる。海岸。夜の道路。女の姿…。
「祥子…?」隣に手を繋がれた礼佳も映る。礼佳の口元が動いて音のない呼びかけを形づくる。
「まってて…」
次の瞬間、洞窟全体が大きく震えた。観測塔の沈降など比ではない、島の内部構造そのものが動こうとするような揺れだった。浦井が叫んだ。
「中澤さん!逃げましょう!ここにいたら潰されます!」
賢祐は動けなかった。調査艇内に冷たい海水が膝まで侵入してきていたが、黒い眼だけを見つめていた。
「戻ってくるんだ…」
「おまえの血をここへ…」
そんな声が耳の奥、いや、頭の中へ直接響いてきた。
《ドゥン…ドゥン…ドゥン…》
島が鼓動している。押し寄せる潮の圧力はもはや自然現象ではなかった。呼ばれている。賢祐だけではない。祥子も、礼佳も…。
黒い眼が再び収縮し、洞窟に向けて潮が噴き出した。逃げる隙もなく、二人は壁ごと押し流されて、世界が反転した。




