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午前2時。住宅街の窓はほとんどが眠りに沈んでいたが、祥子の部屋だけは小さく灯りがついていた。礼佳はベッドの端に座り、じっと両手を見つめている。手のひらは濡れているように光っているが、水滴はひとつも付いていない。
「聞こえるの?」
祥子は礼佳の横で、覗き込むようにして問いかけた。
「ううん、聞こえるっていうより、向こうから触れてくる感じ…」
礼佳は祥子の顔を上目づかいで見ながら首を左右に振った。
向こう…。その言葉はまるで島が固有名詞であるかのように響いた。祥子はバッグの中に必要最低限のものを詰め込み、財布とスマホの確認を終えると、礼佳の前で膝をついた。
「礼佳。行くって決めたら、途中で戻れないよ。いい?」
祥子は礼佳の両肩を抱いた。
「また前みたいに、怖いものを見るかもしれないし…」
礼佳は少しだけ口をつぐんでから、正面を向き、祥子の目を見つめた。
「パ、パパが…、呼んでたよ」
祥子は息を止めた。
「え? パパが?」
「そう…、声で呼んだわけじゃないけど。すごく苦しそうで、暗いところにいて…」
礼佳は苦しそうに胸元を押さえる。
「島のなかが揺れてるの。息してるみたい…。パパのいるところと、そこは繋がってるんだよ」
その言葉はまるで何かの内部構造を見ているようだった。祥子は、娘の背中を抱き寄せた。
「わ、わかったわ。これは呼び戻されてるんだね」
礼佳は祥子の肩に顔を寄せて小さく囁いた。
「ママだけじゃなくて、あたしも…。あたしも呼ばれてるみたい…。だって、ママの子供だもん…」
玄関ドアに風が吹いたような音がした。窓はすべて閉まっているのに、潮の匂いが流れ込む。祥子は背筋を伸ばして呟いた。
「ああ…、この匂い…」
島に帰る前の夜に必ず吹く呼び返しの風だ。礼佳が玄関を見つめた。
「ママ。船、来てるよ」
「えっ?」
「ほら、この音。おじいちゃんの船じゃないよ。もっと古い音」
祥子には聞こえていないが、礼佳は確信している表情で懇願した。
「ママ、行こうよ。待ってるよ」
待ってる?誰が?賢祐さん?それとも島?いや、母かも知れない…。それとも、まだ姿を見せていない第3の何かが待ってるのかもしれない…。
迷っている場合ではなかった。胸の奥…。心臓ではないもっと深いところで、不規則に震えている。島が揺れている。また誰かを求めているのか…。祥子は意を決してドアを開けた。夜風がまるで潮の中から吹いたように湿っていて、遠くの空で低いうねりが響いた。礼佳が小さく呟いた。
「はじまるよ、ママ…」




