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午後には雲が低く垂れ込め、港の空気がねばりつくように重たかった。小型調査艇《かなた2号》は海上保安庁の補助を受けて、急遽準備された。艇内では技師たちが計器を固定しながら慌ただしく動き回っている。賢祐はライフジャケットを締めながら、西条に声をかけた。
「海底構造はどこまで分かっているんですか?」
西条は手元のタブレットを渡してきた。そこには異様な海底断面図が映っている。
「通常の海蝕洞じゃないこれは裂け目だ。まるで巨大な胸郭が開閉しているような…」
「胸郭ですって?」
賢祐はあの夏の日に経験したあの裂け目のような場所を思い出した。
「比喩じゃないぞ」
西条は低く続けた。
「潮の出入りを計算すると、島の下に可動部が存在しているとしか思えないんだ」
賢祐は昨夜の崩れた観測塔と浮上した徳治の船、それに礼佳の〈ママが呼んでるよ〉という囁きが重なる。エンジンが唸りを上げ、調査艇《かなた2号》はゆっくりと港を離れた。
島の西へ向かうにつれ、海面が不気味な静けさを帯びていった。風はほとんど吹かず、潮は滑るように平らで凪いでいる。ただ遠くで低い鼓動だけが響いていた。
「異常沈降域に入ります!」
操縦士の浦井健治が緊張で僅かに震えていた。賢祐が海面を覗き込むと、深さでは説明できないような黒さだった。まるで海が光を飲み込んでいるようだ。計器が甲高く鳴った。
「水圧、急上昇!300、400!まだ上がってる!」
浦井が大声で叫んだ。
「馬鹿な、こんな浅海で!」
艇がぎしりと軋んで、巨大な手が船体を握りつぶそうとしているかのようだ。賢祐は立ち上がり、左舷の海面の中央を指差した。
「ま、待ってください。あれ?」
黒い海の中心が、心臓の鼓動のように膨らみ、ドクンという衝撃波とともに盛り上がった。
その中から、朽ちかけた木片が浮かび上がる。
見覚えのある形だった。
「あっ、あれは!」
賢祐はそれを指差した。
「大原さんの船だっ!」
西条も大声で叫んだ。
「また浮いたのか?」
今回は様子が違った。徳治の船は浮き上がるだけでなく、押し出されるように海面から吐き出されて、そのまま流されていく。まるで深い海のなかにある口が、呼吸をしながら遺物を吐き戻したかのように思えた。
「島が何かを外へ出しているんでしょうか?」
賢祐が西城に問うた。
「いや、違う、違うよっ、これはっ…」
西条の顔は蒼白だった。
「これは迎え入れる前兆だっ」
「何を迎えるんです?」
賢祐が訊き返したとき、頭の中に礼佳の声が流れた。
「パパ、こっちだよ」
実際に聞こえたのか、幻聴なのか、賢祐にも分からない。
「うっ!」
足が勝手に、海のほうへ踏み出した。
《かなた2号》が大きく揺れ、甲板の計器が次々に警告を鳴らす。
〈ウォゴオーッ〉
潮面の向こう側で何かがうねり、海底そのものが動くような音が響いた。
「中澤君っ、危ない!戻れっ!」
西条が賢祐の肩を掴んだ。海の裂け目が音もなくぱっくりと開いた。黒い水が沈み、底無しの縦穴が姿を現わす。内部は息を吸い込むように渦を巻き、深部から青白い光が立ち昇っている。
「何だっあれは!」
西条が指差して叫ぶ。
「海底洞窟が呼吸しているのか?」
「違う…」
賢祐は呻いた。
「こ、これは洞窟なんかじゃない」
賢祐は西条に向かって続ける。
「これは器官だ。島という生き物の喉元だ」
その奥から明確な声が聞こえた。
「戻れ…。血を捧げよ…。家を繋げ…」
賢祐は顔を上げ、驚愕する西条にも気付かず呟いた。
「島が呼んでいる?これはっ!ダメだっ操縦ができないっ!」
浦井が西条にすがるように叫んだ。《かなた2号》は裂け目に向けて吸引され始めた。螺旋状の流れが、船体を引き込む。
「避けろ!避けるんだっ!エンジン全開っ!早く離脱するんだ!」
「だっ、だめだ!」
轟音と地震のような揺れを感じて、海が裂け、空気が震え、視界が白く弾ける。調査艇は底知れない穴へと滑り落ちていった。




