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その夜、港の空は重く曇っていた。大原家に戻った賢祐は計測データを見直しながらも指先が震えて、コンピュータのキーボードをタイピングするのに少々支障が出ている。あの地鳴り、沈んだはずの義父徳治の船が再び浮かんだ。いま起こっているこの出来事はいったい何なんだ。
「呼び水?って?」
賢祐は耳に残る藤吉の言葉を口に出してみた。 あの老漁師の目には明らかな恐れと諦めがあった。島に逆らえば、また誰かが奪われると知っているようだ。
座卓のうえでスマホが震えた。
ディスプレイには〈祥子〉の文字。スワイプして繋ぐと、すぐにノイズが混じった。
「けんすけ…?さん?海が…、海が…」
「祥子か?ん?どうした?聞こえないっ」
祥子の声は波にさらわれるように途切れ、最後にかすかな囁きだけが残った。
「ママが…、ママが…呼んでるよ…」
礼佳の声だった。そのまま通話は途絶え、何度掛け直しても繋がることはなかった。
翌朝の港には、昨日の崩落騒ぎを引きずるような重苦しさが漂っていた。朝から政府調査班がやってきている。港でフェリーのエンジン音が響くたびに、それに応えるように島が唸っている気がする。賢祐は荷物を肩にかけ、政府調査班の臨時テントへやってきた。
「中澤さん、どうぞこちらへ」
声を掛けてきたのは、昨日指示書を持ってきた内閣官房の職員だった。灰色の防災服を着て表情は固い。テントの中には、西条が書類と衛星画像を机の上に広げて、既に何かを解析しているようだ。
「おっ、来たか、中澤君。早速だけど、これ見てくれ。昨日の観測塔崩落で島の地下構造が急激に変わっているんだよ。地熱圧が通常の5倍近くまで跳ね上がっているんだ」
「5倍?それって、噴火の兆候ですか?」
「いや、火山性の動きではないよ」
西条は画像を指で弾いた。
「呼吸だ。もっと強く、もっと深く。昨夜の崩落で島が目を覚ましつつある」
その言い方に賢祐は背中がざわりとした。祥子の声、礼佳の囁き、潮壺の光、それらがひとつに繋がっていくような感覚だった。
「今日からは、西の岬にある洞窟も含めて、地形断面の再調査に入る。君には海側の計測を頼みたい」
「海側?あの、義父の船が上がってきた海域ですよね?」
西条は一呼吸置いたように言葉を詰まらせた。
「ああ、そうだ。あそこには何かがある。地震計が示している周期は、すべてあの海域を中心に発生しているんだ」
テントの外で怒号が聞こえた。湯木藤吉の声だった。
「わしらの島を勝手に触るなと言うとるんじゃ! 島はな、ただの土地やない! 血を吸う代わりに、わしらを守っとるんじゃ!」
職員が慌てて抑えようとするが、藤吉は彼らを振り払って、両手を膝につき、腰を折ったまま小刻みに震えている。
「徳治の船が浮いたのはな…。ただの事故ではないんじゃ。島が境界を開いたんじゃ。そんなこと、あんたらは知らんじゃろ?」
賢祐が藤吉に駆け寄った。
「湯木さん、昨夜祥子や礼佳の変な声を聞いたんです。礼佳が岬から持ち帰った潮壺も光っていて…。あれはいったい…?」
藤吉の濁った目が、賢祐の目を深く覗き込んだ。
「戻らにゃならんのじゃろう、賢祐よぉ。あんたんとこの血は、島に刻まれとるからなっ」
港の奥で海面がぴくりと盛り上がり、波が逆らうように上へ膨らんで見えた。調査班の職員が叫んだ。
「西の海域、地下圧がさらに上昇しています!観測塔の崩落は前兆かもしれないっ!」
海風が鋭く吹き抜け、遠くで鉄と潮が擦れるような音が聞こえる。
「あ、あれは徳治の船のエンジン音じゃ。呼んどるな…」
藤吉が呟く。賢祐は震える息を強く吸った。
「僕が行きますっ。海側の調査は全部、確かめるためにっ!」
西条が険しい目で頷いた。
「午後には小型艇を出す。覚悟しておいてくれ、中澤君。あの海域には何かがいる」
海は静まり返り、その下で巨大な脈動が鳴っている。島は確かに呼吸していた。その呼吸は誰を呼んでいるのか。次に誰を呑み込もうとしているのか…。




