プロローグ
二度と経験したくない夏休みが終わって、中澤賢祐は今まで通り出勤して、娘礼佳も通常通り登校している。あの出来事はただの悪夢だったかのように、何事もなく日々が過ぎていた。ただ、妻の祥子だけが時折、思い悩むような浮かない顔をしていることが気にかかる。
「おっ、今日はサンマの塩焼きかあ。今年初めてだな」
仕事を終えて帰宅した賢祐はダイニングルームに入るなり嬉しそうな顔をした。
「まだ初物だからちょっと高かったんだけどね…。そんなことより先に手を洗ってきてね。ついでだから顔も洗ったら?汗まみれの顔のままこっちへ入ってこないでね」
祥子は眉根を寄せながら、しっしっと右手で犬か猫を遠ざけるような仕草をした。
「はいはい、すみませ~ん」
賢祐はとぼとぼとバスルームへ向かう。
「ばっちいパパはご飯なしですよ~」
先に食事を終えている礼佳は、リビングルームのソファで、テレビアニメを見ながら、こっちを向いて笑っている。顔を洗い、すっきりしたような顔でテーブルに着いた賢祐の前に、祥子がビアグラスと缶ビールを置いた。
「はい、今日もおつかれさま~」
祥子はもうひとつグラスを自分の前に置いて、両方にビールを注ぐと、グラスを賢祐の顔の前に突き出した。賢祐も乾杯するようなポーズをとって、2人ともそのビールを半分ほど飲んでから、目を合わせてお互い微笑み合った。
「ところでさあ、昨日の夜もまた同じ夢見ちゃったのよね」
祥子の顔が笑顔から、ちょっと深刻で重い表情に変わった。
「ん?ああ、お義母さんの夢?」
賢祐はサンマの身をほぐしながら、上目遣いで祥子を見た。
「うん、そう…。まるで、夢の中で誰かに手を引かれているような夢なのよ」
祥子は互いのグラスにビールを注ぎ足した。
「そういえば、このあいだから、うなされてるっていうか、寝言みたいな、よくわかんないこと言ってることがあるよ」
「あ、そうなの?ごめんなさい。それで起こしちゃってるのかな?」
「いや、それはいいんだけど…。それ、どんな夢、みてるの?」
「うーん、覚えてるのはね…。いつもほぼほぼ同じでね…。暗闇の中でね…。そう、あの島の、あの祠のなかみたいに真っ暗なところで、かすれた声で誰かがあたしの名前を呼んでるのよね。それで、今度はあたしが何故か、お母さんはまだそこにいるの?って訊いてるのよ」
「ふーん、そっか。じゃあ、僕が会社で仕事していて、時間が空いたときなんかに、ふっと聞こえてくるのと同じだよ、それ。僕の耳に礼佳の声が聞こえてくるんだ。パパこっちに来てって、礼佳が言うんだよ」
賢祐はサンマをきれいに骨だけにして食べ終えると、グラスに残ったビールを飲み干した。
「え、そうなの?」
祥子は賢祐の茶碗にご飯を装いながら訊ねた。
「あれ?前に云わなかったっけ?時間が空いたときなんかに聞こえるんだって」
「そうだったかなあ…」
祥子は思い出そうとして眉根を寄せた。
賢祐の会社は臨海地区にある。9月の風はビルの隙間をすり抜けて、わずかに潮の匂いも運んできているように思えるときがある。いままで全く気にも掛けていなかったが、あの出来事があって以来、それを嗅ぐたびに、賢祐の胸の奥で、忘れたはずのざわめきが目を覚ますのだ。あの島の匂いだ。潮と海藻が混じり合い、太陽に焼かれた岩の粉を含んだ匂い。ほんの一瞬なのに、鼻腔を抜けた瞬間、背筋を冷たい指でなぞられたような錯覚に陥り、礼佳の声が聞こえる。
島を離れて、もうふた月以上経った。祥子も礼佳も、ようやく日常のリズムを取り戻しつつある。あの出来事は遠い夢のように薄れていくはずだったが、静かな午後、書類を閉じる瞬間や、何となく街路の水溜まりに空を見たときなど、不意に礼佳のあの声が甦る。それによって、現実がわずかに揺らぎ、まだどこかで呼ばれているような気になるのだ。
賢祐と祥子はいま互いの夢と現を話し合ってそれらを共有することができた。祥子の夢にあるのは、島で巫女の姿で現れた実母大原明子だ。あの岬で、祥子と礼佳を救ってくれたが、果たしてそれはほんとうの救いであったのだろうか。また、義父大原徳治が海へ還っていったあの瞬間、徳治の眼差しには確かに何かを託すような光があった。それらを思い出すたび、賢祐と祥子は同じように鈍く胸を痛ませていた。




