戸籍
ミノリの運転で辿り着いたのはとある喫茶店。
時刻は十八時を過ぎており、辺りはすっかり暗くなっていた。
青い顔をしたアラシヤマに「大丈夫ー?」なんて声をかけながらミノリが先導する。
「やっ!マスター連れてきたよー」
がらんどうの店内。その中でコーヒーカップを磨く六十代ほどの男性が居た。
揃った口ひげに白髪。まさに喫茶店の店主といった風貌で、黒いベストがやけに似合っている。
軽く会釈する男性にこの人がマスターか、とアラシヤマは思った。
「よろしくお願いします」
この人にお世話になるのなら礼儀正しく、と恭しくお辞儀をするアラシヤマ。
しかし、彼は終始無言でカップを磨き続ける。
なにか無礼を働いただろうか、と口を開こうとしたその時。店の奥から若い無精髭の男が現れた。
「おやおやおや、早いねー。明日になるのかと思ってたよ」
彼は誰なのかとアラシヤマが思案していると隣のミノリが笑顔で手を振った。
「マスター!久しぶり」
「え、マスター!?じゃあこの人は!?」
アラシヤマがマスターだと思っていた男はふっと微笑むと一言呟いた。
「しがないアルバイトでございます……」
えぇ……。
驚くアラシヤマを他所にミノリとマスターは会話を重ねる。
「それにしてもマスター。早かったねー」
「ああ、ネズミさんから事前に指示があったからな」
よいしょっとマスターが懐から出したのは身分証明書の数々。
「ほれ坊主、受け取れ」
駄菓子でも渡すかのように投げて渡すマスター。
それを慌てて受け取ったアラシヤマだったが、そこに書かれている名前に目を見張る。
「どーした?不備があったか?」
「いや、名前が……嵐山 旅人って」
「ああ、偽名じゃない事に違和感が?」
アラシヤマが驚いたのは、旅人という名前が本名と同じだったためだ。
だが、それを表に出す訳にもいかずそのまま頷く。
「なに、簡単な話よ。別に偽名を使う必要が無いってだけさ。社会からは溢れたがなんか犯罪犯した訳じゃねぇしな」
アラシヤマは犯罪と言う言葉にドキリと胸が鳴った。テロ組織のことを思い出したためだ。思えばあのニュースは結局どこに落ち着いたのか、まだそのニュースで世間は賑わっているのだろうか。
確かめなければいけないという意識が頭を埋めつくすが、それと同時に新しい名前が手に入ったことでそこから逃げられるのでは無いかと安堵も生まれる。
「まあ、偽名が必要ならちゃんと用意するぜ?そっちの方が簡単だしな」
アラシヤマの瞳を見透かすようにニヤリと笑うマスターに少し身震いをする。どこか、思考を透かした上で言われた気がしたのだ。
もちろん本当はそんなことはなく、アラシヤマの心境がそう思わせただけなのだが。
「あ、ついでにマスター。ネズミさんから司令貰ってたりする?」
「……あるよ」
そう言って作った渋い顔と共に懐から1枚の紙を取り出す。
「ちょーどいい、アラシヤマ少年にギルドについてお話だ。今まで話してなかったんだけどギルドの目的は同胞、つまり泡沫所持者の保護だよ」
「泡沫をもった人間の勧誘みたいなのですか?」
「いんや、勧誘じゃないよ。断ることは許してないからね」
「でも、それじゃあ反発する人もいるんじゃ……」
「……その時は実力行使さ」
息を飲んだのはアラシヤマ。
実力行使と言った瞬間、ミノリの雰囲気がガラッと変わったのだ。
「考えてもみなよ、君はまだドクターのしか見たことはないと思うけど泡沫は明らかに超常のチカラだ。仮にそのチカラを私利私欲のために使ったら?嫌いな奴を傷つけるために、楽に金銭を得るために……。そういうことなんだよ。このチカラは危険すぎるんだよ」
嫌に張り詰めた空気。その空気を解すように、ミノリはパンと両手を打ち付ける。
「ま、そういうわけさ。君にも明日からじゃんじゃん働いてもらうよー。案外泡沫を持ってる人間は多いんだ」
アラシヤマは明るく気を取り直すミノリにどうしても聞くことが出来なかった。
もしかして、もう既にあるのではないだろうか。
そのチカラを振りかざす集団が。
例えば最近起きたテロのような……。
「さて、君の第1任務をさずけよう」
そう言って差し出すのはマスターから受け取った紙。
「君の任務は、この少女の保護だ。彼女の名前は平坂 有栖。もちろん私も同行するから気楽に行こーぜ、少年」
アラシヤマは震える手で紙を受け取った。
◇
「終ぞ口に出しませんでしたな」
アラシヤマ達が去った後の喫茶店。
相も変わらずがらんどうの店内でアルバイトが呟いた。
「まあ、坊主はとっくに壊れてるからな。無意識のうちにその話題も避けてた」
アイスコーヒーを飲みながら応えたのはマスターだった。
「ふうむ、そういうものですか。彼の発芽のトリガーは案外そこにあるのかも知れませんな」
「ああ、きっとそうだ。あいつがそれに気がついた時にきっと芽吹く。絶望は足りているし、心はもう壊れてるんだからな」
「願わくばこちら側に残ってくれること……ですな」
空になったコーヒーグラスをテーブルに置いた。
「残るさ、あいつは必ず残る」
そして一言呟いた。
「うちのボスがそうなるように動かしているからな」
席を立ち、後は任せたと店を出ていくマスター。
その姿が見えなくなる頃そっと呟いた。
「難儀なものですな、子というものは」
ため息混じりのアルバイトの言葉は誰に届くでもなく虚空に消えた。
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