第九章
三日後の夜。
隣で寝息を立てている田中に気づかれないように、そっと沙羅はベッドを抜け出した。自分の寝巻がないので、夜は田中のスウェットスーツを代わりに寝間着代わりに着ていた。
覚醒して以来、人間と同じようにトイレにも行くようになった。だから田中に気づかれても、怪しまれる事はないだろう。
今日は満月の夜だ。空は良く晴れているらしく、カーテン越しに満月の白い光が差し込んでいた。通りも静まり返って、車がたまに通る以外、何も音が聞こえてこない。白く冷たい月明かりが、静けさを増しているような気がしてきた。
机の上に置いてあったリカちゃん人形をそっと手に取ると、沙羅はリビングに向かった。そして扉を静かに閉じた。
「確かこの呪文は誰にも見られたらいけないのよね」
そう言いながら、リカちゃん人形をテーブルに置いた。薄いピンク色のナース服を纏ったリカちゃん人形は、つぶらな瞳を大きくしてこちらを向いている。
「この子、可愛い……この子を覚醒させたらどうなるのかな? 私の話し相手になってくれたらいいな」
そうつぶやきながら沙羅はリカちゃん人形を優しく見つめた。
月明かりに照らされながら、人形を机に横たえると、人差し指でその額に触れた。
「ラウムイノタク……ラウムイノタク……」
沙羅は呪文を七回繰り返した。人差し指を人形の額に置いたままで、次の呪文を唱えた。
「チリヌルヲワカ……チリヌルヲワカ……」
三度唱えた。指を額から離さぬままに、最後の呪文を唱える。
「ラウムイノタク」
呪文を唱え終えて、そっと指を離した。
どうなるだろうか?
あのメモの通りにやってみたのだが、どうなるのだろう?
「あ!」
思わず声が出た。
リカちゃん人形の目が閉じた。そして、また開いた。
そして、笑顔を浮かべた。
「動いた! 動いたわ!」
喜びで思わず声が出る。田中を起こすといけないので慌てて声のトーンを下げる。
「動けるの?」
そっと人形に囁いた。
「うん、動けるよ」
そう言いながら、リカちゃん人形は起き上がった。沙羅は、覚醒しても、初めはなかなか動けなかったのだが、リカちゃん人形は小さいからすぐに動けるのだろうか? と沙羅は思った。
「リカちゃん?」
そう呼ぶと、人形はクスッと笑った。
「違うわ。私の名前は、『あかね』よ。あかねって呼んでね」
そう言った。
「あかねちゃんね。私は沙羅。よろしくね」
そう言って沙羅は挨拶した。あかねも嬉しそうに、よろしくと言って頭を下げた。
「ねえ、沙羅ちゃん」
あかねが呼びかけた。
「なあに?」
「私は、思い出したわ」
そう言いながら、にっこりとあかねが笑った。
「何を思い出したの?」
「この家に来てからの事を全部ね」
「わあ、私と同じじゃない」
「でしょ?」
あかねが明るく笑った。
「何だか、あかねちゃんとはいろいろとお話ができそうだね。陽一がいないとき、私とお話ししようね」
「いいわ。いろいろ話をしようね」
意味ありげにあかねがウインクした。
「ところで」
あかねが切り出した。
「私、どうして目が覚めて動けるようになったの?」
そう尋ねたのだ。
「それはね、実はあるメモを見たんだ」
沙羅がそう答えた。
「メモ?」
あかねが興味深そうな目をした。
「どんなメモ?」
あかねがさらに聞いた。
「それはね、陽一が見た夢なの。その夢に出てきた仙人が、陽一に人形を目覚めさせて人間にする呪文を教えてくれたって書いてあって、私がそれをメモしたのよ」
「へえ……それで私は目覚めたのかな?」
あかねは興味津々だ。
「うん。その呪文を使って、あかねちゃんを目覚めさせたの」
沙羅がそう言いながら、笑顔を浮かべた。
「どうして目覚めさせたの?」
あかねは目を輝かせながら尋ねた。
「それは、あかねちゃんが目覚めたら、私の友達になってくれるんじゃないかなって思ったから……」
沙羅は、ちょっとだけ恥ずかしそうな顔をした。
「そうなんだ。嬉しいな」
あかねは笑った。
「うん。そうなの」
「そう、その呪文って、人形を目覚めさせて人間にできるのね?」
「そうよ。でも、誰にも知られちゃダメなんだって。夢日記には書いてあった」
沙羅は、真剣な表情を浮かべて説明した。
「へえええ」
あかねがそう言うと、今度は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「そのメモ、見たいな」
そう言うと、沙羅は少し慌てた様子を見せた。
「ダメよ、それは」
そう言って沙羅は断った。
「まあ、いいわ。とにかくそのメモを見ながら私を目覚めさせたのね?」
「そうよ」
「そうなんだ。まあ、いいか。こうして目が覚めたから沙羅ちゃんとも話ができるんだから」
そう言ってあかねは無邪気に笑った。
「ねえ、あかねちゃん」
「なあに?」
あかねは、笑顔を浮かべた。
「私たち、いいお友達になれそうね」
沙羅がそう言うと、あかねは沙羅の手のひらに乗った。
「もちろんよ。もう、友達だよ」
「嬉しい!」
沙羅が嬉しそうにあかねをながめた。
「陽一がいる間は、じっとしていてね。約束だよ?」
沙羅がそう頼むと、あかねはうなずいた。
「もちろんよ」
あかねはつぶらな瞳で、ウインクした。
「じゃあ私、寝るね。おやすみ。また明日」
沙羅があかねをリビングのテーブルの上に降ろすと、そう言って手を振った。
あかねも、おやすみと言いながら、にっこり笑った。