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ドール  作者: 竹取 裕基
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第七章

初夏の日差しが、一瞬、フロントガラスを白く輝かせた。

 サンバイザーを下げて、太陽に向かって走る。

 スピードメーターの針が、長い直線で微かに震えた。ハンドルを握る手が、太陽に照らされて白く光っている。

 助手席の沙羅は、疲れているのか寝息を立てていた。ブレザーを脱いだ白いシャツと胸の赤いリボンがまぶしく光っていた。

 どこまでも続く岸壁と光る海が見える。時折左右にカーヴする片側一車線のこの道は、あまり対向車も来ない。

「もうすぐだよ。ほら、沙羅。見えてきた」

 沙羅の返事はない。まだ疲れて寝入っているようだ。

 やがて「島崎海水浴場」と書かれた標識が通り過ぎていくのが見えた。あと一キロ、と書かれていた。

 まもなく海水浴場に着くだろう。沙羅は良く寝ているので、着いたら起こしてやろう、と思った。

 やがて、島崎海水浴場が見えてきた。駐車場に車を止めて、エンジンを切る。平日という事もあり、広い駐車場には、田中たち以外、誰もいない。ただフロントガラスの向こうに、ブロックと白い砂浜と青い海が見えていた。その海が、朝の太陽に照らされ、きらきらと白く輝いて見えた。

 柔らかな初夏の日差しのもと、沙羅は、まだ気持ち良さそうに寝ている。その長い黒髪はうなじや胸のふくらみの上で光っていた。

 そっとその髪を撫でる。沙羅は、ううん、と首を横に向けた。かなり寝入っている。その寝顔もまた、可愛らしくみえた。

「ほら、沙羅。着いたよ」

 軽く肩を揺すってやると、瞼をこすりながら目を開けた。

「私、ずっと寝てたの?」

 眠そうな目をしながら、そう言った。

「そうだよ。車に乗ってしばらくして静かになったと思って横を見たら、寝ていた。それからずっと寝ていたよ」

 そう言うと、沙羅は少し気まずそうな顔をした。

「ごめんね、ずっと私、寝てたんだ……」

「いいよ、気にするなって」

 そう言いながら、そっと肩に手を触れる。その柔らかな感触は間違いなく人間の少女のものであった。

「でも……陽一が運転してくれているのに私、寝てばかりいたなんて……」

 すまなさそうな顔をしながら、沙羅は下を向いた。

「気にしなくていいよ。俺は、沙羅が隣にいてくれるだけで嬉しいんだ」

 そう言ってやると、沙羅はパッと顔を輝かせた。

「嬉しい……」

 そう言いながら、そっとその手が田中の肩に触れた。皺ひとつない瑞々しい十代の少女の指が、圧倒的な柔らかさで田中の肩に触れた時、かつて感じた事のない充足感を覚えたのだ。

 今まで、彼女いない歴=年齢の田中が、不思議な呪文で人間になった沙羅とこうして愛を育んでいる。

 その充足感と言ったら! まるで千年も雨が降らなかった砂漠に驟雨(スコール)が降ったような感じがした。乾き切った砂漠を激しい驟雨が襲う。その大粒の雨が熱砂を冷やし、風紋をかき消し雨粒の跡を残す。あたり一面、熱砂が立てる湯気も、やがて消えて乾いた大地は千年ぶりに瑞々しい潤いを取り戻すのだ。

 ちょうど、自分の心は、千年も雨が降らなかった熱砂の砂漠のようなものだったのに、沙羅が隣にいるだけで、こんなにも潤いを感じられるとは! 

「沙羅……」

 肩に手を回し、思わず接吻(キス)をしようと思ったその時、人影が見えた。

 ふたりはパッと離れて様子を伺った。

 どこかの五十がらみの中年女が、ガラス越しに明らかに軽蔑するような眼差しで田中を凝視すると、元来た方向に戻って車に乗り込んで去った。その洗練された服装を見ると、地元の漁師の妻と言うよりは、どこかの女教師のようにも見えた。だが、よく考えると平日に女教師がこんな海をわざわざ見に来るはずはない。きっとどこかの会社に勤めている女で、今日はたまたま休みで海にでも来たのだろう。制服姿で女子高生にしか見えない沙羅に接吻しようとしていた田中を、援助交際に手を染める汚らわしい男のように思えて、嫌悪感から軽蔑の眼差しを向けたものと思われた。

 確かに女子高生にしか見えない沙羅を見れば、そう思ってもおかしくはなかった。

 いいところだったのに……と言っているような目をしている沙羅の髪をそっと撫でながら、田中は言った。

「天気がいいね。外に出ようか」

「うん」

 ふたりは、車の外に出た。駐車場からは、低いブロックと白い砂浜と青い海が見えた。

 海から吹いてくる風のなかに磯の香りがした。打ち寄せては引いてゆく海の潮騒の音が耳に心地よく響く。

 初夏の太陽は、真夏のような暴力的な光でなく、柔らかな熱を帯びながら二人を照らしていた。太陽が海を照らし、白くきらめく海面がまぶしく感じた。

「行こう」

 沙羅の柔らかな手を取りながら、二人は海へと歩き始めた。

 その手の柔らかな感触をしみじみと味わう。沙羅の白いシャツと赤いリボン、そして歩くたびに揺れている胸の膨らみが気になった。

「わあ、きれいだね!」

 沙羅が嬉しそうな声を上げた。

 潮風にはためくチェックのミニスカートからのぞく白い足が、興奮で打ち震えている。

 生まれて初めて見る本物の海に、きっと感動しているのだろう。

 愛人形として造られ、不思議な呪文で覚醒して人間になった沙羅が初めて見る本物の海……その広大さにきっと感動しているのだろう。

「きれいだろう? 俺、海が好きなんだ。沙羅はどうだい?」

「私、初めて見るわ。海ってすごいね。こんなにも大きくて、こんなにも広いのね。あの水平線の先にまで海があると思うと、凄いと思う」

 そう言いながら沙羅は、海の向こうを指さした。

「あの海の向こうには、外国があるのさ」

「そうね」

 そう言いながら、潮風に長い髪をたなびかせている沙羅が、遠くを見つめるような目をした。

「今頃、あの会社では、レトルトが山のように造られて、ベルトコンベアーの上を大量に流れているんだろうな……」

 ふと、そんな独り言が出た。

 田中はしみじみと考えていた。大量に流れてくるレトルト食品を棚に積み込んでいくだけの作業。誰でもできる仕事。熟練などほとんど問題にならない単純作業が延々と続くこの日々に、なんの希望があるのだろうか? そう思うと仕事をするのがたまらなく嫌に感じたのだった。

「仕事って、やっぱり大変なの?」

 そんな田中の独り言を心配するように、沙羅が聞いてきた。

「ああ、そうだよ。やっぱり俺には向いていないようなんだ」

「どんな風に大変なの?」

 沙羅は、心配そうな表情を浮かべてたずねた。

「俺のやっている仕事なんて、誰でもできる。俺がいなくても、誰かが簡単に俺の代わりにやれる。俺にしかできない事って、何もない。俺の仕事は単純な作業を、ただ延々と続けるだけだ。毎日俺はロボットのように働くだけだ。一日が終わると、疲れ果てて何もしたくなくなる。休日もそうだ。どんなに働いても、収入はわずかで生きていくのがやっとだ。いつ首になるか解らないし未来もない」

 そう言って、ため息をついた。

「そうなんだ……沙羅には解らないけど、大変なんだね」

 その瞳が、寄り添うような気持ちで見つめていた。

 気が付けば、そっと隣に寄り添っていた。その長い髪が風に吹かれて、時折田中の腕に触れた。

「でもね」

 田中は続けた。

「でもね……沙羅は呪文で人間になった。こんな俺にも彼女ができたんだ。信じられない気分だよ。俺は、うまく女の子と話す事ができなかったんだけれど、沙羅とならこうして自然に話ができるんだ。不思議だと思う。それに沙羅が隣にいるだけで、俺の心は乾き切った砂漠みたいだったけれど、そこに凄い雨が降って、この乾き切った心を癒してくれるんだ。沙羅、ずっと俺と一緒にいてくれるか?」

 そう言って、沙羅の目を見つめた。

 沙羅の目は、恥ずかしさと嬉しさが入り混じったような目をしていた。ほのかに頬も紅潮し、嬉しそうに目を下に向けた。

「いいよ」

 そう言って、沙羅は陽一の腕を組み、ぴったりと寄り添った。

 柔らかな沙羅の身体から甘い香りがした。

 浜辺には誰もいない。二人は固く抱き合って、熱いキスをした。

 水平線の彼方に小さな船影が見えるだけだった。時が止まるような気がした。


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