第六章
ふと、目が覚めた。カーテン越しに、太陽の光がさしており、部屋は明るくなっていた。
枕元の時計を見た。午前五時五十二分だ。
目覚まし時計が鳴るのは、午前六時半だから、まだ三十分は寝られるだろう。
チュッチュ……チュチュ……。
小鳥が鳴いている声が聞こえてきた。今日の天気は良さそうだ。
こんな日は、どこかへドライブにでも行きたくなる。だが、あいにく今日は水曜日だ。仕事に行かねばならない。日給月給である派遣社員は、一日でも休むとその分の日当が減らされてしまうのである。
田中は、寝床で大きなため息をついた。今日も、あのつまらない仕事に行くのかと思うと、憂鬱な気持ちになったのだ。
――あれは夢だったのだろうか?
昨日の事を思い出して、ふとそう思った。ベッドわきに並ぶ愛人形たちは、今日も静かにそこに佇んでいた。紗耶香は白のセーラー服のまま、絵里は黒のビキニで、由香里はシックなメイド服で、未祐は黒のショーツだけを履いて、麗香は紺色のセーラー服を来てそこに立ったままだ。昨日の朝と同じ風景がそこにあった。
昨日の出来事は、夢だったのだろう。疲れていて、変な夢を見たのだ。そして、きっとリビングに行けば、ブレザーを着た沙羅がじっとそこに座っているだけで、何も変わらない一日が始まる。今日もまた仕事に行って、そして疲れ果てて帰ってきて、寝るだけのつまらない一日が始まるだけだ。明日もその繰り返しで、週末だけが、自分の時間になる。だけど、たった独りで過ごす時間だ。どこに行く当てもなく、ただ身体を休めて独りで時間を過ごすだけの週末に過ぎない。友達もいない田中にとって、週末は誰とも話さない時間なのだ。部屋の愛人形だけが少し慰めになる程度である。
我ながら寂しい生活を送っている。思い起こせば、子供の頃からほとんど友達がいなかった。たまに同じような変わり者の友達ができても、いつも、つまらない理由で喧嘩したりして、みんな去った。
それでも高校時代には数人の友達はいたが、大学に進学してから疎遠になり、いつしか音信不通になった。大学では友達は一人もできず、いつも一人でキャンパスの学食で食事をしていたことを思い出した。隣で楽しそうに談笑するカップルを見ると、自分がゴミ以下の存在に思えてきたりしたものだ。誰かがクスクスと笑っていると、まるで自分が一人ぼっちでいるのを嘲笑しているように聞こえたりして思わず振り返ったりすることも、しばしばあった。アルバイトもしたが、どんなアルバイトも長続きしなかった。近所のコンビニの店員をしたときは、機転を利かせた接客ができずに三日で首になったし、レストランの皿洗いをした時は、古株のパートのおばさんにネチネチとイジメを受け、三か月で辞めた。そのレストランでは、女性恐怖症の田中を、バイトの女子大学生が気味悪がって避けたり、陰口を言っているのが聞こえてきたりしたものだった。雰囲気も悪く、いつも罵声と陰口の絶えない職場だった。そこを辞めてからは、たまに宅配便の仕分けのバイトをしたり、工場で短期間バイトをする程度だった。社会に出て毎日働くのがたまらなく嫌だった。だが大学を出るとそうはいかない。卒業すると、小さなガス会社の営業になったが、営業と言うのは名ばかりで、実際には三トントラックに酸素ボンベを山ほど乗せて、病院の酸素ボンベを交換し納品書を置いてくるだけの配送の仕事だった。
この会社は、職場の雰囲気が実に悪かった。入社早々、偉そうな三つ年上の坂田と言う先輩に奴隷のように顎で使われ、「何やっているんだよ! てめえ、仕事を覚える気があるのか!」等と毎日叱責され、その叱責も指導のための正当なものなら我慢ができるが、明らかに坂田の私情と八つ当たりとしか思えなかった。実際、坂田は新人いじめが大好物で、陰で社員たちには嫌われていたが、社長の甥と言う立場を利用し、自分より役職が上の者に対しても平気で抗弁し、時に逆に命令したりと、やりたい放題であった。また、それを営業部長なども全く注意をせず、むしろ坂田のご機嫌取りに終始する有様であった。子供のいない社長はこの甥を溺愛していたので誰も文句が言えなかったのだ。会社には、野球チームがあり、新入社員は半強制的に加入させられた。いやとは言えない雰囲気の中、いつもニコニコ顔の定年の近い営業部長に野球チーム加入を勧められて嫌とは言えず、土曜、日曜も野球の練習や遠征試合で休日の大半がつぶされる有様であった。古参の社員の中に野球嫌いの人もいて、こっそりと「可哀そうだね」と言ってくれた人もいたが、大半の社員は体育会系の気質を持っており、皆が狂ったように野球の試合の勝敗や練習に血道を上げていた。そんな中、田中は密かに野球嫌いだったのだが、そんな事を言える雰囲気ではなかった。平日は仕事で叱責され、土日は好きでもない野球の練習や試合で潰され、また元来運動音痴の田中は、野球の投球フォームがダメだとか、バッティングのまずさを先輩社員にネチネチと叱責されることも珍しくなく、土日は休めないうえ叱られて、まさに拷問に等しい日々であった。
ある日の日曜日。日頃から偉そうで意地悪な坂田がピッチャーをやっており、田中がバッターボックスに立つと、坂田が投げるボール全てが自分を狙って飛んで来るのが解った。顔面に投球が飛んできて、危うく命中しそうになり、咄嗟によけると、今度は腹をめがけてストレートのボールが飛んで来る。陰湿な坂田の投球に身の危険を感じ、黙ってバッターボックスを出たところ、
「てめえ、やる気あんのか!」
と坂田がグローブを地面に投げつけて叫んだ。さすがに頭に来たので、
「坂田さん、わざと狙って投げたでしょう!」
と、抗議したところ、普段はニコニコ顔の部長が、
「そんな事はない! 君の考えすぎだ! 職場の輪を乱すとは何事だ!」
と一方的に怒鳴りつけて、坂田をかばった。さすがにこんな会社に勤めるのはもう無理だ、と思い、バットを地面に思い切り叩きつけて、その場を立ち去り、翌日から会社に行かなくなった。
翌日から無断欠勤した。朝になっても、どうしても体が起き上がれなかった。何度も何度も携帯電話が鳴り響いたが、知らん振りをしていると、数日後から電話も鳴らなくなった。そんなある日の午後、会社から分厚い封筒が届いた。開けてみると、解雇通知書と、給料明細が入っていた。解雇理由は、職場の輪を乱したこと、無断欠勤による著しい勤務態度不良、などと書かれていた。同封されていた給与明細をよく見ると、野球チームに加入するときに「無償で与えられた」はずのユニフォーム代三万五千円が購入した事にされて勝手に天引きされていたのである。さすがにこれには腹が立って電話したところ、あれから規約を改正して全員から徴収した、退職者も例外ではない、と一方的に言われて電話を切られた。それからは、仕事もせずに自宅に閉じこもってゲームをしたり、ネットをしていた。
両親は何も言わなかったが、かえってそれがつらく感じた。さすがにまずい、と思い三か月ぐらいたったころ、派遣の仕事を見つけたのと同時に、叔母が所有しているこのマンションの一室を格安で借りて一人暮らしを始めたのである。あれから、月日はあっという間に過ぎ去った。新卒で入った会社を半年で辞めさせられてから、派遣を転々としてきた。ある時は、自動車部品の製造工場で黙々と働いたり、ある時は、ビーズ枕の製造工場で細かいビーズと格闘しながら仕事をしたり、ある時には、薬局の店員の仕事を紹介されたのだが、こちらは三日で無理だと辞めさせられた。「君は、接客は向いていないね。製造の仕事の方がいいな」と、派遣の担当社員によく言われた。自分でもそう思ったので、製造の仕事を中心に回してもらっていた。……そうやって、派遣をやっていたのだが、いつしか気が付いたら三十を超えていた。こんな生活を延々と続けている中、友人もおらず、そして彼女もできずにこうして年だけ取っていくこの生活には、絶望感しかなかった。
布団の中で、そんな嫌な事を思い出しているうちに、目がますます冴えてきた。どうやら、眠れそうにない。
そう思って、時計を見た。
午前六時五分だ。意外にも時間は経っていなかった。いやな事を思い出してしまった。なぜ、思い出してしまったのかと言う後悔の念と、睡眠時間が削られてしまった腹立たしい気持ちを感じた。
どうせ、六時半までしか寝られない。田中はそう思って目覚まし時計のアラームをオフにして、布団から出た。
そっと、リビングに入った。ソファーに座っているはずの沙羅の姿がどこにもない!
目をこすってもう一度よく見る。
いない。あれは、本当だったのか!
思わず喜んだと同時に、背後に人の気配を感じ振り向いた。
そこには、沙羅が微笑みながら立っていた。朝日に照らされた沙羅は、制服のブレザーのリボンが赤く光り、そのシャツの豊かな胸の上に長い髪がかかっていた。
「おはようございます、ご主人さま」
そう言った沙羅は、深々と礼をした。その豊かな黒髪から青春の真っただ中にいる少女の香りがした。白いうなじが、カーテン越しに差してきた朝日に照らされ、輝いて見えた。
「あ……ああああ!」
思わず声にならない。
「どうなさいましたか?」
不思議そうな顔で沙羅がそう言った。
「さ、沙羅……しゃべれるんだね、ああ、夢じゃないんだ! 本当にうまく行ったんだ! 沙羅」
「はい?」
不思議そうな顔をしている沙羅に、田中は詰め寄った。
「いつから、しゃべれるようになったの?」
「わかりません。急にさっきから声が出るようになったんです」
沙羅はじっと田中を見ている。
「そうなんだ……あ、手を見せてよ」
そう言うと沙羅は、手を出してくれた。その手を、手に取って触れてみた。どう見ても人形の手ではない。十代後半の女子高生の手にしか見えない。その皮膚も完全に若い女性のものだ。
「髪を見せて」
そう言いながら髪に触れる。その髪からは、甘い桃のようないい香りがする。髪をよく見ると、青白い若々しい頭皮から毛髪が生えているのが見えた。
「ご主人様は私の事が好きなんですね」
沙羅はそう言うと、微笑んだ。
「好きだよ、沙羅。お前が一番、好きだ!」
思わず言ってしまった。
そう言うと、沙羅が嬉しそうに笑った。
「人間にしてくれて、ありがとうございます。私も、ご主人様がずっと好きでした」
そう言いながら、沙羅は体を密着させた。
その柔らかな胸の感触。熱い少女の体温。それは決して、物言わぬ愛人形であった時にはなかったものだ。
いま、俺は人間の女の子、それもこんな若くて可愛らしい女子高生である沙羅を、ここに抱いている。
そう思うと、田中は思わず沙羅を固く抱き寄せた。
「沙羅……俺は、俺は……」
そう言いながら、思わず沙羅の髪を撫でながら、その頬に触れた。柔らかな少女の頬が、とてつもなく心地よく感じられた。
その時である!
突然、携帯電話が鳴り響いた。
なんだ? いったい誰だ?
番号は、見覚えのない番号だ。〇八〇で始まる携帯電話番号である。スルーしようかと思ったが、一応出てみる事にした。
「田中ですが」
不機嫌な声でそう答えると、若い男らしい相手は、あ! と小さな声を出して謝りもせず通話を切ってしまった。
一体、何だ。いいところだったのに……そう思った。
「誰ですか?」
沙羅が、興味深そうにそう言った。
「どうやら間違い電話だったみたいだ」
そう言うと、沙羅はアッ!と声を出した。
「ご主人様、食事の用意をしますね」
沙羅はそう言いながら、オーブンでトーストを焼き始めた。
「お飲み物は?」
そうだな、コーヒーをくれないか、そう言うと沙羅はにっこりと笑って、かしこまりましたと答える。
「あ、そうだ沙羅」
思い出したことがあってさらに声をかける。
「何ですか?」
コーヒーの用意をしようとしてキッチンに立った沙羅が、長い髪を揺らしてそう尋ねた。その大きな澄んだ瞳が、じっとこちらを見つめている。
「ううん、何でもない」
思わずそう言ってしまった。そう言うと、クスッと笑って沙羅はこちらに背を向けながら、オーブンに入れたトーストの様子を見ている。
本当は、「沙羅も食べないの?」と言いたかったのだ。でも、なぜか言葉が出てこなかった。
紺色のブレザーの背中がこちらを向いている。その長い髪が、背中にかかり、その白いうなじが髪から時折見えた。
ああ、この家に、女の子が、それも女子高生が、こうしているなんて夢みたいだ、そう何度も思った。
「はい、できましたよ」
オーブンがチン! と鳴ると、扉を開けて焼き立てのトーストを取り出し、バターを塗ってくれた。トーストの香りとバターのとろけるような匂いが食欲を誘った。
「ご主人様、コーヒーもできましたよ」
そう言って出してくれたコーヒーは、ブラックだった。日頃、田中はブラックを飲んでいるのだが、まるでそれを知っていたようにも見える。
「僕がブラックを好きなのを知っているの?」
聞いてみると、沙羅は、前髪を少しかき分けて頬を赤らめながら答えた。
「もちろんです。昨日の夜は、ずっとご主人様の事を見ていました」
ずっと、って? 沙羅は、ほとんど目を閉じていたじゃない、と尋ねると、
「私はご主人様を驚かすといけないと思って、こっそり観察させていただいていたのです」
そう言うと、少し恥ずかしそうに下を向いた。
「そうなんだ……」
そう言いながらカップを口に着ける。淹れたてのコーヒーは絶妙な温度と味で、ブルーマウンテンの香りを生かしているのが解った。まるで熟練した喫茶店のマスターがサイフォンで絶妙なコーヒーを入れたかのように感じた。
「ご主人様の事がもっと知りたいんです。ずっとお側に居たいです」
そう言いながら、また顔を赤らめた。その様子を見ていると、沙羅がたまらなく、いじらしく感じた。
田中は、全く緊張せずに話ができる事に気がついた。今まで女性、とりわけ若い女性を相手にすると、声が震えたり顔が赤くなったり、心臓がドキドキしてきて、まともに口をきけなくなってしまうのだったが、沙羅相手には、普通に話ができているのだ。
沙羅も呪文で人間になったというのに、普通に接することができているのだ。今まで、愛人形の沙羅を夜ごと愛しており、もともと沙羅には慣れているからかも知れない。
「沙羅は、いつ頃、目が覚めたの?」
そう訊いてみた。呪文を唱えてすぐに人間になり覚醒したのか? それとも、時間がかかったのか? 確か、呪文を唱えたすぐ後は、全く変化がなく明らかに愛人形であった。その翌朝も特に変化もなく、ずっとソファーで座っていたのを覚えている。その日の夜だったか。体温を感じたのは。明らかにあの時のぬくもりは愛人形のそれではなく人間のぬくもりだった。
「はっきりとはわかりません。ふと目が覚めた時、外は明るくなっていました。私は、ソファーに座っていました。最初は身体がなかなか動きませんでしたが、だんだんと動くようになりました。最初は手の指先が動くようになり、だんだん体が動かせるようになりました。多分、三時ぐらいだったと思います。誰もいませんでしたが、私はご主人様が夕方に帰ってくると解っていました」
人間になったばかりなのに? どうして時計が読める? どうして俺が家に帰ってくる事が解るのだ? 疑問に思った。
「でも、人間になったばかりで、どうして時計の意味が解るのかな? どうして三時だって解るの? それになぜ僕が家に帰ってくるのが解るんだい?」
そう疑問をぶつけてみた。すると、沙羅も首をかしげて不思議そうな顔をしながら、
「そうなんですよ。どういうわけか、なぜかちゃんと解るんです。この家に来てからの事も、ご主人様が私を可愛がってくれた事も全部思い出したのです……」
そう言うと、また顔を赤らめた。きっと、田中が夜ごと、愛人形だった沙羅を可愛がる光景を思い出したのだろう。そう言えば、沙羅を買ってからはいろいろなシーンで愛した事を思い出した。ある時は、キッチンで欲情して押し倒したり、ソファーで欲情して押し倒したり、またはある時は一緒に風呂に入れてみたらまた欲情をこらえきれなくなって行為に及んだこともある。それら全ての行為を沙羅が思い出したとしたら? そう思うと恥ずかしい気分になった。
「あ、そうだ。沙羅は食べないの?」
田中は自分ひとりコーヒーを飲み、トーストを食べている事に少し恥ずかしい気持ちになったのだ。
沙羅の心配をする気持ちを初めて抱いた。
「ううん、私はいいんです」
いいんですって、食べないとだめだよ、そう言ったのだ。
「……ご主人様が会社に遅れると困ります。まずお食事をちゃんと食べてください。私は後でも構いませんから」
慎ましやかな声で沙羅は言った。
「一緒に食べよう。これは命令だよ」
そう言ってみた。そう言えば、きっと沙羅は食事を一緒に食べてくれるだろう。そう思ったのだ。
「でも……解りました。じゃあ、私は自分の分を焼きますね」
そう言いだして、沙羅は自分の分の食事を用意し始めた。トーストを焼き始めた。
しばらくしてトーストが焼きあがり、沙羅がコーヒーも用意するまで、田中は食事の手を止めた。沙羅と一緒に食事をしたくなったのだ
「お待たせいたしました、ご主人様」
沙羅はそう言いながら、にっこりと笑った。
「うん、じゃあ一緒に食べよう。いただきます」
沙羅もいただきます、と言いながらトーストを食べ始めた。
ああ、沙羅はちゃんと食べる事もできるんだ、と妙に感心した。
「おいしいね」
そう言うと、沙羅は嬉しそうにうなずいた。
その桃色の頬がさらに赤くなった気がした。
トーストをほおばるその動作も、コーヒーを飲む仕草も、すべてが可愛らしく思えた。女子高生の制服姿の沙羅が、こうして三十を超えた独身未婚童貞男のマンションに同居して、一緒に朝食を頬張る現実がまるで夢のように思えた。あの呪文で、愛人形が人間になる奇蹟を目にしてしまった以上、死ぬほど退屈なベルトコンベアーのレトルト食品と格闘するのがたまらなく馬鹿馬鹿しい事に思えてきた。
窓の外をふと見た。レースのカーテン越しに差してくる日差しは、晴天を物語っていた。
休もう。今日ぐらい構わない。そう思った。
「沙羅……俺、今日は休むよ」
そう言ってみた。
「え? ダメです、ご主人様。会社をサボるなんて。仕事をずる休みするなんて絶対にダメです」
沙羅は眉をひそめてそう言った。
飲みかけのカップを置いて、心配そうな目をする。
「大丈夫だよ。一日ぐらい、休んだって平気だ」
そう言ったが、沙羅はますます深刻な顔をした。
「そんな……ちゃんと仕事をしないとダメですよ」
「沙羅はまるで俺の母親みたいだな」
クスッと笑いながら言った。
「でも……ダメですよ。ずる休みなんて」
そう言って沙羅は食い下がった。
「でもね、沙羅、俺だって仕事を休みたい時があるんだ。ほら、カーテンの外を見て。いい天気だよ」
そう言いながらカーテンを開ける。強い陽ざしがガラス越しに飛び込んできた。沙羅の顔に太陽が当たり、白く輝いている。
「でも……」
心配そうに沙羅は見上げる。
「お前と、今日は一緒に居たいんだ。それではダメかい?」
そう言いながら、じっとその目を見つめながら沙羅の髪を撫でた。自分でもこんな気障なセリフを言いながら女の髪をさりげなく撫でる仕草が自然にできた事に驚いていた。
見つめられて髪を撫でられた沙羅は、うっとりとした表情を浮かべて目を閉じた。キスをして欲しいようだ。
「沙羅……お前が好きだ」
そう言いながら肩に手を回す。
沙羅もまた、その手を田中の背中に回したのが解った。柔らかな女の感触が心地よく感じる。
「ご主人様……」
若い少女の甘い吐息の香りがした。
「私もご主人様の事をずっと思っていました。ご主人様が初めて私をこの家に迎えてくれてからずっと……」
そう言いながら沙羅は目を閉じた。
その頬をそっと撫で、田中は生まれて初めてのキスをした。甘い香りと柔らかな唇を感じながら、これがキスの味か、と思いながら、そっとその柔らかな髪に触れた。
「ご主人様。好きです」
沙羅はそう言いながら、嬉しそうに田中に凭れた。柔らかな女の体と体温が心地よく感じた。
「沙羅」
「何ですか?」
沙羅は、キョトンとした表情をしている。
「ご主人様、と言わなくてもいい。これからは、『陽一』と呼んで欲しい。それと、敬語は使わなくていい。お前と対等に、話がしたいんだ」
「でも……」
沙羅は少しためらいの表情を見せた。
「でも、ご主人様の名前を呼び捨てにするなんて……」
沙羅はためらいながら、道に迷った子犬のような顔をしながら田中を見上げた。
「いいんだ。お前にそう呼んで欲しいんだ。さあ、読んでみてくれ。『陽一』と」
「陽一……」
沙羅はそう呼ぶと、そっと田中の肩に触れた。
そうだ、それでいいんだ。そう言ってやると沙羅は戸惑いながらも嬉しそうな顔をした。
「好き。私、陽一と居たい。今日は、会社を休んで私とずっと家にいるの?」
優しい眼差しを向けながら、沙羅は田中に問いかけた。
「これから、会社に電話するよ。熱が出て、仕事を休むって。それから、沙羅。どこかへ連れて行ってやるよ」
「うん」
「沙羅、今日は天気がいい。海にでも行こう」
「解った」
沙羅はそう言うと、嬉しそうに白い歯を見せた。