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ドール  作者: 竹取 裕基
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第五章

 翌日。朝、目覚まし時計の音で目が覚めた。

 沙羅が人間になり、動いているだろうか? と淡い期待をしてリビングに行ってみたが、全く動いた気配はなかった。沙羅は、リビングで座ったままだった。それを見て、がっかりして仕事に行く支度をした。トーストを焼き、いつものようにコーヒーを沸かして目玉焼きを食べた。

 ああ、ダメだったか……そりゃそうだ。たかが夢じゃないか。あんな夢をまともに信じて呪文を唱えてしまった自分自身が馬鹿だった。

 そう思いながら、ふと人の気配を感じた。まさか沙羅か? 淡い期待をしてソファーに目をやる。沙羅は動きもせず静かにソファーに座っていた。気のせいだったようだ。

 時計を見ると、もうそろそろ、仕事に行かねばならない時刻だ。テーブルの上の食器を水につけて、仕事に行くことにした。

 その日も、いつもと同じように過ぎて行った。午前八時五十五分に持ち場に着き、九時きっかりに稼働しだすコンベアーの上のレトルト食品を延々と棚に積んでいく作業が続き、そして十分間のトイレ休憩の後、また正午まで延々とレトルト食品を棚に積んだ。正午きっかりに休憩になり、今日はラーメンライス大盛りと唐揚げをつけた。あまり親しく話す者もいないが、同じ派遣仲間の沢口と島田とたわいもない話をしながら昼食を取り、午後一時からまたレトルト食品を棚に積んで、午後三時ごろ、十分間の休憩を貰った。そしてまた延々と作業が続く。今日は、コンベアーの不調で、いつもの作業とは違い、午後二時半ごろから、野菜サラダを作っている部署へ応援に行かされたり、マイナス二十度の冷凍庫から凍り付いた野菜を持ってくる作業などだった。いつもの単調な作業ではなかったので、体力的にはきつかったが、わりに時間は早く過ぎ去っていった。

 そして定時になりタイムカードを押して家路につく。車のハンドルを握っている間にも眠気が襲ってくる。途中のコンビニで二回も仮眠した。

 ようやく自宅に着いたのは、午後六時ごろだった。既に日は傾いて、夕闇が迫っていた。

 エレベーターを五階で降りて、五〇八号室のドアを開ける。無駄だとは思いながらも、微かな希望を込めて。

 ガチャリ。音がして中を覗く。見たところ、何も変わってはいない。

 開いたリビングのドアから、こちらを背にしてソファーに座る沙羅の姿が見えた。その髪が微動もしていないのを見て、がっかりしてため息をついた。あの夢の中に出てきたエロ仙人の話は与太話だった。そもそもあの夢そのものが嘘っぱちだったのだ。それを馬鹿正直に信じてしまった自分が本当に馬鹿だっただけだ……重い足取りで、廊下を抜けてリビングのソファーに腰を下ろした。

 沙羅は、前を向いたまま動きもしない。目を閉じているだけだ。その紺色のブレザーの胸が上下していないか凝視したが、全く動く気配もない。品の良いまつ毛が閉じた眼から見えた。白くてきれいなうなじも動く気配もない。

 そっと髪を撫でた。全く動く気配もない。その様子を見てまたがっかりした。急に疲労感に襲われた。今日は、いつもと違った作業をしたことで、やはり疲れていた。ソファーに身を沈めてすぐに強烈な眠気が襲ってきた。心地よいその眠気にあらがう事も出来ずに、そのまま眠りの世界に落ちて行った。

 しばらくして、ふとまた目が覚める。つい、うたた寝をしてしまったようだ。

 ふと視線を感じた。誰だ? まさか沙羅?

 そう思って沙羅を見た。相変わらず沙羅は目を閉じて動かずにソファーに座っていた。動いた気配はない。どうやら気のせいだったようだ。ああ、また無駄な期待をしてしまった。そう思って、風呂に入る事にした。風呂に入り一日の疲れを洗い流して、寝間着に変えてテレビをつける。あまり面白くもないバラエティー番組で芸人たちが画面の中で笑い声を立てているのが目に入った。ぼんやりとそれをながめながら、普段はあまり飲まないビールを冷蔵庫から出してきて、缶を開けた。乾いた喉にほろ苦いビールが心地よく感じられた。だんだんと頭がぼんやりとしてきた。疲れているのか、少し酔いが早い気がする。二本目の缶を開けた。プシュッ! と心地よい音がして、わずかにビールのしぶきが飛び散った。缶ビールも二本目になるとさほどうまくはなくなった。酔うために飲む、そんな感じだ。

 ふとまた視線を感じる。沙羅か? まさか。

 そう思いながら、今度はゆっくりと沙羅の方を向いてみた。

 パッと沙羅の首が元に戻った気がした。

 え? まさか?

 じっと沙羅を見つめた。微動もしない。その瞳はじっと閉じている。その髪も、その紺色のブレザーも、胸の赤いリボンも、動いているようには見えない。

 気のせいだろう。きっと仕事で疲れているんだ。

 そう思って、また冷蔵庫から三本目の缶ビールを取り出した。缶のプルトップを開ける。缶の中を覗くと、黄金色の液体が泡を含んで揺れていた。それを、そっとコップに注ぐと、白い泡がコップから溢れて出てきた。

 ふとまた人の気配を感じた。沙羅を見た。

 沙羅はじっと、そこに座っている。静かに目を閉じていた。

 まさか……。沙羅が動いた? そんなはずはない。

 そう思って目を凝らしてよく見た。先ほどの位置から、十センチほど横によっているような気がした。

 そんな馬鹿な?

 そう思ってもう一度、目を凝らしてよく見る。沙羅の座っていた位置が、確かにずれている。

 いや、違う。絶対に違う。これは俺の目の錯覚だ。きっと疲れているのだろう。絶対にそんな事があるはずはない!

 何度も目をこすって否定した。

 もう一度、よく見てみようと思った。

 そっと沙羅を見る。座っている位置をじっくりと見た。

 その短いスカートから出ている白い膝を見た。動いたような気もするし、やはり動いていないような気もしてきた。

 多分、錯覚に決まっている。いや、錯覚だ。絶対に錯覚だ。

 そっと沙羅の頬に触れる。そのすべすべした肌触りは、シリコン樹脂とはとても思えない。

 その閉じた瞳にそっと触れた。そのブレザーの胸のふくらみにそっと手を触れた。その柔らかな胸の感触もまた、愛人形とは思えないぬくもりを感じた。その時ふと思った。以前、沙羅の胸をこうして触れて楽しんだことはあったが、このようなぬくもりを感じた事があっただろうか……と思ったのだ。沙羅の胸は確かに柔らかくて人間のような皮膚にできているし、とりわけ乳房の部分は柔らかく加工してある。しかし、人のようなぬくもりを感じた事はなかったはずだ。まさか、本当に生きているのか?

 沙羅の制服のリボンをそっとのけて、その白いシャツの上に耳を当てる。柔らかな乳房が耳にそっと触れた。

 心臓の音が聞こえるだろうか?

 そう思ったが、それらしい音は聞こえてこない。やはり気のせいに違いない。

 だが、沙羅の体全体に、なぜか暖かなぬくもりがあるのを感じる。その太ももにも触れてみたが、やはり間違いない。今まで感じた事のないような体温のぬくもりを感じるのだ。なぜ? 愛人形にどうして体温があるのか? いや、違う。そんな馬鹿な事はない。錯覚だ。絶対に錯覚だ。よほど疲れているから、こんなバカな錯覚をしてしまうのだ。

 そう思う事にしたが、不安が胸の中をよぎった。

 もしかしたら、本当に生きている? 本当に、あの呪文で沙羅に命が宿ったのか?

 そっと沙羅から離れた。紺色のブレザーに身を包んだ沙羅の短いスカートから、その白い膝が見えた。

 その唇に、そっと指で触れた。

 息をしているのだろうか? 指には息遣いは感じなかった。

 やはり、愛人形は愛人形だ。どんなによくできていても、愛人形にしか過ぎない。人間であるはずがないのだ。ぬくもりがあるように感じたのも、きっと錯覚だ。何かのはずみで、そう思っただけに過ぎない。

 田中は、首を振って、コップの中のビールをあおった。一気に飲み干してしまった。こんな馬鹿な事があるはずがない、そう言い聞かせながら、また冷蔵庫から四本目の缶ビールを取り出した。

 カタン!

 何か物音がした。振り返ったその先に、誰かが立っている。

 紺色のブレザーに胸の赤いリボン、そして短いチェックのスカートと黒のソックスに身を包んだ沙羅が、そこにいたのだ!

 そのぱっちりとした澄んだ瞳が、じっと田中を凝視している。

 驚いたような、それでいて何が何だかわからないような、そんな表情をしながらも、じっと田中を見ていた。

「嘘だろ……?」

 思わずそう言ってしまった。

「沙羅……?」

 そっとその頬に触れた。沙羅は、田中を凝視したまま、何も言わず、頬に触れたその腕を握った。

 間違いない。愛人形である沙羅が、田中の腕を握ったのだ。

 言葉を発さずに。ただジッと、田中の目を見つめながら腕を握っている。

 何かを言いたげなようにも見えたが、何を言いたいのかもわからない。

 ただじっと腕をつかんで、田中を見つめているのだ。

「沙羅……お前、本当に生きているのか?」

 そう尋ねてみた。

 沙羅は何も言わず、ただ田中の手首を握っている。その手には確かに暖かさがあった。人間の体温が発する暖かさだ。

 沙羅の胸のリボンが、上下しているのが解った。よく見ると、沙羅は呼吸をしているらしく、その息遣いの音も聞こえてくる。

 どうやら、本当に沙羅は人間になったようだ。

「沙羅……俺が見えるか? 俺の声が聞こえるか? 何か言ってみろ、沙羅……」

 そう言うが、沙羅は手を放そうとしない。手首を握ったまま、じっと田中を見つめている。何も言葉を発そうとせず、じっと見つめているだけだ。

 その瞳には、敵意はなく、ただ何かを訴えたいような目に見えた。

「沙羅……本当にお前、動けるのか? これ、俺の錯覚じゃないよな?」

 田中がそう言うと、沙羅は手首をそっと放し、今度は田中の頬を撫でた。

 その柔らかな沙羅の手は、シリコン樹脂の愛人形の手ではなくて、人間の少女の手と全く変わらない気がした。

 沙羅が何かを言おうとしているようだ。唇が、動いた。しかし、うまく声に出せないようで、声にならない。

「え? 何て言ったんだ?」

 田中が聞きなおす。沙羅は、田中をじっと見たまま、何かを言っているが聞き取れない。

 何と言っているのだろう? それを聞き取ろうと耳を近づけてみたが、唇が動く微かな音しか聞こえなかった。

 よく解らないが、何かを言おうとしているのだろう。やがて沙羅は、何かを言おうとするのをやめた。

 そして、しずかに田中をじっと見つめたかと思うと、今度は下を向いて、ときどき、田中をチラチラと見た。

 よく見ると、その頬が赤くなっている。恥ずかしそうにしている感じがした。そうかと思うと、何かを期待しているような風にも見えた。

「どうしたんだ? 何か言いたいのか? 沙羅、どうしたらいい?」

 田中はソファーに腰を下ろしながら、そう言うと、沙羅も田中に密着して座った。ふんわりとした甘い少女の香りがした。

 その長い髪が、豊かな胸のシャツの上にかかっている。ブレザーの下のシャツから、薄っすらとブラジャーが透けて見えた。

 沙羅は無言で、田中にしな垂れるように凭れてきた。

 その柔らかな少女の肉体が、制服のブレザー越しにもはっきりと解った。その体温も、明らかに十代の少女のような熱い体温だ。そして、十代の少女特有の甘い香りがした。

「沙羅……お前、本当に人間になったのか? 夢じゃないよな、これは夢じゃないよな、俺、夢でも見ているのかな?」

 何度も何度もそう言いながら、田中は沙羅の肩を抱いた。

 柔らかな肩が、微かに震えた。田中は、沙羅を抱きしめると、沙羅はじっと田中を見つめている。そして、その白い指をそっと出して、頬に触れた。

「……」

 沙羅は何も言わず、目を閉じた。田中にキスをして欲しいかのように、その唇を柔らかく閉じた。

 田中は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。愛人形とは言え、目の前にいるのは間違いなく女子高生そのものに感じられたのだ。いつもリビングで動かずにソファーに座っているだけの沙羅とは違って、それは生きている女子高生そのものであった。

「俺は、夢を見ているのだ、きっとこれは何かの間違いだ」

 そう言いながら、田中はどこかの漫画で読んだように、己の頬を強くつねった。夢ならば、それで目が覚めると思ったのだ。

 ところが、頬を強くつねったにもかかわらず、目が覚める気配はなかった。何度も、何度も、これは夢だ、と心の中で言いながらつねってみたが、目が覚めない。それどころか、沙羅のふんわりとした甘い香りと、心地よい柔らかい肉体は、間違いなく現実のものであった。突然、沙羅が触れたかと思うと、手を握ってきた。思わず、その手を握り返す。すると沙羅は、また田中にしな垂れてきた。そして、目を閉じた。

 キスをして欲しいようだ。

 急に胸が高鳴ってきた。今まで、動かない愛人形には平気でキスもセックスもできたのに、こうして命を吹き込まれた沙羅……それは愛人形ではなく人間そのものであった……が、こうして隣にいると、まるで人間の少女がそこにいるように思えて、胸が高まり、喉が渇いてきた。極度の女性恐怖症の症状が出てきたのだ。

「さ……さ……」

 沙羅と呼ぼうとしたのに、声が出ない。沙羅が目を開き、不思議そうな顔をした。

 沙羅も何かを言おうとしている。しかし、言葉が出てこないらしい。

「さ、さ……」

 目の前にいるのが愛人形という事を忘れ、若い女子高生が自分の部屋にいる、そしてすぐ隣で座ってこちらを向いているという状況は、童貞の田中にとっては刺激が強すぎた。

「ああ……さ、沙羅」

 そう呼びかけると、沙羅は、今度はソファーから立って、田中の目の前にしゃがみ込んだ。スカートから、白いパンティが見えた。

「……」

 沙羅は黙っている。首をかしげて、どうしたの? と言っているように見えた。

 田中の視線は、スカートの中の白いパンティについつい行ってしまった。そこを見られている事を知った沙羅が、慌てた様子で脚を閉じた。

「ご、ごめん」

 慌てて謝った。

「ねえ、沙羅……」

 ドキドキしながらも、ようやく声が出た。沙羅が、こちらをじっと見る。田中の次の言葉を待っているような目をしながら。

「いつから、動けるようになったの?」

 そう尋ねてみた。沙羅は、何かを言うように唇を動かした。しかし、相変わらず声が出ない。

「声が出ないみたいだね」

 そう言いながら、沙羅の髪に触れた。沙羅は、何度もうなずいた。どうやら、沙羅も声を出そうとしているのだが、どうしても声が出ないようだ。どうしよう。動けるようになった沙羅が、すぐそこにいる。以前のように動けない愛人形だった時には、ムラムラとしたらすぐに服を脱がせてセックスの真似事をしていたのだが……こうして人間になり、動ける沙羅を目の前にしていると、どうしたらいいのか解らなかった。

 このまま押し倒したりしたら、沙羅に嫌われるのではないだろうか? そんな気持ちも湧き上がってきた。

 少なくとも、今、沙羅は田中を慕っているように見えた。その気持ちを裏切るわけにはいかない気がしてきた。

 とにかく、沙羅がこうして動くことも信じられないが、今日は何もしないで寝よう。

 とりあえず、明日も仕事がある。どちらにせよ、寝ないとダメだ。

 俺はベッドで寝るにしても、沙羅にもちゃんとソファーで寝る場所ぐらい作ってやろう。

 そう決めた。

「沙羅、もう僕は寝るよ。沙羅は、そこで寝ると良い」

 そう言いながら、毛布を一枚持ってきた。沙羅は、ソファーに横になると、目を閉じた。その上に、そっと毛布を掛けた。

「おやすみ、沙羅」

 そう言いながら、部屋の明かりを消した。


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