第三章
田中は、その夢を思い出しながら、できるだけ詳細に書こうと一生懸命に夢日記に書いた。言葉にしにくい物や、名前のわからないものなどは、簡単な絵を添えてそれを書いたのだ。たとえば仙人の住む山の頂上の様子や、物凄い高さの絶壁の崖などは、イラストで描いた方がしっくりときた。
崖から見た雲海の様子や、不思議な仙人の様子などは、夢とは思えないほどリアルで今も網膜に焼き付いている。
絵を交えながら、できるだけ詳しく書いた。夢によくありがちな、よく考えると理屈の通らないことであっても、できるだけありのままを描写しようと心がけた。
夢中になって夢日記を書いていたら、あっという間に時間が経っていた。ふと、壁掛け時計を見上げたら、もう午後九時だ。ああ、休日はもう終わりだ。
明日は月曜日。また仕事の日々が始まる。
そう思うと気分が重くなった。明日の朝になれば、否応なく目覚まし時計のベルの音と共に、快適なベッドを飛びだして慌ただしく朝食をかき込んで、またあの職場に行かねばならない。派遣社員なのでいつ首になるのかわからないし、将来性も全くない。ただ生活のために日銭を稼ぐだけの日々だ。
こんな事をしていて、一体何になるのだろうか? この仕事は自分がやらなくても、別に社会は困らないし、自分の替わりなど世の中にはいくらでもいる……そんな事を考え始めると、仕事そのものが嫌になりそうな気がした。確かに誰でもできる仕事だ。仕事内容と言えば、カレーやシチュー、スープなどのレトルトパックがひたすら流れてくるベルトコンベアを見ながら、パックを掴んで金属の棚に並べていき、一杯になったら別の棚をその上に重ね、また並べていくだけで、誰でもできる。ある程度積みあがると、社員がそれを別の場所に持っていく。そして工場では、様々な食材の料理した匂いが漂っている。最初の頃はおいしそうだと思った事もあるが、最近では嫌になってきた。コンベアーの動く音、人々の働く音、大量のスープ、カレー、シチューなどを作る機械の音、食材を切る音、それらすべてが一緒くたになった騒音が耳の中にこだまする。それらは決して心地よい音とは言い難かった。派遣として働き始めて三年、同じ職場で五年続ければ正社員になれるという法律はあるが、この職場では四年目ぐらいで一度、解雇し改めて再雇用するために正社員になれた者はいないらしい。だから、このままここにいても未来はない。だけど生活もあるから仕事を続けるほかない。転職する気力もあまり湧いてこない。このまま、ずっとここで働くしかないのかと思うと、絶望感も湧いてくる。
派遣社員として、このまま働いていくうちに歳を取っていく。そのうち、正社員での転職も、経歴と年齢が災いして絶望的になってくるだろう。いや、もうすでに、新卒ではない。このご時世、正社員での経歴もない自分が、ちゃんとした会社で正社員として採用されるのは絶望的だろう。かといって、ここを辞めても結局、仕事を探さねば生きていけない。正社員採用が難しければ結局は会社が変わるだけでまた派遣をやるしかないだろう。生活のために派遣社員をやるしかない、辞めても結局、派遣会社が変わるだけで派遣社員から抜け出せそうにないこの負のループから永遠に抜け出せないうちに、歳を取っていくのか……と思うと絶望しかなかった。
ふと、ベッドの横の人形たちをながめた。紗耶香、絵里、由香里、未祐、麗香……そして隣のリビングには沙羅がソファーに座っているのが見えた。物言わず、動かず、人形たちはそこに佇んでいた。ベッドに横になり天井を眺める。
あの仙人の言っていた事は、本当だろうか? あの呪文を唱えたら、人形を人間にできるのだろうか?
そこまで考えて、フッと笑った。そんな馬鹿な事があるはずはない。確かにあの夢は鮮明に覚えているし、本当の出来事のように感じたが、しょせん、夢は夢ではないか。呪文を唱えて人形に命を吹き込むなどしょせん夢物語。現実にあるはずがない。そう思った。
部屋のミニテーブルの上の小さな人形に目を移した。この前の休日、酔狂で街のおもちゃ屋で半額で売られていたものを買ったものだ。その細い足をナース服から覗かせている小さな人形がつぶらな瞳でこちらを見ていた。もちろん、この人形には特別な名前など付けていない。
これを『人間』にしてやろうか?
そんな考えが浮かび、フッと笑った。
まさか、どうせやるなら愛人形が良い。それにどうせ、あんなのは自分の願望が見せたただの夢に決まっているから、本気にしてはダメだ、と思い直した。
それに、あの夢に意味はなく、単なる妄想に違いないはずだ。そう思った。
だが、もしそうではなかったとしたら? もし、あの夢で本当に不思議な世界に行き、そこで本当に仙人に呪文を授けられたのだとしたら?
そう思って、ふとカレンダーを見た。日付には月の満ち欠けも印刷されている。そう言えば仙人は、新月か満月の夜に呪文を唱えるように言っていた事を思い出した。
カレンダーを見てみると、もうすぐ新月……正確には、明日の夜に、新月になる事が解った。
呪文を試してみようか? そんな気持ちになった。嘘だとしても構わない。一度、試してみよう。どうせ、何も起きない。単なる夢だったことが証明されるだけだ。
明日の夜に呪文を試してみることにした。