第十五章
ふと、顔に何かが触れる感じがした。
何だろう?
髪だ。誰かの髪が、すぐそこにある。そして、何だか甘い吐息を感じた。甘い匂いだ。そう、若い女の吐息のような香りがする。
瞼を開けた。
目の前に、由香里がいた。
さすがにびっくりして、あ! と声が出た。
由香里もサッと体を引いた。
どうやら、寝顔を覗き込んでいたようだ。
「お目覚めですか?」
何事もなかったように、由香里はそう言ってにっこりと笑った。
「ああ、ちょっと寝たみたいだ。今、何時?」
「三時ですよ」
三時と言えば……自宅を出たのが一時近かったから、多分二時間近く寝ていたのだろう。さすがに疲れていたので、目が覚めなかったのだ。
その間、じっと由香里は寝顔をのぞきこんでいたのだろうか? そう思うと、嬉しい気もする。
由香里の顔をじっくりと見た。覚醒してから、以前よりずっときれいになったような気がする。
肩まである艶やかな黒髪、その目はクリクリとして可愛らしく、そしてその歯は八重歯でそれもまた可愛らしい。そしてそのサクランボのような唇が、若い潤いを見せていた。
メイド服が目立つのか駐車場を歩いていく人が見てくる。
豊かな胸が、動くたびに揺れるのが解る。そして、その身体からは何とも言えない甘い香りがした……若い女だけが放つ、甘い桃のような香りがするのである。
「よく眠れました?」
そう言いながら、そっと手に触れた。
柔らかな手をしている。思わずその指を絡めた。
由香里も指を絡めてきた。
ふたり、じっと見つめあう。
「ああ、よく眠れたよ。そうだ、どこか行かないか?」
「どこに、ですか?」
指を絡めたまま、由香里は尋ねた。
「そうだね、ちょっと車を走らせよう。明日は、休みだから」
「解りました。ご主人様が行きたいところへ、連れて行ってください」
真摯に答える由香里を見ていると、沙羅とはまた別の可愛いらしさを感じた。
由香里もなかなかのものではないか。そんな気がしたのだ。
「じゃあ、ちょっと海にでも行こう」
そう言いながら、車のエンジンをかけた。
近くの海を見に行き、自宅に戻ったのは、午後五時ごろだった。
「ただいま」
そう言うと、真っ先に玄関に飛び出してきたのは、沙羅とあかねだった。
「陽一、いったいどこへ行っていたんだよ~」
あかねが、田中を見上げて言うと、後ろから次から次へとドールたちがやってきた。
「どこへ行っていたの?」
あかねの隣にいた沙羅がふくれている。
「その子も一緒に?」
沙羅の顔が見る見るうちに険悪になった。
「いや、由香里にはいろいろと手伝ってもらっていたんだ」
田中は思わず、口から出まかせを言った。
「何を手伝ってもらっていたの?」
沙羅は、怒りを込めてそう尋ねてきた。
「何だっていいでしょう? あなたに関係あるの?」
今度は横から由香里が強い口調で言い返した。
「どういう意味よ?」
沙羅はますます怒りが湧いてきたようだ。このままではまずい、一触即発だ。
「まあまあ、二人とも。そんなに怒らなくても」
横からあかねが飛び出してきて、二人をなだめた。
「でも!」
ふたりは同時に口をそろえて不平を言った。
「みんなおなかが空いたよね?」
また口から出まかせが出た。自分でも驚く程だ。首筋を冷汗が垂れていくのが解る。田中は、自分が出まかせを言う才能があるのを発見した思いだった。
「そうだね」
ドールたちはうなずいた。
「覚醒したから人間と同じでおなかも空くはずだ。だからみんなに何を買ってこようかと由香里とスーパーをめぐって相談していたんだ、な、そうだろう、由香里?」
そう言うと、由香里はうなずいた。その様子を見た沙羅が疑わしそうな目を向けた。
「だったら、出かける前にみんなに聞いたらよかったじゃない」
沙羅が口を尖らせてそう言った。他のドールたちも同意しているのか、うなずいている。確かにそうだ。誰にも聞かないで勝手に買ってくるのも何となく不自然だと思った。ドールたちを納得させる理由がいるだろう。
「確かにそうだね。だから、今から何人かで買い出しに行こうと思う。みんな、何が食べたい?」
ドール相手には、田中も大胆になれる気がした。本物の少女たちには絶対に言えないセリフだと自分でも思った。
ドールたちは顔を見合わせて、私はラーメンがいいわとか、パスタがいいわ、とか口々に勝手な事を言い始めた。
「みんな、焼肉ってどう?」
あかねが、足元から大きな声で呼びかけた。
「そうね……それも悪くないわね」
「そうだね、焼肉ならみんな好きなんじゃない?」
「そうだよ、そうだよ、焼肉、いいね」
ドールたちはお互いにそう言い始めた。よく見ると、沙羅や由香里もうなずいているし、おとなしくしていた紗耶香と麗香もふたり肩を寄せながら、それがいいわとか、そうねとか言い合っているのが聞こえた。
「決まりだ! 焼き肉にしようよ、陽一」
あかねは、そう言った。
「解った。じゃあそうしよう。でも、俺一人では買い物も大変だ。誰か手伝ってくれないか?」
すると、ドールたちは顔を見合わせている。その中で、沙羅と由香里は争うように田中の前に出てきた。二人とも顔を合わせると、フン!と言って顔を背ける。相当険悪な中のようだ。お互い嫌いあっているにも関わらず、田中を取られるのが嫌なのだろう、絶対に譲ろうとしない雰囲気である。
「私が行くわ」
沙羅がそう言うと、今度は由香里が負けん気をだして、
「私も行きます」
と言って譲らない。二人の間に火花が飛び散っていた。この様子では、買い物の最中に喧嘩をしかねない。
「私も行くわ」
そこには未祐がいた。黒のショーツだけを身に着け、長い黒髪が美しい乳房にかかっていた。括れた腰が思わず目を引いた。
「でも、その恰好ではちょっとまずいね」
思わず田中がそう言うと、
「何か服を貸して」
と未祐は微笑した。潤んだ瞳と長いまつ毛が淫靡な雰囲気を放っていた。
「確かクローゼットにブレザーが一着あるけど、どうだろう?」
田中がそう言うと未祐が、クローゼットはどこ? と言うのでクローゼットに案内してやった。田中の目の前で、クローゼットからチェックの柄のスカートを取り出し、白のシャツ、青のリボン、そして茶色の上着を取り出し、着替える。その着替えの最中も、時折意味ありげに田中を見ては微笑んだ。ノーブラでシャツを着たので、上着を脱ぐと、品のいい乳房が良く解った。
「似合うかしら?」
フフフと笑いながら、未祐がブレザーを来てそう言った。
「そうだね、いいと思う」
そう言うと、あ、と未祐がクローゼットの中から黒縁の眼鏡を取り出した。度が入っていない伊達メガネだ。
それをかけて、どう? と田中に向かってにっこりと笑った。
思わず息を飲んだ。眼鏡をかけると、ただ可愛らしいと言うだけではなく、知的な美人と言った雰囲気を醸し出しており、思わず見とれてしまうほどである。
「いいと思う。似合うよ」
そう言ってやると、未祐は嬉しそうに笑った。
四ドアの軽自動車に四人は狭すぎる、そう思いながらハンドルを握った。夕日が、沈もうとしていた。太陽と反対側の空の奥から、闇がだんだんと迫ってくるように見えた。
皆押し黙ったままだ。助手席には沙羅、そして後部座席に由香里と未祐が座っている。バックミラー越しに由香里を見ると、じっとこちらを見ているし、未祐も時々、目が合う。気のせいか、その目は田中に好意を抱いているようにも感じられた。
沙羅は、そんな車内の雰囲気を敏感に察しているのか、時折心配そうな目を田中に向けてくるのが解った。
何と声を掛けたらいいのだろう。沙羅ばかり依怙贔屓にしてはややこしい事になりそうな気もするし、そもそもドール相手なのだから、別に沙羅とイチャイチャしても構わないだろう、と言う気も起きた。
目指すスーパーは、もう少し時間がかかる。それまで、この空気をどうしようか、そんな事ばかり考えていた。
それにしても……田中の中で腑に落ちない事があった。ドールたちは、ずっと以前から田中の家で生活していたとは言え、ただの人形だったはずだ。それが覚醒して、なぜ普通の人間並みの知識……例えば言語であったり、一般的な社会常識……例えば絵里が持っていたセックスに関する知識などを、学習もせずに知っていたのだろう? それが不思議でたまらなかった。
よくある小説や映画では白紙の状態から主人公が学習させていくみたいな設定になっていたのではないだろうか? どうしてそれもなしに、ドールたちは、いきなり普通の一般的な女子高生並みの知識を持っているのだろう? それが良く解らなかった。他にもドールたちは呪文で覚醒してから、皮膚も人間と変わらないし、おなかも空けばトイレにも行く。それがまた、不思議で仕方がなく思えた。
なぜ? どうしてそうなのか? 沙羅が覚醒して以来、ずっとそれが心の片隅にあったのだが、どうしても解けない謎であった。
そもそも、呪文で人形が人間のようになる、と言うのも不思議で仕方がない。でも、事実そうなのだから、そうとしか言えない。
良く解らないが沙羅をはじめとして自宅のすべてのドールが覚醒したのも間違いない事実だ。そして、いま、スーパーに肉の買い出しに行っているのも。
よそう。あまり考えすぎるのも、田中は自分にそう言い聞かせた。
買い物を終えて家に戻ってきたときには、午後七時を過ぎていた。
肉を大量に冷蔵庫に詰める。肉だけではよくないと沙羅も由香里も、未祐までも言うので、しぶしぶ野菜も買い込んだら、もともと小さめの田中の冷蔵庫はパンパンに膨れ上がってしまった。その反面、田中の財布はすっかり軽くなった。
飯を炊きながら、焼肉の準備をする。どういうわけか、指示も出さないのに、あかねがみんなの取りまとめ役を買って出てくれて、うまい具合に準備をしてくれた。
ドールたちは、あかねの指示に従って、それぞれ分担して役割を果たしていた。
田中がいない間に、絵里が勝手に冷蔵庫の缶ビールを開けたらしく、かなりいい調子で酔っ払っていた。いつの間にかお気に入りの黒ビキニ姿に戻っていた。
「陽一、もっとビール買っておけよ、お前、ケチだな」
そう言いながらケラケラ笑っている。そしてビキニの胸と、きわどい下半身を見せつける。ついつい目がそちらに行ってしまう。
やがて飯が炊きあがると、テーブルで熱せられた鉄板で香ばしく肉を焼き始める。肉汁があふれ出した鉄板からは、いい音と香ばしい肉の臭いが立ち上り、まるで焼肉屋のような匂いが立ち込めている。牛カルビ、ホルモン、そしてウインナー、手羽先など、多種多様な肉が焼かれていた。
鉄板で肉を焼いているのは田中、沙羅、由香里、未祐で、絵里はビールを飲みながらケラケラ笑ってうろうろしているだけで、ときおり勝手に焼肉に手を伸ばしてつまみ食いしている。そして麗香と紗耶香はリビングのテーブルの前で静かに座りながらテレビを見ていた。二人とも肩を寄せ合うように座り、ときおり何か囁いていたり、紗耶香が麗香の髪を撫でたりしている。
沙羅が気を聞かせて、二人のところに飯や焼いた肉を持って行ってやると、二人ともありがとうと言って頭を下げた。
とにかく、ようやく夕食にありつけた。田中も焼肉を口に運びながら、女子高のようになった自宅でこうして肉を食っている事が信じられない思いであった。
「おいしいね」
「うん」
リビングを見ると、紗耶香と麗香が仲睦まじく会話しながら肉を食べている。ふと、誰かが密着してきたのが解った。絵里だ。
「陽一、ちょっと食べるぞ」
そう言いながら田中の皿から肉をつまみ食いした。
肉汁がビキニの胸の谷間に落ちて、そのまま滴り落ちた。絵里は構わずに美味しそうに肉を平らげた。
その様子を見て、沙羅がムッとした顔をした。絵里に嫉妬しているようだ。
「陽一、私の肉をあげる」
そう言って沙羅が陽一の皿に肉を入れた。
その様子を見て、由香里は面白くない様子で、私もあげます! と言って田中の皿に肉を入れた。
ふと、殺気を感じた。
由香里と沙羅がにらみ合っている。二人とも、一歩も譲らない様子だ。
「何よ」
先に由香里が声を荒げた。
「何よって、何よ?」
沙羅も負けてはいない。
これはまずい。一触即発だ。食事時に、バトル勃発ではシャレにならない。そう思った田中は、
「まあまあ、落ち着くんだ、二人とも」
そう言ってなだめてみた。
だが、まだ二人ともにらみ合っている。
「食事時に……二人とも、おとなげないね」
未祐が微笑を浮かべながらそう言った。
「何よ?」
由香里が未祐をにらみつける。未祐は涼しい顔で何も言わずに肉を食べていた。
沙羅も未祐をにらみつけたが黙っていた。
まずい。このままでは本当に喧嘩が勃発してもおかしくない。
突如、女子高のようになった自宅を喜んでいたのも、つかの間、いつしか女の修羅の世界と化した。
「おーい、喧嘩なんてしてるんじゃないよ~」
突然、テーブルに飛び込んできたあかねが、その場の空気を変えた。
「まずは食事だろう? なぁ~」
ちょっと間の抜けた声に、沙羅も由香里もクスッと笑った。
どうやら、衝突は何とか避けられた気がした。
助かった、意外とあかね、役に立つじゃないか、田中はそう思った。ドールたちの取りまとめ役、ムードメーカーとして役に立つだろう。あかねが、ドールたちのトラブルをうまく収めてくれたらこんなに助かる事はない。
うまくあかねが調整してくれていれば、すべてのドールといずれ寝るのも可能かもしれない。そう思うと、笑みがこぼれてきた。
しかし、当初想像していたよりも、女ばかりの世界と言うものは、面倒臭い点がある事に気が付いた。ドールたちが、自我を持たないただのラブドールに過ぎなかった頃は、どのドールも抱き放題、田中の好き放題にできたのだが、いざ覚醒してしまって自我を持つようになると、なかなかそうもいかない。沙羅や由香里が嫉妬して喧嘩を始めたり、面倒な事が起きてきたからだ。
微乳の麗香を抱いてみたい気も起きるが、いつも麗香の隣にいる紗耶香の事を考えると、むやみやたらに手を出せない雰囲気だ。もちろん、紗耶香を抱くのも麗香の事を考えるとうかつに手を出せない雰囲気である。無理やり手籠めにするのもレイプをするようで気が引ける。だから、覚醒してからまだ手を出せないでいる。
ドールたちが覚醒して、ややこしい事になってしまったと後悔する気持ちもあるが、ドールが女と全く変わらない肉体を持つようになった事で、ようやく愛の日々が訪れたかと思うと嬉しくなった。
「そうだ、陽一、お前も飲めよ~」
絵里が乱暴な口調で、ベロベロに酔っている。絵里の様子を、沙羅や由香里も眉をひそめて嫌そうな目をしてみている。絵里が、ほらよ、と言いながら机に置いた缶ビールを見て、田中も飲みたくなってきた。プルトップを開けると、中から白い泡が吹きこぼれた。その泡を慌てて吸い込むと、苦いビールの味がした。
疲れているのか、缶ビールを半分も飲まないうちに、酔いが回ってきた。夜勤明け、あまり寝ていないので余計に酔いが回るような気がした。急に疲れが出た。ふらふらと歩いていき、紗耶香と麗香のいるソファーにドカッと腰を下ろしたので紗耶香と麗香が驚いたような顔をした。
「二人とも仲がいいね」
思わず口走った。
それを聞いた紗耶香が、ええ、と迷惑そうな笑顔を浮かべながら言った。麗香は、紗耶香の身体にぴったりとくっついて、恐怖を浮かべたような目で見てきた。
「お姉さま……」
麗香がそう言いながら、まるで紗耶香の腕を引っ張った。そう言う麗香の肩を紗耶香が優しく抱いて、大丈夫よ、と諭している。
その様子を見て、田中はあまり邪魔をしてはいけない気分になった。そう思って、そっとソファーを離れた。
うすうす気づいていたが紗耶香と麗香が、そんな仲だったとは。それにドールたちも、さまざまな個性がある事に気がついた。
ドールも人間と同じだ……そう思った。