第十章
その一時間後。
沙羅はスヤスヤと寝息を立てて、田中の隣で眠り込んでいた。
その様子を、リビングのテーブルの上から見ている者がいた。
「フフフ。寝たようね」
あかねがテーブルの端で座りながら足を揺らし、密かに笑った。
その短いナース服のスカートからは、細い足と小さな靴が見えた。
「さてと……」
そう言うと、今度はテーブルの上に登り、音もなく歩き始めた。メモがないか、くまなく探した後、床に降りて、今度は寝室に行き、メモを探した。だが、どこにも見つからなかった。もしかしたら田中の夢日記もどこかにあるかと思って探してみたが、どこにも見つからない。
「ないわ。あの女。メモも日記も、どこかに隠したのね」
思わず悔しさに声が出た。
カレンダーをながめる。今日が満月なので、次の新月は後半月ぐらいあとだ。
「まあいいわ。あと半月あるし。夢日記を見つけるか、あの女からうまくメモを手に入れたらこっちの物ね」
あかねはそう言うと、窓をながめた。
満月が西の空に沈もうとしていた。
「ククク。どうなるかしら楽しみだわ」
あかねは、そうつぶやいた。
それから一週間後の昼下がりの事である。既に梅雨に入ったこの日の午後も、しとしとと雨が降り続けていた。窓の外には、鉛色の空が広がり、無数の雨粒が地上を濡らし続けていた。
「へえーそうなんだ」
「うん、それでね……」
沙羅が話し続けた。あかねを覚醒させて以来、沙羅は田中がいないときはあかねと話をする事が多い。あかねと話をしていると、とにかく退屈しないのだ。あかねは話を聞くのがうまく、沙羅の愚痴や、田中への不満などもよく聞いてくれるので、沙羅とあかねが仲良しになるまで時間はかからなかった。
今日もまた、リビングのソファーに沙羅は腰かけ、あかねはテーブルの上で胡坐をかきながら、話に花を咲かせていた。
「ところで、あいつとはうまくいっているの?」
あかねが興味深そうに尋ねた。尋ねるまでもなく、同じ屋根の下にいるのでわかり切っている質問ではあったが、あかねはあえて尋ねたのだ。
「うん。陽一は私の事、愛してくれている」
そう言うと沙羅はパッと顔を赤らめた。
「へえ~どんなふうに? 覚醒してから何回やったの?」
あかねがそう聞くと、沙羅はまた顔を赤らめた。
「一度、だけよ」
嘘だった。田中は疲れているのか、人間になった沙羅に遠慮しているのか、身体を求めてくることは何故かなかったのだ。
本当に一度だけ? そんなわけないでしょ? と、あかねが言った。
「ううん、本当に一度だけ。彼、結構忙しくて疲れているんだ」
まあ、確かにあいつ、帰ってくるとすぐ寝ているよね、とあかねが相槌を打った。
「うん。来週から交代制になるんだって」
沙羅がそう言うと、あかねは、思わず飛び上がって喜びそうになったのを必死で抑えた。
チャンス到来だ、そう思ったのだ。
田中が夜勤で居ない時を狙って、いろいろと悪さもできると思うと嬉しくなったのである。
だが、そんな事はおくびにも出さなかった。
「そうだ、ねえ、沙羅ちゃん」
「なあに?」
沙羅が、テーブルに身を乗り出して聞いた。
「教えてよ、あの呪文」
あかねが尋ねた。
「え、でも……あの呪文、陽一の夢日記によると、夢の中に出てきた仙人が他言無用、もし誰かに知られたら陽一の命はない、と書いてあったし……ダメよ、教えるわけにはいかないよ……ごめんね」
すまなさそうに謝る沙羅に、あかねは両手で拝んだ。
「そこを何とか教えてよ。ねえ、私たち友達だよね?」
「う、うん。そうだけれど……」
沙羅の顔は戸惑いを隠しきれない。
「友達だったら、教えてくれてもいいじゃない。私、誰にも言わないから。絶対大丈夫だって。誰にも知られたりしないよ。あいつが仙人に命を取られるなんて事、ないって。大丈夫だから、ね、ね、お願い。ちょっとでいいんだ。教えてよ。頼むから」
執拗なあかねの願いに、とうとう沙羅は根負けした。
「わかったわ」
そう言うと、沙羅は寝室から、一枚のメモを取ってきた。この前、あかねを人間にした時の呪文が書かれているメモだ。
――これよ、これ。これが見たかったのよ。馬鹿な女ね。
あかねのそんな心の声が沙羅に聞こえるわけもなく、沙羅はおずおずとメモを机の上に置いた。
「あかねちゃん、絶対に誰にも言っちゃだめよ」
沙羅は、心配そうに見つめている。
「大丈夫だって。そもそも私、この家から出ないし、それにあいつの前ではドールのふりをしているでしょう? 大丈夫だよ」
あかねは笑いながらそう言ったが、まだ沙羅は心配そうな感じだ。
「絶対だよ。ちょっと見るだけよ。メモしちゃだめよ」
沙羅は心配そうに言った。
「うん。見るだけでいいから」
馬鹿な子ね。私は、一度見たら何でも暗記できるんだよ……あかねは心の中で沙羅を笑ったが、それをおくびも出さず、メモを見た。
全文を読むのに数秒あれば十分だった。それはまた、並外れて記憶力の良いあかねにとって、暗記するのには十分すぎる時間でもあった。
本当に馬鹿な子ね、とあかねは心の中で飛び上がって喜んだが、ただ、しずかに笑って、
「ありがとう、沙羅ちゃん」
とだけ言った。
「じゃあ、もういいよね、これはしまうね」
沙羅はそう言って、メモをどこかへ持って行った。
その後姿を見ながら、あかねは歪んだ笑いを浮かべていた。