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シュレーティンガーの大胸筋

 腕立て伏せができない。


 もやしのような肉体の前世でもそうだったのだが、か弱いお嬢さまなリリエの身体でも、やはり無理だった。


 全体的に筋肉が足りていないのだ。


 この国は貴族の女性に肉体的なパワーを求めていないので、当然リリエも生まれてこの方、筋トレなどしたことがなかった。


 しかし、悪役ムーブをかますには筋肉がないと始まらない。


 前世でよく見たネット漫画の広告でも、悪役っぽい女性はしばしば善良そうなヒロインや生意気なメイドを平手打ちしていた。


 インパクトを与えるビンタには、筋力と、コントロール力が必須である。


 急ぎ、肉体作りに励まなければならない。


 そういうわけで前世の記憶が目覚めてからの私は、タンパク質中心の食生活とささやかな筋トレを開始していた。


 筋トレといえば腕立て伏せだろう、と思ってやろうとしたら、そもそも腕立て伏せ自体ができなかったので、腕立て伏せに必要な筋肉を増やすことを最初の目標とした。私は演舞場で胡座をかき、木刀をダンベル代わりに肩の上で上げ下ろししていた。


「……おはようございます、リリエ嬢。それは……何をしておいでですか」


 剣術の自主練に来たらしいカインが、私の奇行にどん引きしている。


「ごきげんよう、ロドウィン殿。素振りではないことは、見ればおわかりでしょう?」

「……失礼いたしました」


 めちゃくちゃ気まずそうに、カインは私に背を向け、準備運動と簡単な素振りでウォーミングアップを始める。


 この演舞場には朝練を行う未来の騎士の卵が時々現れるが、今日は私とカインだけだった。


 カインは、カカシみたいな形の打ち込み台を用意して、こちらから視線を逸らしたまま、打ち込みの練習を始めた。


 ――ふーん。素振りだけじゃなくて、ああ言うのでも練習するんだ。


 正直なところ、この世界の武術とか、真面目に考えて設定した記憶がない。この演舞場も何らかのエピソードの舞台になったことはない。つまり、私が物語を書く中で、この演舞場で毎日行われているはずの鍛錬は一度も具体的に描写されてないし、「実は作者の頭の中に秘めてある隠し設定」なるものもなかった。


 この世界を作った言うなれば「神」である私の意識がこの世界の中で覚醒してから、色々と状況を整理してわかったことがある。


 創作初心者が後先考えずに書き出したこの物語。特にその世界設定は色々と中途半端で、何も決まっていない部分も多々ある。もしかするとこの先、設定自体の矛盾が見つかってしまうかもしれない。


 そういうとき、その「設定されていない部分」や「矛盾が発生する箇所」はどうなるのかというと、その設定が「観測者」に必要とされた瞬間に、つじつまを合わせるようにして出現するようだ。


 つまり、この世界の未完の部分は「観測者」に「観測」された瞬間、存在が確認されるのだ。それまでは――なんだっけ、なんか、観測されるまで50%ぐらい猫が死んでる実験の話あったよね。シュレティンガーの……いや、違うか。


 なお、出現したつじつま合わせの設定は私の想像力の範疇でいい感じに収まる。私が絶対に思いつけないようなとんでもなく壮大で緻密な展開が突然発生することはあり得ない。


 カインが黙々と打ち込みに集中していたので、私も筋トレを粛々と続けていた。


 右手左手それぞれに握っていた木刀を、2本まとめて両手で持つ。石畳の上で仰向けになり。胸の上でそれを持ち上げ、ゆっくりと下げ……ベンチプレスだ。


 最初は比較的軽いと思っていた2本の木刀も、何度か繰り返すうちに段々と重たく感じてくる。


 マッチョ令嬢になれる日は、遠いな、これは……。


 胸中でひとりごちたのと同時、からんからん、と、なじみ深い音が響いた。


 カインの振るっていた木刀が、演舞場の床の上を転がっていた。


「今朝は集中力が足りていないようですね、ロドウィン殿」

「し、失礼いたしました」


 慌てたようにうわずった声でそう言いながら、こちらへ目線をやらないように必死に背を向けている。ううん、確かに、令嬢が床に寝っ転がっている姿は、16のクソ真面目な少年騎士には刺激が強かったのかもしれない。反省反省。


 私は身体を起こし、服についた土埃をパンパンと叩いて払った。


「そういえば、ロドウィン殿」

「は、はい」

「あ、もうこっち向いても大丈夫ですよ」


 戸惑いがちにカインがこちらへ身体を向ける。


「ときに、ロドウィン殿は、人を殴ったことがありますか?」


 興味が湧いたので聞いてみた。


 作中でカインが人を殴るシーンを書いたことはない。それ以外の範囲で、彼は人を殴ったことがあるだろうか? キャラクター設定として改めて彼の殴打経験の有無を考えたことはなかった。世のプロのラノベ作家とかはキャラクターシートなるものを作るらしいが、そこには「人を殴ったことがある / ない」みたいな項目があるのだろうか。


 イメージとしては、カインは人を殴ったことはなさそうである。熱血漢とか、喧嘩っ早いキャラではないし、礼儀をわきまえていて人並みの冷静さはある男だから。


 ミスター・パーフェクトなヒーローであるフランツ王子も殴打童貞っぽい。


 ……などと思っていたが、突然の質問に多少の戸惑いを露わにしながらも返してきたカインの答えは、若干、予想から外れていた。


「人を殴る……ですか。体術の授業で、それに近い動作の鍛錬はしていますが……」

「体術!?」


 学園の男子生徒たちが体術を習得しているなんて設定、作った覚えはない。どうなんだろう実際、西洋の騎士団とか、士官学校とか、素手で戦う訓練することあるんだろうか。


 でも実際、今の私が「ビンタの経験もないのにいざという時にインパクトのあるビンタをするのは難しい」と思っているんだから、いざ学園のカリキュラムの設定を詰めようとしたときに、「いくら馬に乗って剣で戦う騎士といえども、万が一丸腰になったときのために素手で戦う技術も学んでいてしかるべきだ」という発想から、体術を学園の必修科目にすることはあり得そうだ。


「うーん、なるほど。なるほどなるほど」


 私は大いに納得した。


「やはり、初めて人を殴るときは難しかったですか? 心理的な抵抗感とかじゃなくてこう、うまく拳が当たらなかったとか……」

「まあ……そうですね。最初は砂を入れた袋を殴る練習から始めるのですが、剣を用いた攻撃とは全く違うものですから……」

「ああ、サンドバッグか」


 体術というかボクシングだな。そうか、私もそれでビンタの練習しよう。


「なるほど、とても参考になりましたわ」

「人を殴る参考に……?」

「詳しくお知りになりたいの?」

「いえ、何でもありません」


 カインが軽く咳払いをして私から目をそらした。


 私のことを怪しい女だと思って警戒している様子だ。


「……ロドウィン殿。私は、フランツ王子殿下の婚約者です」

「はい、理解しております」

「私は心から、殿下と、ひいてはこの世界の平穏と幸福を願っているのです」

「……はい」

「その気持ちは今後も決して変わることはありません。この先何が起ころうとも、それだけは、わかっていて頂きたいのです」

「……どうして突然、そんなことを私に?」


 戸惑うように、揺れる視線を私に向けてくる。


 私はそれをまっすぐに見つめ返した。


「あなたは常に殿下の一番近くにいて、これからもずっと殿下が信頼を置くお方だからです」


 私のその言葉を質問の答えとして十分とは思わなかったようだが、それ以上は追求せずにカインは口をつぐんだ。


「ときに、殿下は先日、ナナミさんと一緒に神殿に出向かれたそうですね」


 カインが頷いた。


 日本のどこにでもいる女子高生だった七海が突然この世界に召喚された理由は、まだこの世界の人間にはわかっていない。


 しかし神の意思が関係しているのは間違いないだろう、ということで、彼女は神殿で色々と調査を受けている。


 そして、もし彼女の召喚が神の意思なのであれば、王宮もそれを放っておくわけにはいかない――ということで、ナナミが神殿に行く時はフランツ王子が着き添うことが多かった。


 3度目の神殿訪問であった一昨日は、作中で一番最初のロマンス的エピソードだった。


 神殿の敷地内に突如発生した地下ダンジョン的なものにナナミとフランツ王子だけが閉じこめられ、二人きりで長い時間を過ごすのだ。


 フランツ王子は異邦人であるナナミに多少の興味はあれど、このときまで王室の仕事として世話をしている相手としか思っていなかった。


 またナナミも、フランツのことを親切な王子さまとは思いながらも心を許していなかった。


 しかし、薄暗い廃墟のような迷路のような場所で助けを待ちながら過ごすうちに、お互いの半生や他愛もない思い出話などを打ち明けはじめ、いつの間にか心の距離が近くなっていく……。


 恋愛ものが苦手な私がなけなしの乙女心を絞り出して挑戦した胸キュンシーンだった。ぶっちゃけ、結構良いムードの演出ができたと思っていた。


 私としては……。


 そうだったんだけどな……。


「……ナナミさんは神がこの世界に喚んだ「聖女」かもしれないのですよね」

「その辺りのことは私も詳しく存じておりませんが……」

「いずれにせよ、殿下とナナミさんの関係が良好なのは良いことですわね」

「ええ……まあ」


 カインはフランツ王子への忠誠心のあまり、今はまだ異邦人であるナナミに若干の警戒心を抱いている。


 それがナナミへのツンケンした態度になり、後のデレ期との胸キュン的ギャップが生じてしまうのだ。


 そんな萌え要素を含みそうな下地はできるだけ排除しなければならない。


「どうか、お二人の交流を温かく見守ってあげてくださいね」

「……はい」

「くれぐれも!」


 ずいっとカインに詰め寄り、私は真下から彼の目を睨みつけた。首が痛い。


 冷静沈着キャラだったはずのカインがかなり動揺している。いいぞ、お前は情けない三枚目にでもなっていろ!


「くれぐれもお願いしますわ。……それでは、そろそろ始業の時間が迫っていますので、この辺で。ごきげんよう」


 今日も去り際の捨て台詞と作り笑顔はばっちりキマった。

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