世界の始まり
とてもよく晴れた、心地の良い天気の昼下がりだった。
その日、神殿では、この国の王太子フランツ・ヴィクヘルトと、貴族令嬢のリリエ・フォンバッハとの婚約の誓いの儀式を挙げているところだった。
その最中、突然、空高くから燦々と降り注ぐ日光とは全く違う、強く大きな光が、輝きが、神殿の中庭を満たした。
その場にいた王侯貴族たち、神官たちは、一様に息を呑んだ。
どよめきがその場を支配する。
やがて、その眩い光の中から、人影が現れた。
年の頃は15、6ほどに思える、少女だ。
その出で立ちは、異様だった。
肩ほどに切りそろえられた黒髪。膝丈ほどのスカート。この世界の良家の子女には許されない格好だ。
しかしその姿の奇妙さを忘れさせるほど、その登場はあまりに神秘的で、衝撃的だった。
その場にいる全ての人々が、思った。
これが、伝説に記された、「聖女」の光臨だ、と。
そして「私」だけが、少しだけ別のことを考えていた。
――世界の始まり、というのは、どのように定義されるべきだろう。
例えば、宇宙の始まりを世界の始まりと定義するのなら、ビッグバンが起こった時点、とするべきかもしれない。
あるいは、銀河系や太陽系、地球が産まれた時点と定義する考え方もあり得るだろう。
意識、というものに目を向けるなら、「私」が、自分の生まれ落ちた世界というものを認識した時点が、世界の始まりになるのかもしれない。
「私」の物心がついたのは5歳の頃で、思い出せる一番古い記憶は、幼稚園から帰ってくると、お気に入りの三輪車のサドルに毛虫がついていて、泣いている、というものだ。
うにょうにょ動くあのグロテスクな幼虫が、世界の始まりかもしれない。
特定の宗教や思想を支持するなら、また違う表現になるだろう。
この世界「ラズムスティア」には、人の想像も思い及ばないほど遠い昔、女神の涙が落ちてきて、混沌の中に海が誕生した、という創世神話がある。この世界の人間ならば、それが世界の始まりだ、と皆が口をそろえて言うだろう。
あるいは、その創世神話も含めてこの「ラズムスティア」が「創世」された瞬間、と考えるのも可能だ。
それは、前世の私が高校二年の夏休みに作り出した世界だからだ。
だが、その場合、どの時点を正確に「始まり」とするのか、また考え方によってパターンが分岐してくる。
ぼんやりと頭の中で小説のネタとして思い浮かんだ時点か?
もしくは、実際に文章として出力され、インターネット上の小説投稿サイトに投稿された時点なのか?
観測、という視点を採用するならば、それが誰かに読まれた時点、とすることもできる。
結局、世界の始まりの定義は、無数の可能性があり、どれか一つというわけでもない。
ならば私は、今、この時点、この瞬間を「始まり」と定義しよう。
群衆のどよめきが熱狂に変わっていく様子を、まるで他人事みたいにぼんやり眺めながら、私はそんな風に結論づけた。
前世で未完のまま放置していた自作小説「裸足の聖女」の登場人物、貴族令嬢リリエ・フォンバッハの意識の中で「私」が覚醒した今この瞬間。
今この瞬間が世界の始まりであり――「私」は、この世界をやり直すのだ。
悪役令嬢になって。