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ランドリーより愛をこめて  作者: 三村真喜子
18/25

日本ラブストーリー大賞最終候補

遅番だった為、帰宅は0時を回ったけれど陽子は疲れていなかった。




 部屋に戻ると着替えてすぐに洗濯籠を持ってコインランドリーへ行き、衣類をどさどさと洗濯機に放り込んだ。




 ベンチに腰掛けると、ジーンズのポケットにいれたサンバホイッスルが固い感触で腿に触れていた。




 静かな夜だった。いや、勿論、いつもここは静かだ。でも、当初と違うのは「この世界に自分と洗濯機しかいない」のではなく今は「自分と洗濯機と、アフロの悪魔がいる」と思えることだった。




 陽子は持ってきた文庫本を開きゆっくり読み進め始めた。するとランドリーの前に人影がよぎり、そろそろと引き戸が開けられた。




 珍しいこともあったものだ。このランドリーに自分の他に利用者がいたなんて。陽子は本から目をあげた。が、驚いたことにそこにいたのは利用客ではなく、なんと千夏が立っていて、陽子を見つめていた。




 陽子は千夏に釘付けになっていた。それは金縛りのような時間だった。時間といってもほんのわずかな時間。数秒のこと。けれど、陽子には永遠のように長く感じられた。そうして、それは恐らく千夏にとってもそうだっただろう。




「こんな時間に洗濯に来てるのね」




 最初に口を開いたのは千夏だった。千夏は後ろ手で引き戸を閉め、中に入って来た。




「毎日来るの?」




「……毎日じゃないけど……やっぱり洗濯物溜まっちゃうし……何日かおきには……」




 千夏はマキシ丈のワンピースにサボを履いていて、この殺伐としたコインランドリーにはまるで似合わなかった。




 夢を見ているみたいだった。こんな深夜にコインランドリーに千夏が現れるなんて。陽子は乾燥機からアフロが出てきた時と同じようにそっと自分の腕をつねってみた。痛い。いや、そりゃあ痛いに決まっている。こんなことしている場合じゃない。




 陽子は文庫本を傍らに置いた。




「どうしたの、こんな時間に。なんでここにいるって分かったの」




「電話したけど出ないから」




「あ、携帯は部屋に……」




「玄関もピンポン鳴らしたんだけど」




「え、うちに来たの」




「うん。いないから、もしかしてって思って。コインランドリー行ってるって言ってたでしょ。だから、近所にいるのかと思って」




「どうして急に……」




「……」




「なんかあったの」




「……なんで来たか、分かるでしょ?」




「……」




 陽子は気圧がぐんと下がるような錯覚を覚えた。それは息苦しく、重い空気が頭上にせまるような感じで、二人の間にあるものをぎゅっと押し潰すような圧迫感だった。




 仕方なく陽子は答えた。




「……哲司のこと……?」


「……うん」




 陽子は固い表情の千夏を見ているうちにもう逃げられないのだと悟った。




 二人で手掛けた仕事のこと、いくつものトラブルに協力して打ち勝ってきたこと、新しい店を一緒に開拓し、バーゲンに行き、オフシーズンには温泉旅行にも行ったこともある。




 仲が良かったのに。それなのに今すべてが嘘になろうとしている。洗濯が終了を告げる電子音を鳴らし、陽子は立ち上がって籠に洗濯物を引きずりだした。




「結婚するんだってね」




 陽子は沈黙に耐えられず切りだした。が、千夏の顔を見ることはできなかった。




「結婚することになったのは、陽子と哲司くんが別れてから決まったことだから……」




「……でも、その前から関係はあった。でしょう?」




「それは……」




 籠の中の濡れて団子になった洗濯物をゆっくりとほぐす。清潔な香りが漂う。




「私が一方的に哲司くんを好きだっただけだから」




「そんなことないでしょ。一方的で結婚までは辿りつかない」




「陽子」




「……なに」




「哲司くん、悩んでたのよ」




「なにを」




 陽子は千夏の方に目を向けた。感情的になりたくなかった。罵りあうことや、まさか殴り合うこともしたくはなかった。争いは醜い。でも、そうしないと決着をつけることができないのだとしたら、果たして自分はこのかつての親友を殴ることができるだろうか。陽子の胸はぎゅっと締めつけられ、痛みが吐き気を伴って襲いかかって来た。




 千夏は意を決したように、言葉を継いだ。




「送別会のこと、聞いたわ。自分は参加しないから気にしないでくれって言ったそうね」




「幹事の子が困ってたからね」




「それ、見栄なの?」




「……どういう意味?」




「髪を切ったのも、なんかのパフォーマンスだったりするのかな」




「なにが言いたいのよ」




「確かに陽子はいつも冷静だし、頭もいいよ。でも頭がいい分だけ先回って計算しすぎる。取り乱さないし、自分が不利になるようなことはしないし、言わない。だから本当の気持ちだって言わない。それって、相手を信用してないからなの? 自分のプライドがそんなに大事?」




「……」




「なんで哲司くんが悩んでたか、分かる? ううん、悩んでたこと、気付かなかったの?」




「……」




「陽子はなんでもてきぱきしてるのはすごいけど、自分の計画通りに進めようとしているだけで、入り込む隙がないって。時々、陽子にとって自分は特別必要ってわけじゃないんじゃないかって」




「……」




「陽子は仕事でもそうじゃない。自分にも他人にも厳しくて、言ってることはいつも正論だけど、人情味がないっていうか、冷たい感じするじゃない。いくら優秀でもそれだけじゃあ人を追い詰めるのよ」




「それが理由なの?」




「……」




「私がしっかりしすぎるから、哲司は千夏と浮気して私とはサヨナラってわけ?」




「……」




「一体なにを考えてるのよ」




 聞いているうちに猛烈に腹が立ってきた陽子は拳を固く握りしめ、千夏を見据えた。怒りと興奮で陽子の目は光り、頬には赤味さえ差していた。




「千夏、私に言うべきことあると思わない?」




「……」




「ねえ? なんで会いに来たのか知らないけど、この状況でなにを言うよりも、哲司が悩んでたとか私が見栄っぱりだとか、後輩の手前いい格好してみせて、これみよがしに髪切ったなんて非難するよりも、千夏も哲司も言うことあるでしょう?」




 実際痛いところを突かれていると思った。




 おっとりした哲司とちゃきちゃきした陽子。哲司が何か言いかけるのをつい遮ってしまう自分。理屈で相手を丸めて、自分の意思を通そうとする自分。いつでも理論武装して弱さを見せないから可愛げがなく、はなから男に頼る気持ちもないもんだから時として相手を突き放す態度をしてしまう。それを哲司が「陽子にとって自分が本当に必要なのか」という疑問や不安に繋がったというなら、そうかもしれない。そして陽子はそれに気付きながら素知らぬ顔をしていたのかもしれなかった。そうしなければ陽子の得意の「スムーズ」に事を運ばせることができないと無意識に案じていたのかもしれない。




 しかしその一方でそうではないと言いたいのは、後輩達に対して自分のことは気にするなと言ったこと。あのアドバイスはこれ以上人に迷惑をかけたくなかっただけだし、本当に後輩に悪いと思えばこそだった。いい格好したわけではない。それに髪を切ったこと。これはアフロが昨夜キムチ鍋を作ったことによるテンションの余波だ。明るくなりたくて、気分を変えたくて切ったのは本当でも、感傷的な悲劇のヒロインぶって切ったのではないと声を大にして言いたかった。




 でも、今はそれより陽子が言いたいのは一つだけだった。




 哲司は自分を嫌いになったわけではないと言った。それは方便かもしれないが、それ以前に二人が重ねた年月。哲司は陽子を好きで、だから付き合っていたのではなかったのか。だからこそのプロポーズではなかったのか。




 ひどい。陽子は単純にそう思った。今はどうでも、千夏にそんなことを言うなんて。哲司に対する怒りで眩暈がする。しっかりしすぎて愛想がなくて、可愛くないなら、なぜ結婚しようなどと思ったのだ。気が変わったのならそう言えばまだいいものを。それでは非は陽子だけにあったのか。恋愛は二人のものなのに、どうしてそこに第三者が現れてさも自分こそが調停者であるように正義の大鉈をふるうのだ。




「社内に知れ渡らなければバレなかったかもしれないけどね。それでどんな噂されてるか、千夏だって分かってるでしょ。だけど噂は噂よ。本当のことなんて私だって知らないわ」




「それは……」




「理由はどうでもいい。今さら人の恋愛の経緯なんてどうでもいいわ」




「陽子と別れた後に始まったことなのよ」




「だからなによ。でも、こうなった以上、謝るのが筋じゃないの?」




「……」




「……それとも、私のせいだとでも? 私が哲司にもっと優しくて、女らしくて、甘え上手な女なら別れずにすんだし、千夏とどうにかなることもなかったとでも言うの?」




 腹が立つほど冷静になろうとする習慣はこの時も発揮され、陽子の言葉はひどく手厳しく冷たかった。声を荒げたりしないで、いつも通りの語調でぴしりぴしりと言い放つ。




 なんでこんなことになってしまったのだろう。言いながら、腹立たしさと悲しさでやりきれなかった。千夏がただ一言ごめんねとか、どうしても哲司をあきらめきれなかったとか、成り行きでそうなったとか言ってくれれば陽子もこんな態度をとらずにすんだかもしれない。それなのに、千夏から出た言葉は陽子を唖然とさせた。




「だから、哲司くんが慰謝料払うって言いに行ったはずよ」




「えっ」




「どうして断るの」




「……あれは千夏の入れ知恵だったの?」




「そんな言い方しないで。哲司くんだって陽子に悪いと思うから何かしたいって言うから」




「だから、お金なの?! もう、あんた達は一体どういう神経してるのよ?!」




 とうとう陽子は我慢しきれずに怒鳴った。




「お金払えばそれでいいと思ってるの? それで私が許すとでも思ってるの? 誰がいつそんなこと望んだっていうのよ? お金なんか欲しくないわよ!」




 陽子の激昂するのを初めてみた千夏は、あまりの激しさにおののき、咄嗟に後ずさった。




「慰謝料ってなによ。馬鹿にしないでよ。あんた達がしようとしてるのは、謝罪でもなんでもない。ただ、自分達が罪悪感から逃れたいだけじゃない。お金払えば自分達がすっきりして、後腐れなく幸せになれるってだけじゃないのよ!」




「……」




「どうせ私は可愛げのない女よ。正論ばかりのつまらない女よ。確かに私の理屈は冷たいばかりで人を追い詰めるかもしれない。でも、こんな風に人を傷つけたりはしない」




「……」




「結婚でもなんでも勝手にすればいい。もう私にはなんの関係もないし、千夏とも哲司とも会いたくない!」




 最後にそう叫ぶと陽子は洗濯籠をつかんでコインランドリーを飛び出した。




 マンションに駆け戻り、震える手で鍵を開けて部屋に入ると乱暴にドアを閉めた。心臓が破裂しそうに激しく鼓動し、耳の奥で血管がどくどくいうほど陽子は興奮し、そのまま卒倒してしまいそうだった。




 玄関に放り出した洗濯籠がころげて、床に濡れた洗濯物がこぼれ出した。




 ドアに背中を預けたまま、陽子は靴を脱ぐこともできず、天井を仰いで唇を固く引き結んでいた。




 あのカフェで哲司と会った時の自分が悲しかった。まだ好きで、ときめいてしまった自分が悲しかった。




 何度も深呼吸してからのろのろと部屋にあがり、洗濯籠を拾い上げベランダに干し、また深呼吸をした。




 夜干しは洗濯物が乾きにくい。せめて仕事で着るようなシャツは乾燥機ででもふんわり、ぱりっと仕上げなければ気分が悪い。でも、今はそれもどうでもよかった。陽子は自分自身が湿った洗濯物みたいになっていると思うと、アフロのように乾燥機の中に入り込んでしまえればいいと思った。

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